2011年1月28日(金)米国上映ツアー
ニューヨークでの3回目の上映会は、コロンビア大学上映会の翌日、マンハッタンからハドソン川を隔てた隣のニュージャージ州の州立大学ラットガードが会場だった。私はワシントン広場近くの駅から地下鉄を乗り継いで、マンハッタンの西175通りまで北上した。ニュージャージ州の自宅からLさんが車でジョージ・ワシントン橋を渡って約束の場所174通りとブロードフェイ通りの交差点まで迎えに来てくれた。私を拾ったLさんの車はそこからまた橋を引き返してニュージャージ州に渡り、2時間近く高速道路を走った。橋を渡るころはまだ明るかった西の空も、やがて夕焼けに染まり、そして辺りがゆっくりと闇に包まれていった。目的地の大学に着いたころはもう夜の7時を過ぎていた。建物がまったく見えない森林と原野の中に、大学のビルが点在する広大なキャンパスが現れた。キャンパスの中に入っても、上映会が開かれる会場となる建物を車で走りながら探すのにずいぶんと時間がかかった。とにかく日本では考えられないほど大きな敷地の大学である。学生数は3万人を超えるという。学生たちは車で通学するか、キャンパス内の寄宿舎に滞在しない限り通えない人里離れたマンモス大学である。
上映会を主催するのはこの大学のパレスチナ支援の学生団体で、メンバーの多くがパレスチナ頭巾「ハッタ」を首に巻いていた。出身を訊くと、やはり多くはアメリカ生まれのパレスチナ人学生である。会場は定員70人ほどの小さな教室だった。当初から多くの多くの参加者を見込んではいないようである。果たして開始時間の7時半が過ぎても席は半分ほどしか埋まっていない。ここもまたコロンビア大学と同じように、参加者の半分ほどは一般市民だった。黒人学生が数人、会場の一角に固まっていた。学内の黒人学生を中心とする人権団体がこの上映会に共催しているという。
2時間10分の上映が終わると、昨夜のように拍手が起こった。司会者が私の略歴を読み上げた後、私が紹介された。もう3回目ということもあり、あまり緊張することもなくなった。
「日本人がなぜこんな映画を作ったのかとみなさんは疑問に思われていることでしょう。まず、私が“パレスチナ”と出会った経緯から話をします」と私は、学生時代の放浪の旅、アフリカ・サラハ砂漠縦断中に出会ったキブツ体験者のある日本人青年のイスラエルのキブツ体験話、そしてその後の私の人生を変えた、ガザへの最初の旅とそこでのパレスチナ人難民との出会いを語った。さらにジャーナリストとしてのパレスチナ報道の略歴、その映像による報道の集大成でもある『届かぬ声』4部作について、そのDVDジャケットを1つ1つ見せながら、各々の内容について短く解説した。
そこで私が強調したのは、これらのドキュメンタリー制作の狙いだった。その1つが、アメリカをはじめ国際社会で「テロリスト」というイメージで捉えられがちなパレスチナ人に、私たちと同じ“人間の顔”を示すことだと私は説明した。
質疑応答になると、会場から昨夜と同じく「自爆テロ」に関する質問が出た。パレスチナ支援活動に関わっている初老の女性からは、「この映画の冒頭で自爆攻撃の現場や、バラータ難民キャンプ少年が『自爆攻撃者』になりたいと語るシーンが登場するが、冒頭からのこのような映像を見せられると、一般のアメリカ人は、『パレスチナ人=テロリスト』のイメージをいっそう強めてしまうのではないか」と問いかけられた。黒人学生からも「私の中でも、パレスチナ人と自爆テロのイメージがいっそう強く重なってしまった気がします」という意見が出た。私はこう答えた。
「そう観られてしまうのは、意外です。ただ、映画の冒頭でそういう感想を持っても、やがて観客は、バラータやジェニンの難民キャンプで起こった殺戮と破壊、そして閉塞状態に置かれた人びとの生活の実態を目の当たりにします。そして、なぜ『自爆テロ』へとパレスチナ人を追い込んでいくのかを観客は理解していくはずです。もちろん『自爆テロ』を正当化しようというのではありませんが、ただそういう議論で済ますのではなく、なにが青年たちを『自爆テロ』に駆り立てていくのか、その原因と背景に目を向けるべきだと私は考えています。それは、この映画の中のバラータやジェニン難民キャンプでの殺戮や破壊に象徴されるような、目に見えやすい“直接的な暴力”だけではありません。むしろ住民が人権と自由、そして尊厳を持って人間らしく生きる状況を奪われる状況、つまり“構造的な暴力”、その典型的な実例である“占領”という根源的な問題こそきちんと伝えるられるべきだと考えています。しかしそれは、殺戮や破壊のようなセンセーショナルなシーンではなく、視覚的に映像で表現しにくい地味な現象です。だが、それこそ今、パレスチナ問題で描かなければならないことだと私は考えています。先に紹介した私の『届かぬ声』4部作のもう1つの狙いはまさにそれを描き出すことでした。それには長い時間をかけた取材が必要です。だからこそこの4部作の取材と撮影に17年という期間が必要だったのです」
他にも「パレスチナ・イスラエル問題について一般の日本人はどう見ているのですか」という質問も出た。私は、「アンネの日記」に象徴されるようなユダヤ人に対するホロコーストやアインシュタインなどに代表されるように「ユダヤ人に天才が多い」といったイメージによって、ユダヤ人に対して同情的または好意的な感情を持っている日本人は多いこと、一方、パレスチナ人に対しては欧米の報道の影響もあって、「テロリスト」のイメージが強かったこと、それがいくらか変化するきっかけとして、1つは1973年の「オイル・ショック」以後の日本政府の「アラブ重視」の政策転換によってアラブとりわけパレスチナ問題への関心と情報が増えたこと、またもう1つは1987年以後の第1次インティファーダによって、「敵意に満ちた多くのアラブ諸国に囲まれ、その生存のために闘うイスラエル」というイメージから「投石で抵抗する少年たちを銃で弾圧するイスラエル兵」というイメージへ、つまり旧約聖書に登場する「ゴリアテ」と「ダビデ」のイメージが反転し、徐々に一般の日本人のパレスチナ人への理解と支援が深まっていったことを説明した。
40人ほどの少ない参加者だったが、1人だけイスラエル人が混じっていたことが上映会の直後にわかった。会場から「イスラエルの中で暮らすパレスチナ人はどういう状況にあるのか」という質問が出たとき、Lさんが「私が代わって答えます」と立ちあがり、詳しい状況を語った。その中でLさんはアラブ系市民に対するイスラエル政府の差別政策の1例として「家を自由に建てる権利も認められていない」と語った。上映会が終わった直後、Lさんのその発言に「それは事実ではない」と参加していた青年の1人が抗議してきた。やがてLさんとそのイスラエル人青年の間で激しい議論になった。Lさんの発言の詳細についての問題になったとき、イスラエル人青年が「いやあなたはそう言った。録音しているから証明できる」と発言した。彼はこの上映会で禁止されていた録音をやっていたことを自ら告白してしまったのだ。これに主催団体の学生たちがすぐに反応し、テープを没収するため警備員を呼ぼうとした。するとそのイスラエル人青年は捨て台詞を吐き、逃げるように会場を出ていった。
上映会を終え、帰路に着いたのはもう11時になろうとしていた。それからまたマンハッタンに戻るのに1時間半ほど車を走らせた。私が滞在先の友人の家にたどり着いたのは、もう夜中の1時近かった。
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