Webコラム

日々の雑感 188:
レバノンへの旅(3)

2010年9月9日(木)

 ベイルート内のキャンプは外国人も自由に出入りできるが、南部のパレスチナ難民キャンプは、レバノン軍に包囲・監視され、許可なしでは入れないと聞いた。S氏が紹介したパレスチナ人青年Sの案内で、ベイルート内にあるパレスチナ人難民キャンプ「シャティーラ」に向かった。1982年9月、イスラエル軍の支援を受けたキリスト教徒右派のファランジストらによる「サブラ・シャティーラ虐殺」の現場である。
 キャンプの入り口付近から、まず目に飛び込んできたのは1982年当時に破壊されたビルだった。数階建てで、ちょうどガザ攻撃後の崩れかかったビルのような光景だ。PLOの施設で、当時のイスラエル軍とレバノン軍の攻撃を忘れないために“記念碑”として残しているのだとSが説明した。
 入り口で、Sの友人と出会った。彼はシャティーラ難民キャンプ内のイスラミック・ジハードのリーダーだという。パレスチナ占領地での闘争組織がそのまま、この難民キャンプでも存在している。外から見えるキャンプ内の建物には、ハマスの緑の旗や黄色いファタハの旗が翻っている。まるで占領地の難民キャンプにいるような気分になる。
 壁と自動車修理工場との間の幅数十センチの細い通路を通って、キャンプ内へ入った。まるで別世界へ移動する入り口のような通路である。1キロ四方に1万3000人が暮らすこの難民キャンプの建物の多くは数階建てだ。敷地が限られ、人口が自然増加すると、横に広がれず縦に伸びていくしかないためにこうなるのだという。
 ベイルートの繁華街ハムラ通りのように華やかなで整備さえた街並を見慣れ始めると、シャティーラの雑然とした様、汚さが余計に目につく。キャンプの大通り、さらに複雑に入り込む路地を歩くと、その不潔さ、貧困の度合いが一目瞭然だ。まず驚くのは、路の両側から迫ってくる建物と建物の間の頭上を、埋め尽くするように複雑に絡みあって走る電線だ。キャンプの外から電線を引いて電気を盗み、それをキャンプ内で分け合っているとSが説明した。西岸やガザの難民キャンプでも目にすることのない光景だ。それは、レバノンのパレスチナ人難民が置かれている劣悪な社会的、政治的な状況を象徴しているように見える。路地の狭さ、両側の建物のたたずまいの汚さ、入口にたむろする住民の格好、入口から垣間見られる住居の貧弱さと生活の貧困の度合い、どれもこれも占領地よりはるかに厳しい状況にあることがわかる。
 狭い路地の両側の壁のあちこちに、政治組織のポスターが所狭しと並んでいる。若い頃のアラファトのポスターも方々に貼ってある。現在のPLO議長アブ・マーゼン(マフムード・アッバース)の写真もある。そのポスターを差して、Sが「大泥棒だ」と言った。“パレスチナ人”への海外からの莫大な援助の恩恵をほとんど受けることのないレバノンのパレスチナ人たちの、パレスチナの自治政府に対する激しい怒りだろう。
 他にもPFLP(パレスチナ解放人民戦線)の若い頃のジョージ・ハバッシュ、イスラエルの獄中にいる現在のリーダーの写真も壁の一角を飾っている。とりわけキャンプ内で頻繁に目にするのはイスラミック・ジハードのポスターだ。その中に2002年4月、イスラエル軍によるジェニン難民キャンプの包囲攻撃時の抵抗武装勢力のリーダーだったタワルベのポスターもある。ハマスのポスターにはイスラエルに暗殺されたハマスの創設者アハマド・ヤシン師や同じく暗殺されたハマスの指導者、ランティーシの写真がポスターを飾っている。PLOに見捨てられたレバノンのパレスチナ人は、パレスチナの占領地のイスラム武装組織に期待と夢を託しているのか。
 15歳前後だろうか。たばこを吸う少年たちの一団をみかけた。私の先入観のせいだろうか。その少年たちの目が虚ろに見える。少年らしい生き生きとした生気を感じさせないのだ。どこか大人び、荒んでいるように見える。夢を持とうにも持てる環境はない。まるで分厚い天井の下で、ただ生存し続けるためだけの生活を送る。それがレバノンのパレスチナ人難民の現状なのかもしれない。
 現在の「サブラ地区」は難民キャンプではなく、市場になっている。ただ、日本人医師・信原孝子さんらが活動していた「ガザ病院」の建物は健在だった。今は病院ではなく、住居に変わっていたが。私がその建物にカメラを向けようとしたら、虐殺事件の数年後にその病院で生まれたというSが制止した。

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