2010年8月22日(日)
(この記事は映画の内容に言及しています。これから『老人と海』と『ザ・コーヴ』を観る予定で内容を知りたくない方は鑑賞後にお読みください)
日本最西端に位置する沖縄の与那国島。台湾の島影が見えるその島に住む82歳の老漁師が、小舟で200キロ近いカジキに挑む姿を1年近く追ったドキュメンタリーである。ヘミングウェイの小説「老人と海」をイメージし、その舞台となったキューバのハバナ港と緯度がほぼ同じ与那国島でドキュメンタリー映画としてその小説の世界が映像化された。もう20年も前に制作された映画だが、その鮮度はまったく落ちてはいない。
この映画が私を引き付けたのは、沖縄の海の美しさだけではない。登場する漁師たち、島民たちの“美しさ”だ。私は初めて“漁師”の姿と生活、そしてその仕事を目の当たりにした。私がこれまで見聞きしてきた漁師は、大型船で大きな網を機械で海に放ち、大量の魚がかかったその網をまた機械で巻き上げる、機械操作員のような漁師の姿だった。しかし、この映画に登場する漁師は、大型カジキと一対一で対峙し格闘する生身の人間の姿である。その格闘のための“武器”となる大きな針やモリも、自らの手で研ぎ、結い、作りあげていく。生活を支える漁、その成否を左右する自然と、それを支配する神を畏れ敬う漁師たちとその家族の敬虔さと素朴さが胸を打つ。漁と自らの命を預ける小舟を塩で清める老漁師、海に出た夫の無事を一心に神棚に祈る老妻、漁に出る前のお茶一杯にも感謝の祈りを忘れない老夫婦、そして畢竟は、ハーリー祭りである。屈強な男たちも、老婆も、幼女も、港の住民全体が一体となって競い合いに熱狂し、神に感謝する。その生き生きとした人びとの表情がまばゆいばかりに神々しく、心を揺さぶられる。一方、最先端の物質文明とその価値観にどっぷりとつかり、それが万能のように錯覚し、人間を超える存在を畏れ敬う謙虚さを失ってしまっている都会の私たち。その薄っぺらで傲慢な姿を、“鏡”に映し出され目の前に突き付けられる。
自分が生きる糧を、海から自らの力で得て、それを与えてくれる海と自分を守ってくれる神に感謝して淡々と日々を送る。シンプルなその生の営みに、私は自分自身がいっぱい身につけてしまった虚飾と虚栄、そしてそれと引き換えにどこかに置き忘れてしまった素朴な生きる手ごたえ、シンプルな生きる喜びを思い起こさせられるのである。
この映画の主役はもちろん1年後にやっと自分の身体の何倍もの巨大なカジキを釣り糸一本で仕留めた老漁師であるが、もう1人の陰の主役は老漁師の老妻だろう。寡黙で、老漁師に影のように寄り添い、見守り支える。周囲の若い漁師たちが巨大カジキを仕留めて意気揚々としている中、不漁で淋しげに小舟で港に戻ってくる夫。悔しさ、無念さを照れ笑いでおし隠しながら、船上で汗まみれの仕事着から真っ白なワイシャツに着替え、陸に上がる夫をそっと労わる。この老妻には、大漁でも不漁でもいい、老夫が無事に帰ってきてくれさえすればいい。その日のわずかな収穫である魚を両手に提げて、老夫婦が歩いて帰宅する、あのシーンがいい。精一杯働いた充足感、期待したほどではないが、今日の食事分には十分な収穫を得た安堵感と感謝、慎ましく、精一杯、質素に、老夫婦が支え合って生きる姿が凝縮されたような2人の歩く姿、それがえも言えぬほど美しいのだ。“生きる営み”とはこれほどシンプルで、しかしこれほど神々しいのである。
そんな老妻の前に、夫の身体の何倍もありそうなカジキが現れる。しかも80歳を超えた夫が仕留めたカジキなのだ。妻は歓喜する表情は見せない。ただ、たまげたような、少し緊張した表情だ。釣りあげられたそのカジキの巨体の前を通り過ぎるとき、老妻はちらっと振り返る。うれしそうな表情ではない。やはり驚き緊張したようなこわばった表情だ。妻が巨大カジキを仕留めた夫への誇りと喜びの表情を見せるのは、祝宴の席で、酒に酔って踊り出す夫に、手拍子するときだ。陽気に踊る夫を妻が優しい眼差しで見つめ、笑みを浮かべて打つ手は、夫への称賛の拍手のようにも見える。
