Webコラム

日々の雑感 198:
映画『レバノン』は何を伝えたいのか

2010年12月31日(金)

『レバノン』
監督・脚本: サミュエル・マオズ
2009年 イスラエル/フランス/イギリス(日本公開:2010年12月)

 この世界には星の数ほど「事実」がある。作家、ジャーナリスト、映像作家など表現者、伝達者たちはその無数の「事実」の中からどの事実を選びとり伝えるか、または作家や劇映画監督なら、それを元に物語を創作し脚色し伝えるかは、その人の主張であり、思想である。だから選びとる事実、作品の素材そのものが、作り手の思想であり主張、メッセージであるはずだ。作り手の主張やメッセージがない作品などありえないのだから。
 ならばイスラエル映画『レバノン』は、どんなメッセージを観客に伝えたかったのか。

 1982年夏のイスラエル軍のレバノン侵攻に参加した1台の戦車の中での起こる数人の乗組員兵士たちの物語である。外の世界は、戦車のスコープを通して映し出される。「テロリスト」の車が銃撃しながらイスラエル軍の部隊に突っ込み、重症を負い血まみれのイスラエル兵が懸命の心臓蘇生の治療にも関わらず息を引き取る生々しい瞬間。イスラエル軍の南レバノンの町への攻撃で虐殺された男の遺体。その横で戦車をにらみつける老人の怒りに満ちた視線。「テロリスト」に人質に取られた少女と両親が攻撃され、1人生き残った母親が半裸になって娘の名を呼び半狂乱になる姿。戦車に撃ち込まれる対戦車砲弾……。スコープに映し出される外の現実は実にリアルだ。ある意味では、外で現実に目にする光景よりもいっそう生々しく、無線による冷徹な上官との無機質な交信がいっそう緊迫した空気を生みだし、より深い恐怖をあおり立てる。観る者に、自身が乗組員の一員となって戦車の中に押し込められているような錯覚、閉塞感さえ呼び起こす。そのバーチャルな現実に怯えパニックになる砲撃手に、私たち観客は繊細な神経と鋭い感受性をもつ人間味あふれるイスラエル人青年の姿を私たちは目の当たりにする。汗と油にまみれた、陰影の効いたアップの顔が、兵士たちの心理描写に見事な効果を生み出している。そんな映像技術の巧みさがいっそう観る者の心に、普通の青年を恐怖と「良心の痛み」でパニック状態にしてしまう「戦争」の恐ろしさを焼きつける──それがこの映画を作った監督の製作意図なのだろう。ネットの映画紹介には「カメラが戦車内から外に出ない斬新なスタイルで、戦争の恐怖や人間の狂気をあぶり出す」とある。
 この映画は第66回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞している。たしかに「戦争映画」として実によくできた作品である。監督のサミュエル・マオズは、実際、1982年のレバノン戦争に参戦し、この映画はその実体験を基に制作されたという。

 しかしこの映画を観終って、私はざらざらした、不快な残像感が残った。それは2年ほど前にみたアニメ映画『Waltz with Bashir(バシールとワルツを)』(日本語版名『戦場のワルツ』)を観終わったときの感情に共通している。また今年アカデミー賞を受賞したアメリカ映画『ハートロッカー』にも似た思いが残った。それらに共通しているのは監督またはアドバイザーが「実際にその戦場を体験した」という売り文句だ。それは確かに「ドキュメンタリーのような、本物の現実なんだ」と思わせ、観客を引き付ける効果はある(ただ『ハートロッカー』については、一部は現実と全く違うと拙文『ハートロッカー』は『西部劇』で指摘したが)。「体験」をほぼ忠実に再現しているのなら「事実」にちがいない。問題は、どんな「事実」が切り取られたか、だ。冒頭で書いたように、無数にある事実の中から、ある事実を選び出すとき、その人の思想、主張が表現されるはずだ。『バシールとワルツを』と同様、この『レバノン』もまた、レバノンに侵攻したイスラエル軍側からの「事実」、とりわけ「悲惨な戦争で良心、人間性を傷けられるイスラエル兵たちの姿」だ。その選び取られた「事実」で、作り手は何を伝えようとするのか。「人間味あふれるイスラエル兵」「良心を持った兵士」か。「そんな人間性を持った兵士を残虐な人間に変えてしまう戦争そのものの悲惨さ」か。
 『バシールとワルツを』で感じたのと同様に、『レバノン』でも私は「良心的」な「左派イスラエル人」の“カタルシス”の匂いを感じ取ってしまう。つまり「抑圧されて無意識の中にとどまっていた精神的外傷によるしこりを、言語・行為または情動として外部に表出することによって消散させようとする精神療法」である。イスラエル軍によるレバノン人一般住民の惨殺の実態を描き出すシーン、それに恐れおののくイスラエル兵の姿はその象徴だろう。ただ穿った見方をすれば、それも「この“イスラエルの醜部”に嫌悪し恐れ、絶望する人間性と良心を持ったイスラエル兵」を浮かび上がらせるための“素材”“背景”のように見える。なぜか。それは映し出される残酷な状況をもたらす“構造”“大状況”がまったく見えないからだ。「なぜこの戦車部隊の若者たちがレバノンにいるのか」「なぜ彼らの言う『テロリスト』が攻撃を仕掛けてくるのか」が描かれないまま、ただ「戦場」の悲惨さだけが見せられる。だから「戦争とはこういう悲惨なものなのだ」というメッセージしか伝わらない。問われるのは、この“大状況”を作り手の監督がどう捉えているのか、だ。それこそが作り手の思想であり、主張であるはずだ。それが見えないとすれば、それは単なるセンセーショナルな「事実」の羅列でしかない。
 日本人ももっと身近に感じられるように、こんな例をあげてみよう。
 中国大陸に侵略したある旧日本軍部隊の兵士たちを描いた戦争映画を作るとしよう。その部隊は「匪賊せん滅」のためにある村を襲撃する。しかしやがてその村は逆に、日本軍が「匪賊」と呼ぶ中国共産党の八路軍の大部隊に包囲される。映画はその村に包囲された日本軍兵士の言動、心情を等身大に克明に描いていく。兵士の遠い家族への思い、大軍に包囲された死への恐怖心、補給路を断たれた飢えと渇き、生き残るための村人からの略奪、そして殺戮とレイプ……。映画は、大軍に包囲された日本軍兵士の置かれた状況から始まり、その中で兵士個々人の心情を細かに描いていく。恐怖、絶望、自暴自棄、欲望、憎しみ、怒り……。そしてその発露の象徴である兵士たちのレイプ・シーン、住民殺戮の状況を微に入り細に入りリアルに描き出す。ホラー映画かアダルト映画と見間違うほどに。どれもこれも「事実」である。実際にそれを体験した監督の作品なら、その表現のリアルさはいっそう説得力を持つ。そしてその映画は「戦争のおぞましさをリアルに表現した優れた映画」と喧伝される。
 しかし私は、その映画には決定的に重大な部分が欠落していると思う。それは日本軍が中国という他国に侵略しているという“大状況”である。その“大状況”を作り手の監督がどう捉えているのか、その思想と見識こそが、映画の主張、メッセージを決定する。そのメッセージに沿って「事実」は選択され、その並べ方が決められていく。
 活字や映像という手段を用いて“表現する”“伝える”というのは、そういうことではないのか。

 『レバノン』という映画を観た後の、あのざらざらした不快感、次々と展開する「事実」を何のために見せられているのかわからない苛立ちは、おそらく監督の思想と見識が見えないもどかしさに起因するものだったのかもしれない。

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