Webコラム

日々の雑感 199:
父との別れ

2011年1月19日(水)米国上映ツアー

 アメリカのサンフランシスコ市郊外バークレイ市内のインターネットカフェで、久しぶりに「日々の雑感」のコラムを書いている。
 14日に成田を発ち、同日の午前8時過ぎにサンフランシスコに到着した。2006年11月の渡米以来、4年2ヵ月ぶりのアメリカである。前回は到着時に手荷物の大量のDVDが税関で引っ掛かり、長い尋問を受け入国に相当手間取った苦い経験がある。前回の件が記録に残り、相当厳しい審査を受けるに違いないと覚悟していた。入国審査で目的を訊かれ、「映画上映と観光」と答えた。審査官はあまり例のない目的に少し訝ったが、幸い手元にあった、ニューヨーク市内の大学からの上映依頼書のコピーを提出すると、審査官はすんなりとパスポートに入国スタンプを押した。

 今回の渡米は、完成したパレスチナのドキュメンタリー映画4部作『届かぬ声』とりわけ第4部『沈黙を破る』を米国各地で上映することが目的だった。それはこのドキュメンタリー映画4部作の制作を思い立った時からの計画だった。自分が17年の年月をかけて撮影した映像をまとめ上げるドキュメンタリー映画、つまり私の“パレスチナ・イスラエル取材の映像による集大成”と言えるこの映画を、中東の動向のカギを握るアメリカ、その政府を選ぶ国民に見せたかった。在米のパレスチナ人やユダヤ人など問題の当事者たちも多い。そのようなパレスチナ・イスラエル問題の“本場”で、私が長年積み上げてきた取材の結果を試してみたかった。
 だから私は『届かぬ声』4部作の英語版を作ることを当初から念頭に置いてきた。その英語版DVDが完成する前から、私はアメリカでの上映の道を模索していた。昨年春、DVD『沈黙を破る』が知人を通してニューヨークのある中国系アメリカ人Lさんの元に渡った。映画を観たそのLさんは、アメリカでの上映活動への協力を申し出てくれた。以後、アメリカ上映ツアーの計画は具体化していった。当初、昨年の9月から10月にかけて上映して回る計画だったが、6月に私が脳梗塞で倒れ、医師から3ヵ月間の海外渡航禁止を言い渡された。そのため、渡米する前にと計画していたレバノン訪問も延期せざるをえなくなり、玉突きのように渡米計画も先送りになった。その後、10月案、11月案が浮上したが、Lさんの都合で条件が整わず、結局、決まったのが1−2月だった。
 その1月渡米に向けて準備を整えていた矢先の正月明け、突然、予想もしなかった事態が起こった。昨年夏以来、糖尿病の悪化と衰弱のために入退院を繰り返していた熊本の父が、危険な状態に陥ったという知らせが入院先の病院から届いた。昨年12月中旬に病院を訪ねたときは、もう起き上がることもできないほど衰弱していたが、ちゃんと会話はできた。少しずつ食事の量も増え、正月明けの退院に向けてリハビリを開始していた。その父が、いまはもう意識も朦朧となり、口から食事も取れない状況だというのである。病院から電話で受けた報告から推測すると、もうそれほど長くはないと思われた。「アメリカ上映ツアーどころではない」と思った。一方、今回、何ヵ月も現地とやりとりしながらやっと設定したアメリカでの上映を延期したら、再び建てなおすのは容易ではない。もうその機会は訪れないかもしれない。いずれにしろ、父の状況をこの目で確かめないと、決断のしようがない。私がいないと成り立たない1月8日のイベント「ガザに生きる」中間報告会を終えた翌日の朝、羽田から熊本へ向かった。
 父が入院する病院に着いたのは昼近かった。病室のベッドに横たわる父は20日ほど前に見た親父とは別人だった。ベッドの脇にある計器で血圧、心臓の脈拍数、血液内の酸素量、呼吸数などが数字で表示されている。酸素吸入を受けているが、それでも半ば開けた口で苦しそうに呼吸する。私の方に向けたその瞳にもう生気がなく、澱んでいる。頬を叩いて、「敏邦よ。来たよ。わかるね!」と声をかけると少しうなずいた。しかしもう声を発する力もない。もう元には戻れない、このまま徐々に意識を失い逝ってしまうのだろう。
 父は7年ほど、この病院に併設されているケアハウスで独り暮らしをしてきた。その父の部屋に寝泊まりして私は父の元で3日間を過ごした。その間、もう父自身では管理できない預金の処理などに駆け回り、他の時間はほとんど眠った状態の父の側にいた。喉が渇くのだろう。父の好きなサイダーを口持ちに近づけると、すする。みかんの皮を口に入れてやると、おいしそうにその汁をすすった。
声をかけても、「ああ」と力なく小さな声を発するだけの父が一度だけ目を見開き、何かを語ろうと声を発した。それは戦争中、旧日本軍の中尉として、ビルマでのインパール作戦に参戦したときの戦場を父が自ら描いた絵を見せて、そこがどこかを尋ねたときだった。澱んだ目に一瞬生気が戻り、言葉にならない声でその地名を発しようとしたのだ。87年の父の人生の中で、決して消えることのない、脳裏に刻まれた記憶を呼び起こし、息子の私に必死に伝えようとしているかのようだった。
 寝泊まりした父の部屋の引き出しに、彼が書き残したビルマ戦線での記録を見つけた。若い知人に頼んだのだろう、それはワープロで打ち込まれ、原稿用紙にして200枚を超えていた。その素稿だったのだろう、以前、父は自筆の分厚い原稿を私に送ってきたことがあった。私はあまり気にもかけず、さっと目を通しただけで放置していた。しかし死を間近にした父の部屋でその完成版を目にしたとき、どうしても読みたい衝動にかられた。私は病室で眠る父の横で、その原稿を読んだ。そこに登場する父は、補給路を断たれ、連合軍の激しい攻撃にされるジャングルの中、ヒルやマラリア蚊、毒蛇の脅威に晒されながら飢えと疲労の中で100人を超える部下の命を預かり必死に退却の行進を続ける若い青年将校の姿だった。それは私がまったく知らなかった父の“顔”だった。原稿から目を離し、苦しそうに口で息をしながらこん睡する、老いやつれた父の顔を見た。息子の私に多くのことを語らなかったが、戦場で生死の境をさ迷い、飢えと疲労で倒れ祖国に二度と祖国に帰れなくなる多くの戦友や部下を目の当たりにしながら、しかし自分は生き残った、その後ろめたさをずっと背負いながらこの人は生きてきたのか──そう思うと、今やっと戦友たちの元に旅立とうとする父が不憫で、涙が込み上げてきた。

