2011年2月1日(火)米国上映ツアー
ワシントン滞在2日目の1月30日(日)、エレンから電話を受けたのは午前9時ごろだった。会うことを半分諦めていたADC(American-Arab Anti-Discrimination Committee/アラブ反差別委員会)副代表ナビール・モハマドが奥さんと共に私やエレンと昼食を食べようと言っているというのである。エレンが提案し促したのだろう。あの虐殺事件で母親や大半の姉妹を失い(父親はその以前にレバノン内戦中に死亡していた)、かろうじて生き残った兄弟をアメリカへ移住させるために奔走したエレンは、ナビール兄弟にとって文字通り“命の恩人”である。そのエレンの申し出となれば、たとえどんなに忙しいナビールでも断れないだろう。
(エレンとナビール)
正午前、ナビールたちが車で私の宿泊先の施設まで迎えてきてくれた。1991年春、NHKの取材で会ったのが最後だったから、実に20年ぶりの再会である。当時、黒い髪で口ひげをつけていたナビールは、頭は禿げあがり、側頭部にかろうじて残っている髪にも白髪が混じっている。口ひげがないため、幾分若々しくみえるが。しかし顔立ちやその声は、20年前の記憶にある“ナビール”である。「お互い歳を取ったね」と笑いながら握手を交わした。渡米した1982年当時、20歳ごろだったはずだから、もう50歳を超えているはずだ。奥さんはアメリカ人でまだ30代だろうか。3年ほど前に結婚し、現在、奥さんは妊娠7カ月だという。車の中での雑談のなかで、彼女が日本について「日本では難民として認定されるのは大半がビルマ人で、その数は圧倒的に少ないですよね」と言った。「どうしてそんなことを知っているんですか」と訊くと、エレンが、「彼女は世界の『難民問題』を調査する国際組織で働いているのよ」と説明した。いま私は、日本で民主化運動してきた在日ビルマ人のドキュメンタリー映画を制作していると言うと、今度は彼女が驚いた。これも不思議な巡り合わせである。
ナビールと奥さん、それにエレンと私の4人は、ワシントン市内を走ってレストランを探した。ナビールの説明によれば、20年ほど前までは貧民街だった地区がどんどん再開発され、今は高級住宅街に変貌しているという。私の記憶の中にかすかに残っている20年前の街の様子が、今の街の光景と重ならないのはそういう時代の移り変わりのせいでもあるようだ。
若い人たちでごったがえすモダンなレストランに入った。私と向かい合ったナビールは、やはり20年前の彼ではなかった。全米組織の副代表という重責を担うだけあって、彼の言動は自信と余裕に満ちているように見えた。エレンが、私たちが最初に会った頃の写真をバックから取り出した。私はまだほっそりとした体躯で、目も今よりさらにくぼんでいて、初めて観る人は私が日本人だとは気付かないだろう。その横に並んで座るナビールも、まだ頭の髪は黒々の豊かだ。だが、そのまなざしはどこか暗い。写真の裏を見ると、「86年10月」という文字が見えた。彼が虐殺から生き残り渡米して4年が経った頃の写真である。私も当時、1985年5月からの1年5カ月に及ぶ占領下のパレスチナに滞在し取材を終えて、その足で、アメリカのユダヤ人とパレスチナ人を取材するために初めて渡米していた。
そう言えば、エレンを私に紹介したのは、1985年、ヨルダン川西岸のビルゼート大学・夏季講座を共に受けたユダヤ系アメリカ人の友人マーティン・ルーゼンベルグ(拙著『アメリカのユダヤ人』にその人物ルポを記している)だった。エレンは1982年、イスラエルのレバノン侵攻に関する「国際民衆法廷」に証言者として出席するために来日したが、当時、1スタッフとして働いていた私は、エレンと個人的に話しをする機会はなかった。だからそのワシントンへの旅で初めてエレンと知り合ったことになる。そのとき、エレンに紹介されたのがナビールとムニールの兄弟だった。それから5年後の1991年春、今度はNHK取材班と共にスペシャル番組『アメリカのパレスチナ人』の取材のためにナビール兄弟に再会した。今回、彼と会うのはそれ以来である。
レストランで向かい合ったナビールに、私は『届かぬ声』4部作の英語版DVDを取り出し、内容を簡単に解説した。さらに現在制作中の『ガザに生きる』5部作の解説文書とDVDを見せ、説明した。ナビールはとりわけ『ガザに生きる』に関心を示し、「これはADCの定期研究会の中で毎週シリーズで上映できるかもしれないね」と言った。「この『届かぬ声』4部作も、ADCで上映する機会はないだろうか。とくに第4部の『沈黙を破る』はぜひ見てほしい。そして全米に広げていくために力を貸してほしいんだ」と私は言った。「わかった。とにかく見てみよう」とナビールは答えた。
ADC(アラブ反差別委員会)はその名の通り、アメリカ国内でのアラブ人に対する差別と闘うために組織された団体で、パレスチナ問題のようにアメリカ国外の特定の地域とその問題を扱う組織ではない。それにアラブ系アメリカ人といっても、20数カ国の出身者がいて、その関心と利権は一枚岩ではない。ある問題を扱うと、ある国の出身グループは賛同しても、他の国の出身者は反発しかねない。パレスチナ問題もそうだ。その組織を束ねる立場にあるナビールは、たとえ自分がパレスチナ人であっても、すぐに「よし、やろう」というわけにはいかないのである。だからこちらも、あまり多くのことを期待できないと覚悟はしている。
