Webコラム

日々の雑感 193:
レバノンへの旅(8)

2010年9月17日(金)エレン・シーゲルの語り

 サブラ・シャティーラ難民キャンプがイスラエル軍の戦車群に包囲されたのは、1982年9月15日だと言われている。その翌日16日からキリスト教徒右派の武装組織ファランジストによる住民虐殺が始まった。それは昼夜を問わず18日まで3日間にわたって続き、犠牲者の数は千人単位に及んだという。
 あれから28年、この日ベイルート市内、サブラ・シャティーラ難民キャンプに近いカルチャーセンターで追悼集会が開かれた。難民キャンプの住民や海外からの代表団など数百人が集うホールでPLOレバノン代表や遺族たちがスピーチした。その後、数百メートル離れたシャティーラ難民キャンプ入口近くの集団墓地まで追悼のデモ行進が行われた。集会の参加者だけではなくこのデモのために集まったパレスチナ人住民なども加わり、行進の列は道路をいっぱいに埋める長い列となった。難民キャンプの少年・少女たちの鼓笛隊に先導されて行進の列の先頭には、虐殺された夫と息子の写真を掲げる初老の女性がいた。28年の年月が過ぎた今も、愛する肉親を失った心の深い傷が疼くのだろう、その顔は泣きださんばかりだった。
 その行進の列に、当時、難民キャンプ内のガザ病院の地下室で三日三晩、負傷者した住民たちの治療に当たっていたユダヤ系アメリカ人、エレン・シーゲルもいた。28年間、欠かさずこの追悼集会とデモに参加してきたエレンに、集団墓地でその思いを訊いた。

Q・ここへ来て、どんな光景を思い出しますか?

 事件当時、連行されてここを歩いていたとき、ここら辺がとても静かだったことを思い出します。通りには誰もおらず、ただ道端に死体が見えるだけでした。この集団墓地あたりにはかつて家が建っていました。私たちは歩いてここまでやってきたのです。以前建っていた家々の半分は破壊され、イスラエル軍のブルドーザーが行ったり来たりしていました。
 虐殺が起こっていたとき、病院の中にいた私は何が起こっているのかわかりませんでした。2日ほどずっと銃撃音が聞こえていました。その周辺が照明弾でライトアップされ、パン、パン、パンという銃撃音が聞こえていました。私たちは運ばれてくる負傷者たちの治療に当たりました。
 最初、住民は病院に逃げ込んできました。しかしファランジストが病院に近づいていると聞いて、住民は病院から逃げ出しました。病院に残ったのは外国人の医者と看護師と動くことのできない重症の患者たちでした。私自身は、実際にファランジストによって住民の咽喉が切られたり頭部を撃たれるシーンを見たわけではないけど、病院に逃げ込んできた負傷者たちの中にはそれを目撃した人たちもいました。

Q・28年経った今も、あなたはここへ通い続けています。他の人たちはそんなことはしない。5年や10年だったら、それはできるかもしれないけど、28年経った今もあなたはここへ通い続けている。何がそうさせるんですか?

 それは、私があの虐殺をは生き残った者だからです。殺されていった他の人のことを思い起し、いとおしむためです。もうここに存在することができない人に畏敬の念を示すためです。
 私はここで起こったことを思い出すために通い続けています。それは私にとってとても重大なことなんです。またこの事件はイスラエルが関わることだからです。つまりイスラエルの建国の結果がこの虐殺だったのです。現在もパレスチナ人は、将来についてまったく希望が持てないままに、このひどい環境の難民キャンプで暮らしているんです。
 なぜここへ通い続けるかって? それは、私のようなユダヤ人にとって、この虐殺を思い起こすことはとても重要なことだからです。それは単にパレスチナ人に起こった歴史的な出来事ではなく、イスラエルの歴史の一部にもなっているからです。
 サブラ・シャティーラ虐殺にイスラエルが深く関与しました。難民キャンプを包囲し、誰一人キャンプを出ることを禁じ、空中に照明弾を放ち、ファランジストが難民キャンプ内をはっきり目視でき虐殺できるように手を貸しました。またイスラエル軍は駐屯するビルの上から難民キャンプ内の様子を無線でファランジストと連絡しあっていました。イスラエル軍が難民キャンプ内で何が起こっているのか、すべてを知っていたことは疑いの余地もありません。それでも虐殺を止めようともしなかったのです。ですから、イスラエルには虐殺に対する間接的な責任があります。それは戦争犯罪であり、人道に対する罪です。それはユダヤ人にとって、アラブ人を巻き込んだ恐ろしい出来事です。虐殺された遺体を埋葬するための場所も提供し、遺体を入れる袋さえ提供したんです。その場所にはたくさんの遺体が埋められました。私の知人のパレスチナ人の中には殺された母親の遺体を探して、遺体の列の中を次々と探し回った者もいました。その遺体はバラバラになっていたのです。恐ろしい光景でした。

