2011年2月5日(土)米国上映ツアー
1月31日、朝9時過ぎに乗った高速バスは、4時間ほどでニューヨークに着いた。しかもほんの30ドルである(列車はその数倍はするはずだ)。翌日、ニューヨークからオークランドへ飛ぶはずだった。しかし、その日は朝から大雪で、私が乗るはずだった便はキャンセルになった。その翌日も気候次第では、再び運休になるかもしれない。もしそうなってしまうと、2月3日にバークレイ市内で予定されている『沈黙を破る』上映会には出られないことになる。もし2月2日も運休の場合、飛行機が飛ぶ他の都市、例えばワシントンなどに移動し、そこから西海岸に飛ぶ方法も探ってみたが、それだと、また飛行機代がかさむし、1日がかりの旅になってしまう。「なんとか2月2日に飛んでほしい」と祈るしかない。こういう緊急事態も予想して、私は上映会の2日前に西海岸に戻ることにしていたが、それが効いた。翌日、天気は雪から雨に変わり、1日遅れの同じ便は、インターネットの表示に「ON TIME」と表示されたのだ。私の願いが通じたのである。
2月2日午後4時40分発の飛行機は午後7時半ごろ、オークランド空港に着陸した。ニューヨークと西海岸とは3時間の時差があるから、6時間を超える飛行時間である。ダウンの上着を2枚重ね着しなければならないほど寒かったニューヨークだったが、西海岸のオークランドは1枚のダウンで十分だった。
2月3日のバークレイ市内での『沈黙を破る』上映会を企画し準備してくれたのは日本人女性Iさんである。2005年6月、当時完成したばかりの私の最初のドキュメンタリー映画『ファルージャ2004年4月』をアメリカ国内で上映しDVDを販売するルートを開拓するために、私は1991年春以来、14年ぶりにアメリカを訪ねた。そのとき、バークレイ市在住の日本人女性たちのグループの「勉強会」に招かれ、テレビ番組で放映した私のパレスチナに関する映像を見てもらったことがある。その参加者の1人で、長年この問題に関心を抱いていると私に声をかけてくれたのがIさんだった。私と同じ年齢で、若い頃には長年インドを旅した体験を持つ行動派の女性である。そのIさんが、私の映画『沈黙を破る』をバークレイ市で上映したいという私の要望を受けて、実現してくれたのが今回の上映会である。
会場となったバークレイ市内の教会(ユニタリアン・ユニバーサリスト)は市民が映画上映会や集会の場としてよく利用する、市民に開かれた施設となっている。かつてベトナム反戦運動の拠点の1つとなったほど、リベラルな街として知られるバークレイ市らしい施設である。会場に30分ほど前に到着した私とIさんは、教会の広間に折り畳み式の椅子を並べた。Iさんが「たくさん椅子を出して人が集まらないとがっかりするから。20脚ほどにしましょう」と言った。前回、ここで開かれたドキュメンタリー映画の上映会には20人ほどしか集まらなかったらしい。Iさんは、「たくさんの人が来るとあまり期待しないでくださいね」と念を押した。たくさんの参加者を期待した私が、実際の数に落胆しショックを受けることを懸念したのだろう。
上映会の開始時間が近づくと三々五々、参加者が集まり始めた。若い人は少なく、中年、初老の人たちが多い。市内の日本人コミュニティーの女性たちも10人ほど参加してくれた。勉強会や食事会などで顔見知りの方も多い。映画始まってからも、人が入ってきて、最終的には広間に60脚ほどの椅子が並んだ。
映画終了後、主催者であるこの教会の代表が監督の私を紹介した。私は参加者たちの前に進み出て、こう切り出した。
「『長すぎる!』と思われたでしょうね。アメリカ人が映画を観続けられる忍耐力の限界が1時間だということは、私も十分承知しています」。
すると会場からどっと笑い起こった。
「『なぜ日本人がこんな映画を?』と不思議に思われる方も多いと思います。また『日本人が制作したパレスチナ・イスラエル問題の映画なんて薄っぺらなものに違いない』と思われるかもしれません。しかし逆に日本人だからこそ、この映画は可能だったのです。日本人はパレスチナ人からすれば、同じ“アジア人”です。しかもパレスチナ人が、『イスラエルを支える最大の敵』だとみなすアメリカと、日本はかつて戦争し、“ヒロシマ・ナガサキ”の悲劇を体験した、そんな日本人に対する強い連帯意識が彼らの中にあります。一方、イスラエル人は、どうせ日本人はこの問題のことは深く知らない素人だろうからと、欧米人に対するような警戒心がないため、本音を漏らしてしまう。だから“日本人”であることはマイナス要因ではなく、むしろ強みとなるのです」
またコロンビア大学で語ったように、この映画が日本人に受け入れられた要因の1つは、この映画を“鏡”にして、とりわけ年配の日本人は過去の旧日本軍の兵士たちの姿を観てしまうような、パレスチナ・イスラエル問題を越えた普遍性をこの映画が内包しているからだと私は説明し、「アメリカ人のみなさんは、この映画を“鏡”にして、イラクやアフガニスタン、そしてベトナムでの米兵の姿を観てしまうことでしょう。それこそが私がみなさんにこの映画を通して伝えたかったメッセージなのです」と語った。
