2010年6月23日(水)
「退院から2週間も経たないうちに沖縄?」──不安な顔をする担当医を、私は「休養とリハビリです」と「説得」した。病室や自宅に閉じこもり滅入っていた気分を、環境を変えることで転換したかったし、パレスチナとオキナワの接点を探る次の取材のためにも、「沖縄慰霊の日」を体験しておきたかった。「慰霊の日」前日、私は那覇へ飛んだ。
「慰霊の日」の当日、朝9時前に、ホテルまで迎えに来てくれた知人の車で私は糸満市にある「平和祈念公園」へと向かった。距離にして十数キロ。目的地に近づくと「慰霊の日」の式典会場へ向かう車の列ができていた。この式典には菅新首相も出席することになっているので、警察の警備も厳しい。
私にとって、昨年6月、「沈黙を破る」のメンバー、元イスラエル軍将校のノアム・ハユットと訪れて以来、ほぼ1年ぶりの訪問である。
私は戦没者の名前が刻まれた石碑が立ち並ぶ「平和の礎」へ向かった。式典の前に、遺族たちが沖縄戦で亡くなった家族の名前が刻まれた石碑の前で祈る姿を自分の記憶に刻みつけておきたかった。礎に刻まれた戦没者の遺族たちが三々五々、供え物の菓子や果物、酒や水を持って参拝にやって来る。多くは沖縄の喪服である黒い半袖シャツ姿である。参拝者たちは礎に名前を探し当てると、その名前に水や酒を垂らす。礎の下には、供え物を置き、線香をたき、そして跪いて祈る。祈り終えると、その供え物は持ち帰る。そうしないと、細かい文字でずらりと書き込まれた名前の数があまりにも多く、礎の下は供え物でいっぱいになってしまうからだ。
娘さんと思われる中年女性に手を引かれた年老いた老婆が目に入った。遺族の名前を娘さんが見つけると、老婆はその名を指で優しく何度も撫でた。地面に座り込むと、涙がこぼれ落ち、老婆は顔にハンカチを押しあてた。娘さんはそんな老婆を抱えあげ、礎から離れた芝生の上に移動させた。そこに座り込んだ老婆はまたハンカチを目に押し当てて泣き続けた。娘さんに声をかけた。老婆は国吉キクさん、94歳。幼い頃に、沖縄からフィリピンに家族と共に移住した。父親は麻関係の仕事をしていた。当時14歳になる弟は、現地の学校に通っていたため、英語が堪能だった。そのため戦争中、通訳として日本軍にかりだされた。米軍に追われ日本軍と共に山中に逃げ込んだが、二度と帰ってこなかった。この礎にはその弟の名前が刻まれている。もう1人の弟は沖縄に残ったが、沖縄戦の犠牲になった。その後、キクさんは沖縄に帰り、同じくフィリピン帰りの男性と結婚した。その男性は、フィリピンに先妻との子ども2人を残していた。夫婦はその後、その子どもをフィリピンから引き取り、日本国籍を取得させた。その夫は20年ほど前に亡くなった。
「礎に刻まれた名前とその人のことを記憶しているのは母だけです。もう今年が最後になるかもしれないと思い、無理を押して連れてきました」と娘さんが言った。
知花昌一さんとの待ち合わせの場所「魂魄の塔」は平和祈念公園の中にあるのだろうと思っていたら、1キロも先だった。平和運動に関わる参拝者たちは、平和祈念公園の中で行われる公式の祈念式典ではなく、魂魄の塔の式典に参加するのだという。
魂魄の塔は、最大の激戦地だったこの周辺の土地に散乱していた骨を集めて建てられた慰霊塔だという。慰霊碑前はたくさんの供え物は献花で埋まっている。その前で一心に祈る参拝者たちを撮影していたら、「土井さん」と声をかけられた。白い無精ひげを生やした知花昌一さんだった。昨年6月初旬、元イスラエル軍将校ノアムと共に会って以来、ほぼ1年ぶりの再会である。知花さんの叔父たちもこの周辺で亡くなっており、おそらくその遺骨もこの塔に納められているだろうと知花さんは言う。
慰霊の石碑前で祈念集会が開かれた。ほとんどが平和運動に携わる人たちで、その数は200人ほどだろうか。毎年同じくらいの参加者数で、減りもしないし増えもしないのだと知花さんは言う。
参加者を爆笑させたのは、沖縄を代表する彫刻家、ふさふさした白いあごヒゲ姿の金城実さんのパフォーマンスだった。沖縄の三線に合わせ、草履を手に、空手の型を取り込んだ創作踊り「金城踊り」が会場を沸かせた。
沖縄の平和活動家たちの報告が続いたが、最後にちょっとしたハプニングが起こった。沖縄で平和運動をする女性グループ「カマドゥグリの会」の代表の発言を巡る議論だった。その女性は、「日本国民の大半が安保に賛成なのだから、オキナワの基地を全部本土に持って帰ってほしい。その基地の負担を本土の日本人自身が背負ってほしい。ヤマトンチュ(本土の日本人)は平和運動のためにオキナワに寄りかかっている。沖縄にまで来てやる必要はない。本土に帰って平和運動をやればいい」といった趣旨のことを発言した。それに対して、聴衆の中にいた知花さんが反論した。「そう言うんだったら、まず自分たちが動け!」。するとその女性は知花さんに向かって叫んだ。「知花さんは命を賭けてやっているのは知っている。しかし私たちみんなが『知花さん』にはなれない。私たちは『知花さん』じゃないんです!」。私の近くにいた沖縄の中年女性たちが、マイクを持って叫ぶ「インテリ活動家」(東大卒で、沖縄では名を知られた女性活動家だという)に、
