Webコラム

日々の雑感 194:
レバノンへの旅(9)

2010年9月18日(土)ドクター・スゥイの語り(1)

 ベイルートでのエレン・シーゲルとの偶然の再会は、もう1人の旧い知人との再会の機会をもたらした。アン・スゥイ・チャイ(ドクター・スゥイ)。シンガポール系英国人の女性外科医である。彼女もまたサブラ・シャティーラ虐殺事件当時、エレンと同様、ガザ病院でパレスチナ人住民のために医療ボランティアとして現場にいた生存者である。
 ドクター・スゥイには、実は21年前の1989年、広島で会っていた。当時、広島のYMCAビジネス専門学校で英語教師をしていた私は、あるNGOによって日本に招聘されたドクター・スゥイが広島を訪ねたとき、その案内を買って出た。彼女を原爆資料館など原爆に関する施設を案内し、私が親しかったある老被爆者との対話をアレンジした。広島時代のアルバムをめくると、当時、私が教えていた専門学校の女子学生たちと、当時まだ41歳だったドクター・スゥイ、そして今では想像もつかないほどホッソリした、まだ30代後半の私が映っている記念写真が残っている。

 そのドクター・スゥイも、エレン同様、サブラ・シャティーラ虐殺の記念日には、この28年間、毎年現地を訪れている。今年も記念式典の前日、ロンドンからベイルートへやってきた。彼女とは21年ぶりの再会である。
 記念式典が終わった翌日、私はドクター・スゥイにインタビューした。
 ドクター・スゥイは、マレーシアのペナンで生まれだが、シンガポールで育ち、そこで教育を受けている。大学の医学部を卒業し、外科医として働いていたが、人権弁護士だった夫が当時の強権政府に弾圧され、英国に亡命せざるをえなくなった。1977年、先に英国へ移った夫を追ってドクター・スゥイも英国に渡った。その後、英国国籍を取得し、ロンドンの病院で外科医として勤務した。

Q・1982年にレバノンへ向かう動機は何だったのですか?

 私はクリスチャンで、ずっとイスラエルを支持してきました。それは子どもの頃、日曜学校で学んだ旧約聖書の影響です。私にとってイスラエルは、聖書の視点から特別な国でした。イスラエルの歴史を聖書から学んでいたのです。旧約聖書の中でも、私は「ダビデとゴリアテ」(イスラエルの少年ダビデ ─後のイスラエル王国ダビデ王─ がペリシテ人の巨人兵士ゴリアテを投石器で倒した逸話)の話がとりわけ好きでした。そして20世紀のイスラエルは旧約聖書の中のダビデだと思ったのです。当時の私のイスラエル支持は疑う余地のないものでした。
 1982年6月のある日、私はいつも通り仕事から帰宅すると、テレビのニュースで、ある国が爆撃で破壊されている映像を観ました。その爆弾は、無慈悲に街に投下され、家屋や病院や学校を破壊していたのです。最初はどの国がそのようなことをしているのかわかりませんでした。やがて、爆弾を落としているその国の名前を知りました。それはイスラエルだったのです。イスラエルが他の国とそこの住民たちにそんなことができるなんて信じられませんでした。私は、クリスチャンの友人やユダヤ人の友人たちに、なぜイスラエルがそんなことをするのか質問しました。しかし誰一人それにきちんと答えてはくれませんでした。ただ私が聞かされたのは、「PLOがレバノンに居座り、イスラエルがそのPLOを破壊しようとしている。その結果として、不幸にも無辜の市民も巻き込まれて犠牲になっている」という説明でした。しかし、それは恥ずべき行為だと私は思いました。政治的に正しいか否かの議論を続けることもできるでしょう。しかし問題は、住民が殺され傷ついているという現実だったのです。私の感情、関心ごとは、現実にいま苦しんでいる人びとに向かっていました。私はクリスチャンとして、私自身がそれに気付いていなくても、神は私のことを案じてくださっていると信じていました。私は聖書の言葉に立ち返りました。コリント人へのパウロの手紙の中に、「3つの大切なことがある。信仰と希望そして愛である。中でも最も重要なのは愛である。その愛に従え」と記されています。それを読んだとき、私は神に問いました。「神よ。私の中に、苦しんでいるこれらの人びとへの愛をお与えになったのですか」と。
 数日後、慈善組織の人がレバノンで負傷している人たちの治療する医者を募集にしにやってきました。その時、神が私の祈りに応えてくださったのだと思いました。いま起こっていることが正しいかどうか見極めることや、賛成するか反対するかを議論することではなく、ただ苦しんでいる人を気にかけるかどうかだと思いました。それで、私はロンドンの病院での仕事を辞め、ベイルートへ飛びました。それがパレスチナ人との最初の出会いとなったのです

Q・あなたは「パレスチナ人はテロリストだ」と思い込んでいたと告白しましたが、それはどこで得たイメージですか?

