2010年9月15日(水)
今日から、シャティーラ難民キャンプの青年たちへのインタビューを開始した。通訳とコーディネーターとしてNGOから大学生の青年を紹介してもらった。
彼が真っ先に案内したのはサブラ・シャティーラ虐殺の犠牲者の集団墓地だった。鉄の門を通るとそこは小さな広場だった。その下に千人単位の犠牲者たちの遺体が埋葬されているという。踏み入っていいのかと躊躇したが、その先にある記念碑に行きつくにはそこを通るしかない。虐殺直後の現場、遺体がここに埋葬される様子を撮った写真が看板となって展示されている。その虐殺直後に撮られた少女の遺体の写真は見覚えがある。広河隆一さんの写真だろう。
ツアーを企画・主催したNGOは、レバノンの大半の難民キャンプに支部をもち、その施設で幼稚園や女性の自立支援の活動を続けている。私たちはシャティーラ難民キャンプの支部を訪ねた。そのソーシャルワーカーに案内されて数人の青年や女性たちにインタビューすることができた。
ジハード(26歳)はキャンプ内で理髪店を経営している。1ヵ月半前に、大学を卒業した女性と結婚したばかりだ。
「UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)学校で9年生(中学3年生)になったとき、この仕事を選びました。もちろん、いい仕事につくために進学して勉強を続けたかった。しかし自分が生まれて6ヵ月後に父が38歳で急死し、8人の子どもを抱えた母が、幼稚園の掃除婦として懸命に働いてきました。しかも兄の1人が38歳で病気で亡くなってしまいました。母は歳をとり、私が他の兄弟たちを養わなければならなかったんです。それで選んだのが理髪師でした。パレスチナ人に職業の制限がある中で、理髪師は私たちパレスチナ人が比較的簡単に手にすることができる仕事なんです。
子どもの頃の夢ですか? そうですね。エンジニアになりたかったなあ。でも9年生になったとき、もうそれ以上、勉強を続けることができなかったんです。
ここレバノンでは、パレスチナ人に職業の制限があります。例えば妻です。彼女は大学の経済学部を出ました。でも今なお就職活動を続けています。パレスチナ人だからです。もし履歴書を提出し、本人がパレスチナ人だとわかると無視されてしまうんです。もし履歴書の『国籍』を空白にしていると、採用希望の会社から呼び出されて『国籍』を訊かれます。そしてパレスチナ人だとわかると仕事はまず得られないんです。
もしレバノンで仕事を得るのが難しければ、湾岸諸国など海外に出ることは考えないかって? それは何度も考えました。そして試みてもみました。例えばアブダビで働くことを考え、実際、必要な書類を送ったんです。しかし私たちがパレスチナ人だとわかると、アブダビ側に入国ビザを出してもらえなかったんです。
いま願っていることは、このように制限される状況が改善されることです。しかし今の段階では難しいでしょうね。結婚して家族への責任も以前よりももっと大きくなっているんですが。
残念ながら、今のところ誰も、そしてどの組織も助けてはくれません。私がパレスチナのどの政治組織にも属していないので、援助してもらうことが難しいんです。
この現状への怒りはどこへ向かうのかって? まずPLOです。PLOからまったく支援はありません。期待などできない。どんなに支援を求めて行っても、何もしてくれないんだから。
UNRWAもパレスチナ人を支援してくれないんです。例えば叔父は手術で1万3000ドルかかった。しかしUNRWAが支援してくれたのはほんの1000ドルだけでした。また理髪店を改造したり増築しようとしてもUNRWAはまったく支援などしてくれないんです。
パレスチナ人に様々な差別政策をするレバノン政府に対しても、もちろん怒りを感じます。
希望が持てない多くの若者たちがマリファナやハッシシなど麻薬や犯罪に走ります。自分たちの現実の生活を忘れるためにです。幸い私自身はそのような道には入らなかった。神そして母のお陰です。
中にはモスクつまり信仰に向かう者もいます。しかしレバノン政府は、宗教的な若者を、テロリスト集団に属していると疑い、逮捕することもあります。
将来生まれてくる子どもには自分と同じような道を歩ませたくはありません。十分に教育を与え自分の未来を切り開いてもらいたいと願っています。将来、レバノンでパレスチナ人の権利が改善され、尊厳を持って生きていけるようになることを望んでいます。
イスラエルとの「和平」ですか。私はパレスチナをユダヤ人と分け合うことには反対です。そこは私の“祖国”なんです。“故郷”へ戻りたいんです。レバノンでは、私は“難民”でしかないんです。
パレスチナを取り戻すには、交渉ではなく、武力で解放するしかないんです。それがパレスチナ解放の正しい道です。もし将来の息子が武装組織に入りたいと言ったら、もちろん賛成しますよ」
フセインも26歳、UNRWAが運営する医療検査技術の専門学校を卒業した。2006年からベイルート市内の病院で働き始めたが、その病院が閉鎖され、失業してしまった。一方、大学で英文学を勉強している。
「私の祖父は30歳の頃、パレスチナ北部の村からレバノンへ逃れてきました。その祖父は私が生まれる前に亡くなりましたが、祖母から故郷のパレスチナについて、たくさんのことを聞いて育ちました。そこで人びとがどんな生活を送っていたのか、パレスチナの伝統文化とはどういうものなのかも。その話から自分の“故郷”についていろいろ想像しました。また大きくなってからは、書物やテレビ、インターネットから、さらにパレスチナを実際に知っている人からの話を通してパレスチナについての情報を集めました。そして私自身はそこに行ったことがないけど、強い“郷愁”さえ感じるんです。