「あんな発言は時間の無駄よ。止めさせればいいのに」と苦々しい表情でつぶやいた。
集会が終わり、知花さんの車に同乗して読谷村にある彼の家へ向かう途中、知花さんが言った。
「『本土の日本人の大半が安保を支持するなら、基地も全部本土へ持ち帰れ』という彼女たちの主張はわからないわけではない。しかし、『ヤマトーンチュは沖縄ではなく、本土で平和運動をしろ、沖縄へ来るな』という主張はおかしい。そこまで言うんだったら、自分たちがまず、沖縄の運動をきちんとやってほしい。あのように言う彼らのほとんどは辺野古へは来ない。辺野古の運動を支えているのは、本土の人たちだ。彼らじゃない。私が沖縄国体で日の丸を引き下ろし焼いたときも、猛烈な右翼の攻撃から私を身を挺して守ったのは、本土の、世間でよく言われる『過激派』の人たちだった。彼らは右翼の暴力に歯や骨を折られても、私を守ってくれた。ウチナーンチュ(沖縄人)の多くは『過激派』とはいしょにやれないといった言い訳をして、私から離れていき、結局、私を守るために本気で動いてくれなかった。
糸満市から那覇市までが渋滞し、読谷村に着くのに2時間以上を要した。
知花さんの民宿「何我舎(ぬーがやー)」に着くやいなや、知花さんは服を着替え、近くの公民館へ急いだ。知花さん一家が暮らす読谷村波平区の慰霊祭に参加するためである。家から歩いて数分、完成したばかりでまだ落成式も終えていない公民館横の広場にある慰霊碑前にテントが建てられ、喪服姿の村人たちが列を作って椅子に座っている。午後5時、黙とうと共に慰霊祭が始まった。区長、青年会長らの弔辞、波平区出身の3人の村議会議員のあいさつが続く。知花さんも村議会議員としてあいさつした。その前には「二度とこのような犠牲を生む戦争は起こさないために平和を守らなければいけない」といった調子の弔辞やあいさつが続いたが、知花さんは「戦争はいけないだけではだめだ。なぜ、あのような戦争が起こったのかという原因を追求し、戦争の責任者はだれなのかをきちんと見据えなければいけない」と発言した。
慰霊祭が終わると、隣の公民館で懇親会が始まった。真新しい講堂に長机が1列に並べられ、その上にビールや泡盛が並んだ。村人たち(といっても全員が男性だが)が酒を飲みながら、語り合う。年配者たちは後輩たちに、自分が体験した、また両親から聞き知った戦争中の体験をこのような酒の席でも語り継ぐ。基地問題など政治問題も議論のテーマにのぼる。沖縄、とりわけ読谷村ならでは情景である。
遅い夕食を終えると、知花さんに、同じ村に住む彫刻家、金城実さんから呼び出しの電話が入った。今日の慰霊祭で起こった知花さんと活動家の女性との議論について詳しく訊きたいから来てくれというのだ。
同じ読谷村にある金城氏のアトリエを訪ねたのはもう9時を過ぎていた。アトリエにはすでに酔いが回った、赤いTシャツ姿(胸にはチェ・ゲバラが描かれていた)の金城氏と、彼を撮り続けている映画監督、西山正啓氏が待っていた。西山氏はこの金城氏宅に滞在し、撮影を続けているという。彼もそうとう酔いが回っているらしく、すでに顔と目が赤くなっていた。
金城氏は知花さんから事情を聴くと、「それは活動家の彼女が間違っている。昌一が言うのはもっともだ」と断言した。
金城氏は、沖縄本島に隣接する島の出身だが、大学は関西の外語大学の英語学科を卒業している。その後、30年近く、大阪の夜間高校で英語を教えた。その教師時代、金城氏が担当したのは、生活指導だった。定時制高校では、窃盗、暴力事件など犯罪に手を染める生徒たちが後を絶たなかった。そのたびに生活指導担当の金城氏は、生徒の家庭訪問を繰り返した。生徒たちのなかには、在日韓国・朝鮮人やいわゆる「部落」出身者も少なくなかった。その家庭の貧困とすさんだ家庭の実態に金城氏は衝撃を受けた。「オキナワだけが問題じゃないんだ」という意識は定時制高校時代の体験から学んだ実感である。だから、オキナワが特別なのだといった、偏狭な「ウチナーンチュ・ナショナリズム」を金城氏は嫌う。
もう1つ、金城氏が強調したのは、キューバ革命を成功させたチェ・ゲバラの存在である。胸のゲバラの絵を示しながら、「ゲバラはどこの出身か、知ってるか? 革命を成功させたキューバじゃない。アンゼンチンだ」と私たちに語り始めた。アルゼンチンの医学生だったゲバラは、カストロの演説を聴いたのをきっかに、祖国も恋人も捨てキューバへ向かった。そこで革命を成功させると、彼は次の革命の場と選んだボリビアへ向かい、そこで殺された。金城氏は、国家という狭い枠にとらわれずに革命に生きたゲバラの生き方を対比させて、偏狭な沖縄の平和活動家たちの考えを戒めたのだ。
泡盛を飲み交わしながら、金城氏と知花氏の平和運動や基地問題の議論は続いた。脳梗塞の直後で酒を控えている私は、お茶を飲みながら、2人の議論に聞き入った。酔い潰れた西山監督は机に顔を伏せて寝入ってしまった。タクシーを呼んで宿舎に戻ったのは、もう11時を過ぎていた。
長く、そして実に濃厚な1日だった。
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