『老人と海』という映画は、老漁師の巨大カジキとの格闘をテーマにしたものではないと私は思った。カジキ漁民たちの仕事と生活を淡々と描きながら、人間のシンプルな“生の営み”の美しさと豊かさを描いた映画である。
この映画と対照的なのが、映画『ザ・コーヴ』である。和歌山県太地のイルカ漁を糾弾する内容で、「反日映画」として劇場公開を阻止しようとする勢力の動きでこの夏、大きな話題になった。
『老人と海』と見比べると、この映画の特徴が顕著に見えてくる。同じく漁師を描いた2つの映画の決定的な違いは、前者と対照的に、後者では漁師が“生を営む人間”として描かれていないことだ。イルカ漁の「悪」の引き立て役でしかない。この映画の目的が「イルカ漁の糾弾」である以上、漁師の“人間性”を描くことは目的に逆行することになるから、あのように表現したほうが「効果的」なのだろう。また観る人の溜飲を下げさせてくれる「勧善懲悪」のスリリングな映画はわかりやすく、大衆に受け入れられるだろう。西部劇などハリウッド映画に慣らされているアメリカ人ならなおさらだ。
多くの映画関係者たちが指摘するように、娯楽映画としては、実にうまくできた映画だと私も思う。観客をぐいぐい引っ張っていくあの「編集技術」は学ぶところはある。しかし、見終ってもまったく感動の余韻は残らなかった。むしろいいようのない不快さが澱んで残った。なぜなのか。その理由の1つは、漁師の“顔”“生活”“心情”がまったく見えず、一方的に否定され冷酷非情の「悪人」としてしか描かれていないからだろう。つまり「イルカは賢く、人間に近い感情と感覚を持っている」「そのイルカを捕獲したり殺したりするのは非情で冷酷、ましてそれを金儲けの手段にするのは許せない」「そのイルカを救うことは、どんな手段を使っても『正義』だ」という論理を一方的に押しつけるのである。
この映画は、同じく今年のアカデミー賞を受賞した『ハート・ロッカー』に類似していると私は思った。私はイラク戦争での米兵を描いたこの映画を「西部劇」と評した。
この映画は、「反乱軍」は「悪魔」、それと対峙する主人公の米兵たちは「ヒューマンで、テロと身を挺して闘う英雄」として描きだす。
アメリカ国民に受け入れやすいこの単純化された構造の描写は、「西部劇」以来の伝統なのかもしれない。困難を乗り越え「西部を開拓する白人」と、それを阻もうとする「悪魔のインディアン」。最後にはその敵を悪戦苦闘の末に淘汰し「開拓」を成就する「英雄」……。アメリカ人の観客は窮地に追い込まれる白人の姿に手に汗を握り、最後には溜飲を下げ拍手喝采する。しかし、そこには、白人が原住民にとって、「開拓」の名の下で自分たちの土地と生活基盤を奪い取る“侵略者”である現実は見事に消去されるのだ。この映画でもイラク戦争の経緯も、住民にとっての米軍占領の意味あいもまったく描かれず、「『爆弾テロ』と闘う勇敢な米兵」だけに光が当てられる。しかも米兵の心情は細かく描かれても、イラク人の“人としての顔”“心情”は見えない。描かれるのは「テロリスト」だ。だから観る人は、占領される住民の屈辱と怒りなどその心情に思いを馳せることもできない。(『キネマ旬報』2010年3月号)
同質の2つの映画『ザ・コーヴ』と『ハート・ロッカー』に共にアカデミー賞が与えられたのは偶然ではないような気がする。「大量破壊兵器の排除」という大義を失い、その後の混沌したイラク情勢を招き、一方、「テロリストを撲滅する正義の戦争」だったはずのアフガン戦争もその後、先の見えない泥沼状態となった現在、これらの映画は、ベトナム戦争後と同様に自信と自尊心を失いかけたアメリカ国民を、「やっぱりアメリカ人の『正義』は存在し、有効なのだ」と鼓舞してくれる。だからこそ、アカデミー賞で権威づける必要があったのかもしれない。それにしても、ベトナム戦争のさなかに、米軍の醜部を暴き出したドキュメンタリー映画『ハーツ・アンド・マインド』にアカデミー賞を与えるだけの見識と寛容さを持っていたアメリカ映画界、いやアメリカ社会全体が、なぜここまで狭量で独善的な状態に陥ってしまったのだろうか。