祖国を実際知らないのに、どうして自分を“パレスチナ人”だと自覚するようになるのかって? それは、自分のルーツがパレスチナにあるからです。レバノンで暮らしていても、自分たちはレバノン人にはなれない。生まれ育ったレバノンは、私にとって“第二の故郷”です。でも私はレバノンの市民権を得ることはできません。パレスチナ人だからです。私はここで、『外国人』として暮らしているんです。
でも、たとえレバノン政府が方針を転換してパレスチナ人にレバノン市民権を与えるようになったも、私はそれを受け入れるつもりはありません。もしそれを受け入れたら、パレスチナに戻れなくなるからです。私たちには帰還権があるんです。私たちがここレバノンで望むのは、仕事の機会などの生活上の権利です。
今は失業中で、ベイルートの病院での検査スタッフとしての仕事を得ようと就職活動をしてきました。しかし病院の中にはパレスチナ人を採用しないところが多いんです。もちろん政府系の病院はパレスチナ人を受け入れません。どんな公的な機関もパレスチナ人は採用しないんです。だから私立の病院を探すしかない。私はいくつかの私立病院の検査部門での仕事に応募しました。ある時、新聞の広告に検査技術者の求人広告を見つけました。それでその病院に電話をしたんです。すると『パレスチナ人は受け入れられない』という返事でした。求人のときには国籍を明らかにしなければならないから、私は『パレスチナ人です』と言いました。すると電話口の病院の担当者は『パレスチナ人は受け入れられない』とはっきりと答えたんです。ストレートにそういう答えが返ってきました。私立病院の中には、パレスチナ人に対する差別を表ざたにしたくないから、履歴書だけを受け取り、『後で電話をするから』と答えるところもあります。しかし決して電話はかかってきません。この2ヵ月間で、私はベイルート市内で20カ所ほどの病院に応募しました。中には『パレスチナ人は受け入れない』と直接は言わない病院もありました。ただ履歴書を送っても、2度と電話をしてこなかった。ほんのわずかだが、パレスチナ人を採用するところもありますが、多くの病院ではパレスチナ人を受け入れないんです。
だから今はベイルート市から南に下ったサイダ市で仕事を探しています。一方、北部のトリポリは往復に6時間もかかりますから、そこで仕事が見つかってもたいへんなんです。もし給与が500ドルだとすると、下宿代に200ドル程度かかります。それに食べ物など生活費を入れると、給与はわずかしか残らなくなってしまいます。
レバノンを離れて海外に出ることも考えました。でもパレスチナ人がヨーロッパに出ることはとても難しいんです。湾岸諸国もサウジアラビアやカタール、クウェートなどの国はパレスチナ人を受け入れません。アラブ首長国連邦もパレスチナ人を受け入れないところが多いんです。
英文学の勉強のために通った大学には、パレスチナ人はほんの6人か7人でした。レバノン人の学生の中には私たちパレスチナ人に対して優越感を抱く者もいました。もちろん中には我われを弁護してくれる学生もいましたが。
一般的にレバノン人はパレスチナ人に自国民と同じ権利を与えられることを望みません。あるレバノン人でスンニー派イスラム教徒の女子学生といっしょにいたとき、アルメニア系の学生が、『パレスチナ人に市民権を与えるべきだ』と主張しました。するとその女子学生は『いいえ、パレスチナ人に市民権を与えるべきではないわ』と反論しました。パレスチナ人の私の目の前で、です。彼女は『パレスチナ人に市民権を与えると、レバノンが混乱する』と言うんです。中にはレバノン国内のキリスト教徒とイスラム教徒の人口バランスが崩れてしまうという理由で、パレスチナ人に市民権を与えることに反対する者もいます。つまりレバノンでスンニー派イスラムの人口が増えてしまうというんです。
またこんなこともありました。ある病院の検査室に実習に通っていたころ、ある患者が検査室に入ってきました。私がその患者から採血しているとき、その患者は『あなたはどこの出身か』と訊きました。私は正直に『パレスチナ人です』と答えました。すると患者は『パレスチナ人はイスラエルから土地を奪われ、抑圧されている犠牲者ですね』と同情をこめて私に言いました。するとそこにいたレバノン人の医者が『世界の中にはパレスチナ人以上に抑圧されている人びとがたくさんいて、パレスチナ人が特別というわけではないよ」と言ったんです。この医者はパレスチナ人に対する差別意識からそう言っているんだとわかりました。
現状に絶望したパレスチナ人の若者たちが麻薬や犯罪に走る例はたしかにあります。とりわけ難民キャンプではそうです。私もできればキャンプに住みたくはありません。ここに1ヵ月でも住んでみたら、惨めな気持ちになり、絶望感を抱いてしまいます。
失業が犯罪を生み出すことも事実です。でも私は失業しているけど、そのような犯罪に走ったりしません。法に反することだし、私たちの倫理や宗教に反することだからです。だから私はなんとしても仕事を探し、どんな仕事でも懸命に働くつもりです。そのような犯罪に染まりたくはありません」
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