 外国人の医者や看護師たちが生き残った唯一の理由は、イスラエル軍の将校の1人が建物の上の方から私たちが連行され殺されようとしているのを目撃したからです。私たちは、ファランジストに壁の前に立たされ、まさに撃たれる寸前でした。それをイスラエル軍の将校が見ていたのです。「なんということだ! 彼らは金髪の白人で、殺させるわけにはいかない。パレスチナ人は何人殺してもかまわないが、彼ら外国人は殺すわけにはいかない」と思ったのでしょう。その将校は撃とうとするファランジストに「止めろ!」と叫んだのです。
 その後、私たちはパスポートを取り上げられ、列を作って歩かされ、死体の横を通り過ぎました。私は途上の光景をずっと見続けていました。国連の建物の前を通り過ぎ、クウェート大使館前を通りました。そしてイスラエル側が駐屯する場所へと移動させられました。イスラエル軍兵士は本国から新聞を持ち込んでいました。軍が供給する缶詰がたくさんありました。
 イスラエル兵は難民キャンプから出てきた私たちに、「そこで何が起こっているのか」とはまったく訊きませんでした。質問する必要はなかったんです。難民キャンプで起こっていることを完全にを把握していたのですから。
 私は偶然に生き残ることができました。あの恐ろしい体験の中を生き残ったパレスチナ人と同じです。だからあの虐殺事件を思い起こし、それを外の世界に向かって語り、知らせ、それによって、私たちの証言をあの虐殺事件の記憶全体の一部にしなければならないのです。

Q・自分がユダヤ人であることで、特別の責任感を感じますか?

 間違いなく、責任を痛感します。あの事件を思い起こし、語り、知らないパレスチナ人に伝えることはユダヤ人としての私の義務です。「私はユダヤ人だけど、あなたたちの敵ではなく、友人なのです」ということもです。ユダヤ教は私の宗教です。でもイスラエルは決してユダヤ教を代表する存在ではなく、決して私を代表する国でもありません。イスラエルがパレスチナを占領し住民に暴力を振い、拘束し、拷問する。そんなイスラエルは決して私を代表してはいないのです。

Q・そもそも、ユダヤ人であるあなたはなぜここへボランティアとしてきたのですか? サブラ・シャティーラでパレスチナ人を援助するためにやってきたんですか?

 それは私自身のためでした。ユダヤ人としての私の罪を償うためです。利己的な行為かもしれませんが、1人の人間として、またユダヤ人の1人として、後ろめたさからいくらかでも解放されて、心に安らぎを感じるためだったんです。

Q・アメリカでは多くのユダヤ人がイスラエルを無条件で支持すると聞きました。あなたのようなユダヤ人はとても少数派だと思うのですが?

 以前はそうだったでしょうが、もはやそれは、決して少数派ではありません。かつては「自己嫌悪するユダヤ人」と呼ばれていたけど、今はますます声を挙げるユダヤ人、そんなユダヤ人の組織が出てきています。イスラエル政府の政策に反対の声を挙げるユダヤ人です。
 多くのユダヤ人がレバノンにおけるパレスチナ人の状況を知っているとは思いません。彼らの存在は1948年のイスラエル建国の結果なのです。だからユダヤ人はその難民と難民キャンプで生まれ育ったパレスチナ人たちが現在がどういう状況にあるかを知る必要があります。彼らは心から、ヤファやハイファやナザレ(注:いずれも現在イスラエル領)など故郷に戻る夢を語るのです。そんな彼らを観ることは胸が痛むことです。

Q・ここへ戻ってくることはあなた自身を癒すことでもあるのですか?

 そのとおりです。ある部分、自分を癒すためです。そしてここでは、自分がユダヤ人であることを一層強く自覚させられます。

Q・アメリカの他のユダヤ人はあなたの行為を知っていますか?

 知っているユダヤ人はたくさんいます。

Q・反応はどうですか?

 素晴らしいことだと思っています。私がこちらへ来る前に、彼らは難民キャンプのパレスチナ人によろしく伝えてくれと頼みました。私の知っているイスラエルの平和運動の人たちもそうでした。いつかここにイスラエル人を連れてこられたらと願っています。しかし今はイスラエル国籍のユダヤ人はレバノンに入国することさえできていないんです。

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