 父は私が5歳のとき、佐賀の実家を出て佐賀の街で他の女性と暮らし始めた。残されたのは父の両親と、母、そして中学を卒業したばかりの兄をはじめ4人のきょうだいだった。父が残していったのは、家族だけではなかった。多額の借金を残したまま家を出たため、それを母が背負うことなった。母は夫を他の女性に奪われ、しかも大家族の重責と借金を背負わされたのだった。しかも幼い私たちの“父親”代わりを強いられた兄は荒れた。少年時代の私の記憶に残っている母は、いつも暗い表情で黙々と働く姿、または私たちに隠れて泣いている姿だった。母はそれでも、父と「離婚」はしなかった。私たちが完全に「父親」を失うことを不憫に思ったからだと後に母は私に語った。そんな母への深い同情は、その苦悩を母に強いた父への激しい怒りと憎しみを私の中で増幅させた。その半面、盆や正月に帰って来る父との再会が待ち遠しかった。ひなびた農村に “街の匂い”を持ち帰ってくる父がまぶしかった。父への怒りと恨み、それと相反する父への思慕の念という2つの矛盾する感情が、幼い時からずっと私の中にあった。それは家族の状況の変化や私の成長の過程で時には一方が強まり、また時には他方が大きくなった。そしてやがて母が老い、倒れ、そして逝ったとき、ずっと苦しんできたその母への不憫さ、愛おしさはいっそう強まっていき、それに反比例するように、父への憎しみと反発は増幅されていった。だから父が倒れ、逝くことになっても、私は母のときのように動揺することもなく、他人の死のように冷静に看過するだろうと思っていた。しかし、父が長年連れ添った女性が亡くなり、老いた父が独り熊本で暮らすようになったとき、父の存在を無視することができなくなった。血のつながりとはこういうものだろうか。何十年と恨みを抱いてきた父でも、唯一の“父親”なのだ。たとえどんな父親でも、彼の存在がなければ、私はこの世に存在していなかったのだから。それでも母への想い、愛おしさとはまったく異質な感情だった。それは一般に言われるような「母親」と「父親」への感情の違いだけではなかった。やはり幼児・少年・青年期といった私の人格形成期に生活と苦楽を共にしたかどうかの違いのような気がする。これまで東京や横浜から年に数回、遠い熊本の父に会いに行くとき、「会いたい」という自然と湧き起る感情からではなかったことに気付く。「父親という肉親なのだから、息子として会いに行かなければ」という義務感が私を押し出していたような気がする。しかしその父が危篤と知ったとき、これまでとは違った感情が私の中に湧きあがってくるに気づくのである。