「映画は“面白い”ことが一番」という声もある。私は『ハート・ロッカー』に関する先の批評の中にこう書いた。
映画として「緊迫、恐怖、勇気を描いた傑作」「本能を揺さぶるアクション映画の第一級作品」であっても、それが問題の本質を見誤らせかねない映画なら、無邪気に称賛ばかりはしてはいられないはずだ。ましてや、戦争と占領で何万というイラク人住民が犠牲になり、今なお傷痕が疼き血を流し続ける“イラク”を描く映画ならなおさらである。それが度外視され、「映画の面白さ」「出来栄え」だけで映画が評価され由緒ある賞などで絶賛されるなら、アメリカ映画界の体質と見識そのものが問われかねない。
私は『ザ・コーヴ』を見終ったとき、こんな思いが浮かんだ。
「この映画の中に登場するスパイ作戦のような大掛かりな器材と、一流のダイバーや映像技術者などたくさんの優秀な専門家を動員するために、どれほどの資金が費やされたのだろう。どこから、どのようにしてあの莫大な資金は集められたのだろう」と。
いつも取材・制作費に悩み、資金難のために独りで取材・撮影・編集までこなさざるをえない私のようなフリーランスのドキュメンタリー映画制作者には、羨ましい限りである。
その一方で、こういう思いも抱いた。
「あれだけの器材と人材、そしてその盗撮力、撮影技術力、編集力、さらにそれを支えるあの資金力で、パレスチナのガザ攻撃の被害実態や、アフガニスタンで『国際治安支援部隊』の『誤爆』で犠牲になっている住民の撮影取材を敢行したら、どんなに素晴らしいドキュメンタリー映画ができることだろう。でも彼らにとって、イルカはそれだけのものを総動員するに値する存在であっても、パレスチナやアフガニスタンの住民は、イルカにも及ばない存在なのかもしれない」と。
「イルカの生命を守るため」に、あれだけの行動を起こすアメリカ人たちの姿を見て、映画を観る人たちはその「動物の生命をあれほど慈しむ優しさ」に感動するにちがいない。しかし「屈折している」私は、むしろ疑問が湧いてくるのだ。
「あれほど生命を慈しむ優しさを持つ人たちの関心が、どうしてイルカだけに注がれるのか。もっと生命の価値の重いはずの同じ人間へとなぜ注がれないのだろうか。自国が直接、または政治的、経済的、武器など物質的に支援することで間接的に“加害国”となっている地域で、その“被害”となっている“同じ人間”へと、どうして向かわないのだろうか」と。
映画『ザ・コーヴ』にこういう見方をする私ではあるが、この映画の上映を実力で妨害する動きとその勢力には、私は断固、反対する。彼らは、独善的な「愛国」「国益」論を“錦の御旗”に掲げ、この映画を劇場側が上映すべかどうきか、また市民に観るべきかどうかの判断を実力で押しつけようとする。上映すべき映画かどうか、また観るべき映画かどうか、映画の内容をとう捉えるのかという判断の自由を、どんな権利があって劇場や一般市民から奪うのか。
また「愛国」「国益」の基準も絶対的なものではありえない。例えば、戦前、「愛国」「国益」の名の元に、「正義の戦争」という国家の宣伝に疑問を持つ国民は暴力で押しつぶされ排除されていった。しかし戦争の悲惨な結果を見ればわかるように、結局、戦前に“錦の御旗”にされた「愛国」と「国益」は、実際には“反・愛国”であり“国益破壊”だったのである。
映画上映を力で阻止しようとする勢力は、自身が敵として標的にしているはずの『ザ・コーヴ』の制作者と、皮肉にも同質のように私には見える。『ザ・コーヴ』上映を阻止するために、映画支配人の自宅に押し掛け、支配人の老いた母親を恐喝する行為に象徴されるように、自分は「正義」で相手は「悪」、その「敵」をたたくためにはどんな手段も許されるのだという独善的で狭量な思考パターンは、まったく同じように見えるのである。
【『老人と海』予告編】
2010年7月よりディレクターズ・カット版を全国順次公開中
『老人と海』公式サイト
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