Webコラム

日々の雑感 205:
20年ぶりのワシントン・狭い世界

2011年1月31日(日)米国上映ツアー

 30日(土)の朝、フェラデルフィアの老夫妻はワシントン行きの列車が止まる駅まで車で30分ほどかけて私を送ってくれた。当初、バスでワシントンに向かうつもりだったが、ワシントンのエレン・シーゲルに電話すると、「午後2時までに到着しないと、午後3時から始まるユダヤ人の平和団体の会議に間に合わない」と言う。急きょ、列車に切り替えた。バスなら15ドルだが、列車は62ドルもかかってしまう。しかし金をケチって、せっかくのチャンスを失うわけにはいかない。
 列車はその駅から正午に出発し、午後1時半に到着するはずだった。しかし列車は40分近く遅れていることが駅のホームでわかった。「約束の時間に間に合わせるために、4倍もの料金を取る列車を敢えて選んだのに、遅れるとはなにごとだ!」と無性に腹が立つ。私が乗るはずの列車の前の列車は1時間経っても到着しないと、同じホームで待つ乗客が呆れていた。しかも払い戻しもしないというのだ。日本では考えられない。1時間10分ほど遅れて着いた、予約していた列車より1つ前の列車に飛び乗った。そうしないと午後2時には間にあわないからだ。それにしても、20年前、ニューヨークとワシントンとの間を往復するときは列車しか思いつかなかったが、今では安いバスが頻繁に走っているという。20年前とは交通事情も大きく変わったのだ。
 ワシントン市のユニオン駅に列車が到着したのはちょうど午後2時だった。駅の入り口に、エレン・シーゲルが私を待っていてくれた。昨年9月、ベイルートで別れて以来である。そのベイルートで20年ぶりに偶然、彼女と再会した経緯は「日々の雑感」(レバノンへの旅 5レバノンへの旅 8「エレン・シーゲルの語り」)の中にすでに記した。その再会がなければ、私は今回敢えてワシントンへ足を延ばすことは考えもしなかったろう。20年前のワシントンの街の記憶はほとんど薄れ、まったく未知の街同然のこの大都市に、知り合いもなく、移動の手段もわからず、さらに宿泊先の当てもなく、敢えて独り訪ねる勇気もなかったからだ。
 今回の映画上映ツアーでニューヨークを訪ねることが決まったとき、私はエレンを頼ってワシントンも訪ねることを思いついた。1991年春、私がコーディネーターとして参加したNHKスペシャル『アメリカのパレスチナ人』の番組で、1982年、ベイルートのシャブラ・シャティーラ虐殺事件を生き延びた兄弟と、彼らがアメリカに移住する手助けをしたエレンを紹介した。ベイルートでエレンに20年ぶりに再会したとき、その兄弟の兄ナビールが、全米アラブ組織「ADC(American-Arab Anti-Discrimination Committee/アラブ反差別委員会)」の副代表になっていることを聞いた。私の映画アメリカ上映ツアーが決まったとき、ADC副代表のナビールに協力してもらえないかと考えたのだ。東京からエレンを通して、そのナビールに何度か連絡を取ろうとしたが、副代表の要職にあるナビールは多忙なのだろう、なかなか返事が返ってこなかった。とにかく実際会うしかない。幸いエレンに連絡は取ってもらえそうだ。エレンにワシントンでの宿泊先とナビールへの連絡をメールで依頼し、「無駄足になってもいい、一か八か行ってみよう」とワシントン行きを決意したのである。

 エレンは私のために、安く宿泊させてくれるある施設に部屋を用意し、ナビールへの連絡だけではなく、映画上映に協力してくれそうな進歩的なユダヤ人団体やパレスチナ人の活動家たちと会う機会を設定してくれていた。エレンがまず私を案内したのは、進歩的なユダヤ系アメリカ人の全米組織「平和を求めるユダヤ人の声(Jewish Voice for Peace)」ワシントン支部の小さなミーティングだった。数人の小さな集まりだったが、ミーティングが始まると、私はすぐに自己紹介するように促された。私はこれまでの20数年間のパレスチナ・イスラエル問題との関わりとジャーナリストとしての仕事を語った。そして、『届かぬ声』4部作の英語版DVDを取り出し、各部の内容をかいつまんで説明した。集まったメンバーたちは日本人のパレスチナ問題のとの関わりとその映画に驚き、関心を示した。とにかく観てもらうしかないと、『沈黙を破る』DVDをリーダーのSに贈呈し、「この映画をワシントンで上映する機会があったら、紹介してほしい」と依頼した。
 数人の参加者の中に、長くガザに住み、以前、ガザのパレスチナ人男性と結婚していたと自己紹介した4、50代のユダヤ人女性がいた。私は驚き、その男性の名前を聞いた。「ヒルミという名前です」とその女性が答えた。私は一瞬、自分の耳を疑った。「長くイスラエルに投獄されていて、その後ビルゼート大学に入ったヒルミですか」と私は彼女に問い返した。「そうです。彼を知っているんですか」と彼女も驚いて訊き返した。彼は、エレンと20年ぶりに再会したあの昨年9月のレバノンの旅で、ベイルートに到着した夜にホテルまで訪ねてくれたあのヒルミである。私は26年前の1985年に、十数年ぶりに獄中から出てきたばかりの彼にビルゼート大学で会ってインタビューしたこと、そして20数年ぶりにそのヒルミにベイルートで再会したこと、さらにヒルミの親友であるラジ・スラーニは私の20数年来の親友であり、ベイルートでの再会を設定してくれたのもそのラジだったことを興奮気味に彼女に告げた。「世界はなんて狭いんでしょう!(Small world!)」。側で聞いていたエレンが叫んだ。まさに世界は狭い。偶然にエレンとベイルートで20年ぶりに再会し、そのエレンに導かれてワシントンを20年ぶりに訪ねて、同じくベイルートで20数年ぶりに出会ったヒルミの元妻と出会う──これが奇跡でなくてなんだろう。
 元妻Aは1枚の写真を取り出した。「ヒルミとの間の娘です。いま大学生なんです。青い目がヒルミそっくりでしょ?」と言う。たしかに顔の輪郭と目元がヒルミによく似ている。澄んだ青い目のヒルミの顔が私の脳裏に浮かんだ。別れた元夫ヒルミについて語る彼女の言葉からは、今なお彼に対する親愛の感情を抱き続けていることが伝わってくる。「実は私、2日後に再婚するんです」とAは言った。ヒルミもベイルートで2度目の奥さんと暮らし、子どももいると聞いた。元妻のAもまた、別の新たな人生を歩もうとしているのだ。娘に恵まれながらも別れた、パレスチナ人のヒルミとユダヤ人の彼女の元夫婦の間に、恨みや怒り、妬みはほとんど残っていないように見えた。むしろ大切な思い出として人生の記憶に大事にしまいながら、お互い別々の幸せを求めて生きている2人の関係が私にはほほえましかった。


エレン

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