とにかく今私にできることは、私のこれまでの人脈を最大限に生かし、アメリカ国内で自分の映画を広げていく道を模索することだ。やれることは全部やってみる。その結果は「神のみぞ知る」だ。
食事の後、ナビール夫妻と別れた私はエレンのアパートに招かれた。日本では贅沢なほど広いアパートだ。60歳代の後半で、独身のエレンは長年、働いてきた看護師の仕事を引退し、今、そのアパートで独り暮らしをしている。
1982年夏のイスラエルによるレバノン侵攻と、イスラエルによって祖国を追われたパレスチナ難民への猛烈な攻撃、殺戮と破壊を、エレンは同じユダヤ人による犯罪として看過できなかったのだろう。イスラエル軍の侵攻直後、看護師の彼女は、やがてイスラエル軍に包囲されることになる西ベイルートのパレスチナ人難民キャンプの病院で、国際医療ボランティアとして働き始めた。そしてあのサブラ・シャティーラ虐殺事件を体験するのである(その詳細は、昨年9月の「日々の雑感:レバノンへの旅(8)エレン・シーゲルの語り」の中ですでに紹介した)。その後もエレンはずっとレバノンのパレスチナ難民たちの支援活動に関わり続けている。この28年間、あの虐殺の記念式典に毎年通い続けているのはその一例である。前日の「平和のためのユダヤ人の声」のミーティングに私を紹介するために同席したエレンが、会の後、私にこう漏らした。
「正直に言えば、私はこの団体の会にはあまり出たくないの。だって彼らが問題とするのはパレスチナ占領地のパレスチナ人たちのことだけで、もっと深刻な状態にあるレバノンのパレスチナ人たちのことはまったく話題にもしないのよ。私はレバノンにいるパレスチナ人たちと関わり続けていたいのよ」
彼女が“レバノンのパレスチナ社会”に関わり続けるのは、そこで暮らす人間たちだけではなかった。エレンは独り暮らしのアパートで2匹の猫を飼っている。だが、ただの猫ではない。そのいずれもベイルート生まれの猫なのだ。2006年夏の第2次レバノン戦争中、イスラエル軍の激しい爆撃で死傷したのは人間だけではなかった。住民に飼われていた犬や猫など動物たちもまたたくさん殺され負傷した。住民と同様に破壊された家屋の中から救出され保護された動物たちの中には手厚い治療によって生き延び、新しい飼い主たちに引き取られたものもいる。ベイルートで負傷し餓死寸前だった2匹の子猫のことを聞き知ったエレンはそれを引き取って育てる決心をした。2匹の猫はアメリカへ空輸され、エレンの元に届けられた。それが今ここにいる2匹の猫である。そのうちの1匹、白黒の毛混じりオス猫は“口ひげ”を付けている。口の周りは白いのに鼻と口の間が口ひげのように黒い毛なのだ。さすが“レバノン出身のオス猫”である。そしてもう1匹の猫は、見知らぬ来訪者である私の前に姿を見せなかった。爆撃の恐怖の後遺症なのだろう、数年経って大人の猫になった今でも、見知らぬ来訪者を異常なほど怖がるのだという。
エレンはこのワシントンで、30年の近く経った今でも、“レバノン”とその記憶の中で暮らし続けているように私には思えた。
夕方、そのエレンに誘われて、アラブ・レストランでのある食事会に参加した。エレンのような進歩的なユダヤ系アメリカ人と、アラブ系アメリカ人たち10人ほどが集った。前日、「平和のためのユダヤ人の声」のミーティングに参加していた初老の女性も加わっていた。この食事会のメンバーの中に、故エドーワード・サイードの実妹グレース・サイードがいた。もう70歳近いだろう、髪は白髪混じりだ。しかし実にエネルギッシュな女性である。エレンによれば、パレスチナ問題で活発な運動を続けている活動家だという。私はニューヨークでサイード夫人に映画『沈黙を破る』を観てもらったことを告げ、「あなたにもぜひ観てほしい。そしてワシントンで上映する道を教えてください」と依頼した。「時間はどのくらい?」とグレースは私に訊いた。「4部作の各々が約2時間です」と答えると、「そんなに長い映画は、アメリカ人は見ないわよ!」と彼女は大声で叫んだ。とにかく1部でもいいから観てほしいと、私は4部作のDVDを渡した。
私の隣の席に座ったのは、父親がレバノン人、母親がアメリカ人の青年だった。「占領終結(End the Occupation)というNGOの代表だという。ガザにも長く滞在した体験を持ち、これもまた奇遇であるが、日本のJVCスタッフ、藤屋リカさんとガザやベツレヘムで行動を共にしたことがあるというのだ。本当に「世界は狭い」と実感してしまう。
2日間の短い滞在だったが、さまざまな出会いに恵まれた、密度の濃いワシントンへの旅だった。「やはり来てよかった」と心底思った。
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