さらに、『届かぬ声』4部作のDVDを1部ずつ、その要点を手短かに説明した後、全作で伝えたかったことは主に2つあり、その1つは、パレスチナ人に「テロリスト」でない、“人間の顔”を与えていくこと、そしてもう1つは、殺戮や破壊のように、見えやすい“直接的な暴力”だけではなく、“占領”に象徴されるように、人間が人間らしく、尊厳を持って生きるための生活の基盤を破壊する“構造的な暴力”を描き出すことだったことだが、それは映像にしにくく、長い定点観測が必要であること、撮影に17年という長い年月を要したのはそういう事情だったことなどを語った。
会場からは「そのことがよくわかった」「この映画はアメリカで広く見せていくべきだ」「バークレイ市内で他に上映するのか。UCバークレイ校で上映する予定はないのか」といった感想や質問が次々と出た。それに私はこう答えた。
「その上映の機会をみなさんに作ってほしいし、提案していただきたい。私は日本人でアメリカの事情がよくわからないのです。実際、ここでこの映画をどう広げていいのかわからず、途方に暮れている状態なのです。この映画を全米に広げていくために、みなさんの力を貸してください」
「この映画を日本で公開したことで、イスラエル側からどういう反応があったのか。圧力はなかったのか」という質問も出た。私は「この映画上映と、2008年12月からのガザ攻撃の報道がその理由だと思うが、その後、イスラエル政府によってプレスカード発行を拒否された。そのためガザに入り取材することができなくなり、もしヨルダン川西岸に入ることができても、プレスカードがないためにさまざまな障害が出てくる可能性がある」と答えた。
さすがに政治意識が高く、リベラルな市民の多い街として知られるバークレイ市だけあって、映画を観た参加者から、ニューヨーク周辺での上映会でもなかった、直截な共鳴と称賛の声が多かったのには正直、驚いたし、励まされた。このバークレイで、私は映画『沈黙を破る』への確かな手応えを感じ取ることができた。それは「アメリカでも上映を続けられる」という小さな自信を私に与えてくれた。
この上映会の反応は、当日だけには終わらなかった。
2日後の2月5日の朝、私は知らない老女から電話を受け取った。
「私は先日、バークレイであなたの映画を観た者です。私といっしょに観た友人のトオルから、あなたへの支援金の小切手を渡してほしいと頼まれました。私は今あなたが滞在している地区と同じエリサリートに住んでいるので、これから車で届けます。数分後には着きます」
5分ほど経って、また電話が鳴った。「いま家の前にいるから」という。玄関を出てみると、トレーニングシャツ姿の老女が車の運手席から手を振った。預かった封筒を私に渡す彼女に、私は映画の感想を訊いた。老女は「とても感動しました。素晴らしい映画でした。みんな長いと言うけど、私はそうは思わなかった。私はあのようにじっくりとシーンを見せる映画が好きです。『テロリスト』と思われているパレスチナ人ですが、実は私たちはその生活の様子も何も知らないんです。あなたの映画は彼らの生活をきちんと見せてくれた。そこがとてもよかった。それにパレスチナ人側とイスラエル人側の両方を描いているからとてもよくわかりました」
「カズコ」という名のこの女性は日系3世で、太平洋戦争中の14歳のとき、アメリカ政府によってユタ州の強制収容所に入れられた体験を持つ人だった。先代は私の故郷、佐賀に近い久留米出身だという。日本語は話せない。80歳をゆうに超える老女がわざわざ車で支援の小切手を届けてくれ、私の映画について熱く語っているのだ。
封筒を開けると、100ドルの小切手が入っていた。カズコさんの話によれば、トオルさんもまた強制収容所を体験した日系アメリカ人3世で、カズコさんより4歳年上だという。教えてもらったトオルさんに、私はさっそくお礼の電話をかけたが、留守電だった。私はお礼のメッセージを残した。トオルさんから電話がかかってきたのはその夜だった。彼もまた日本語ではなく、英語で語りかけてきた。
「あなたの映画を観て感動し、私は何かしたいと思ったんです。あの映画はとても大切なことを伝えています。若い兵士たちは、軍隊というシステムのなかで人間としての良心や倫理観を失い、上官に命じられるままロボットのように行動することを強いられるという現実です。それをあの元イスラエル兵たちが見事に語っています。あれはイスラエル兵だけの問題ではないんです。あなたがあの映画で伝えようとしていることは素晴らしく、とても重要なことです。だから私は支援したいんです」
トオルさんは、さらに自分は精神保健の分野の仕事を長くやってきたこと、この分野にはユダヤ人が多く、その大半が「親イスラエル」であり、映画のような現実は知らないこと、またアメリカのユダヤ人の中には富裕者も多く、またメディアでも親イスラエルのユダヤ人が大きな力を持っているので、イスラエルについて事実が伝えられず、アメリカ国民の多くはその現実を知らないこと、一方、イスラエルにアメリカ政府が莫大な資金援助をしていて、自分たちの税金がパレスチナ人の弾圧のために使われていることに疑問に感じ反発する国民が増えていることなどをトオルさんが電話口で延々と私に語った。
「とにかくあなたの仕事はとても重要だから、続けてほしい。私はこれからも支援を続けます。連絡を取り続けましょう」と言って、トオルさんは電話を切った。
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