 眠る父の側にいた3日間、私は、このまま日本に残って父の死を看取るべきか、それとも後ろ髪を引かれる思いで、罪悪感を振り切って予定通り渡米すべきかの最終決断を迫られ、迷っていた。そんな時、父が滞在していたケアハウスの施設長が、父の病室へ見舞いに立ち寄った。父を長年見守ってきた施設長に、私は自分の迷いを吐露した。すると、その施設長は私に言った。
「お父さんは、自分のために息子さんの映画がアメリカで上映される機会を失うことは望んでおられないと思いますよ」。
 その言葉を私は眠る父の顔を見つめながら聞いていた。父の顔が涙でかすんだ。
 結局、私は渡米を決意した。このまま父の側にいても、意識がなく意志疎通ができない父に、私は座ってじっと見守っている以外、何もしてやれることはない。父はその死で人生を終える。しかし私には、これから人生がある。アメリカで自分の映画を広げていくことは私のこれからの仕事の新たな展開のために不可欠なことだ。たとえ父の死を看取ることを諦めるという犠牲を払っても、自分の将来のために私は今、アメリカへ行くべきだと決断したのである。
 私が病室を去る時も父は眠っていた。2人きりの病室で、私は目を閉じている父の額と頬を何度も何度も撫でた。父の顔に手を触れるのは、幼い時以来初めてだった。父の顔の肌は温かかった。まだ人の温もりがあった。私が渡米中に父は逝ってしまうに違いない。父のこの温かな肌に触れることはもう二度とないだろう。その父の肌の温もりを、私は自分の手の感触の記憶に深く刻みつけておきたかった。頬を撫でながら、私は眠る父に向かって言った。
 「アメリカさい、行ってくっばい。3週間したら帰ってくっぱい。それまで生きとかんばいかんばい! 聞こえよね! 生きとかんばいかんばい!……」。父はうっすらと目を開け、また閉じた。
 虚しい願いだと思いながら、私は最期になるかもしれない父との別れに、そう語りかけるしかなかった。そして、最後に部屋を出るとき、眠る父を見つめながら、私は心の中で言った。
「親父、さよなら……」。

(追記)
 バークレイ市のインターネットカフェでこの文章を書き終え、メールの受信トレイに画面を切り替えたとき、妻・幸美からメールが届いていた。「お父さんのこと」というタイトルのついたそのメールは、日本時間1月20日午前8時12分に彼女の携帯から発信されていた。
 「今、まほろば(注・父が暮らしていたケアハウス)から電話をもらいました。お父さんが、朝7時半に亡くなったとのことです」


(父 2004年11月撮影)

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