 いろいろな情報源から得たイメージでした。まず第1は、私が属していた教会からです。その教会はとても親イスラエルでした。アラブ人とりわけパレスチナ人はイスラエルの敵であり、聖書の中のゴリアテだと考えていました。また英国では、メディアはいつも「PLOはテロリスト」という物語を作り出していました。一方、不正義を押しつけられ、苦しんでいるパレスチナ人の民衆についてはメディアは伝えませんでした。それが30年ほど前の英国の状況だったのです。
 私がレバノンで最初に会ったパレスチナ人は、自分の故郷について私に話をしました。彼の名前は忘れましたが、ヤファの出身でした。
 「ドクター、あなたたち西欧の人たち、また世界中が、イスラエルがパレスチナの砂漠を緑に変えたと信じていますが、私の家族は何世紀にもわたってヤファでオレンジを生産していたんです。あなたたちは、パレスチナ人はPLOであり、いつも銃を持ち歩いていると思いこんでいる」と。
 もちろん彼は銃などを持っていませんでした。アラブ文学を教える平和主義者の大学の講師で、とても洗練された人物でした。彼はパレスチナ人の話をしてくれました。1948年に家族がどのようにして難民になったのか、どのようにしてパレスチナの土地が奪われイスラエルとなり、地図の中からパレスチナが消されてしまいイスラエルという国の名前だけになってしまったのかを語ってくれたのです。そして私は今日のイスラエルとはどういう国なのかを知りました。
 そこは1948年まで、パレスチナと呼ばれていたのです。そこに住んでいた人びとが土地を追われ、根こそぎにされ、およそ75万人がほとんど財産を持ち出せずに逃げ、難民になったこと、中には虐殺された者もいること、そしてその一部がレバノンの難民キャンプに住み着いたこと──そういう話を私は初めて聞かされたのです。

 私がレバノンに到着してまもなく、PLOはレバノンから撤退しました。それ以前の6月と7月はずっと爆撃が続いていました。だからレバノンの国民はPLOを非難し、イスラエルがレバノンを破壊するのを止めさせるため、パレスチナ人の武装勢力にレバノンを出るように要請したのです。
 そして1万4000人のPLOの兵士たちが撤退しました。しかし彼らはその家族の生活を支える唯一の稼ぎ手だったのです。兵士たちが撤退した後に、彼らの両親や姉妹たち、妻や子どもたちはまったく収入源を失ったままレバノンに残されました。撤退したPLOのメンバーたちは二度とレバノンに戻ってくることはありませんでしたから、1万4000人の兵士たちの家族は破壊されてしまいました。その中には、10週間絶え間なく続いた爆撃によって負傷した人たちもいました。その多くは障害を抱え、中には殺された者もいました。1万4000の家族とは大きな数です。しかし世界は、1982年に起こったこのディアスポラ(離散)についてほとんど気付いていません。

 そのPLO撤退の後に停戦となり、爆撃が止まりました。私はガザ病院での医療活動を依頼されました。クリスチャンとして生まれ育った私が、突然、『パレスチナ赤三日月社』(イスラム系で「赤十字社」に相当)のスタッフとして登録されたのです。だからカルチャー・ギャップがありました。しかしそれを受け入れ、私はガザ病院で働き始めました。そこで私はパレスチナ人やレバノン人と出会いました。素晴らしい人びとでした。彼らは多くは家族も家も破壊され、子どもたちも負傷し、多くの苦しみを体験してきた人びとだったのですが、私は彼らのその状況にあまりにも無知でした。それでも難民キャンプの住民たちは私に優しく寛大でした。一日の仕事をし終えた後、難民キャンプの家族の家を訪ね、アラブ・コーヒーの接待を受け、女性たちが刺繍する姿を眺めていました。それは私の知る最も美しい刺繍でした。その中にパレスチナの町の物語が詰め込まれています。エルサレムのバラだったり、ベツレヘムの星だったり、オレンジの木だったり、真っ青の地中海、砂漠の真っ赤な夕日だったり……。そのようにして私は少しずつ“パレスチナ”について知るようになっていきました。それは歴史の教科書にはまったく書かれていない物語でした。それは私にとって、とても光り輝く貴重な時間だったのです。
 しかし、人びとが破壊の中から生活を再建しようとする、そのわずかな平和のさなかに、何百というイスラエル軍の戦車が警告もなく、レバノン南部からベイルートへ向かって進軍してきて、サブラ・シャティーラ難民キャンプを包囲しました。そんな状況の中で虐殺が始まったのです。

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