Webコラム

日々の雑感 208:
『ガザに生きる』アメリカでの初公開

2011年2月6日(日)米国上映ツアー

 私がサンフランシスコ郊外エリサリートに住む友人Mさんの家に滞在し始めた1月17日の夜、彼女がサンフランシスコと周辺のベイ・エアリア(Bay Area)でさまざまな社会、政治、市民活動に関わる若い友人、知人たち10人ほどに彼女の自宅に集まってもらい、私の映画の上映会を開いてくれた。私はそのとき『沈黙を破る』の一部を上映したが、その参加者の中にサンフランシスコ市立大学で学ぶアメリカ生まれのパレスチナ人女性Jがいた。サンフランシスコ周辺の大学生たちを対象にしたパレスチナ支援学生団体を結成し活動しているという彼女は、私の映画に強く反応した。そんなパレスチナ人の若者たちなら、私が現在制作中の『ガザに生きる』にも強い関心を持つかもしれない。私は、5部作の短縮版(各20分ほど)のDVDを手渡し、率直な意見を聞かせてほしいと依頼した。
 それから10日ほど経った頃、ニューヨークに滞在中の私の元にJからメールが届いた。「『ガザに生きる』の第5部『ガザ攻撃』の長編版(1時間半)を、私たちの団体主催の会で上映したい」というのである。この『ガザに生きる』シリーズへのアメリカ人の反応を見る絶好の機会になりそうだ。私は快諾した。
 ただ1つ問題があった。私が日本から持参したのは、日本語字幕入りの映像である。アメリカ在住の日本人や在日韓国人のように日本語が読める人なら問題はない。また映像の中で語られる言葉は英語とアラビア語だから、パレスチナ人など在米アラブ人なら大方の内容はつかめる。ただ私が状況説明のために入れている日本語字幕を誰かが英訳しないと、細かい状況が理解できない。ましては日本人でもアラブ人でもない一般のアメリカ市民にはほとんど内容はつかめないだろう。
 私はJに「日本語テロップを同時通訳できる人が確保できるのなら、やってほしい」と返事した。
 その同時通訳を引き受けてくれることになったが、私に宿泊場所を提供してくれたMさんだった。福岡育ちの在日韓国人だが、アメリカン・スクールに通い、その後、アメリカの大学を出て、現在オークランドのNGO代表を務める彼女は、文字通り、英語と日本語のバイリンガルである。
 会場は、サンフランシスコ市内のアラブ文化センター。「センター」といっても、民家を買い取って改造したもので、かつての「居間」が上映会場となった。椅子を並べても30人ほどしか入らない小さな会場である。主催するパレスチナ支援学生団体のメンバーの多くはアメリカ生まれのパレスチナ人学生たちだった。
 上映会の準備も彼らが担当したが、上映会の開始時間になっても、肝心の上映準備が整わない。パソコンとプロジェクターの接続がうまくいかないのだ。もう20人近い参加者は集まっているのに、と私は焦り、いら立った。私は代表のJに「こんなことは上映時間前に済ませておくべきだ」と小言を言った。
 上映準備が整うまで30人近くなった参加者をただじっと待たせるわけにもいかず、私の話で時間稼ぎをせざるをえなくなった。私は参加者たちの前に経ち、自分が“パレスチナ”と出会うきっかけ、『届かぬ声』の各部の内容と、その制作の目的を説明した。
 開始予定より1時間ほど遅れて、ドキュメンタリー映画『ガザ攻撃』の上映がやっと始まった。Mさんが日本語字幕を素早く適格に同時通訳してくれたので、日本語もアラビア語も解せない参加者にも、その内容は伝わったはずだ。映画の映像の大半は、これまで日本で、「ガザ攻撃」の報告会やNHKでの番組などで何度か上映し、しかも映画の編集作業で自分自身はいやというほど見てきた映像で、少しも珍しくはないが、初めて見るアメリカ人にとっては、衝撃的で新鮮な証言であり、映像だったようだ。上映後の質疑応答でも、「ガザ攻撃の映像はもちろんアメリカのテレビなどで観てきたが、それとはまったく違う種類の映像でした」「被害住民のこれほど詳細な証言を聞いたことはなかった」といった声が次々と上がった。とりわけ、参加者にとって「産業破壊」や「イスラエル人の反応」はアメリカでは、ほとんど目にすることのなかった新鮮な映像だったようだ。私は、「パレスチナ人にとって深刻な被害は、爆撃や銃撃による殺戮や破壊のような“直接的な暴力”だけではない。むしろ、占領下で、人びとが日常的に人間としての尊厳をもって生活していける状況とその基盤を破壊する“構造的な暴力”がパレスチナ人住民を破壊している。『産業の破壊』の映像はその象徴です」と説明した。
 参加者の中から、映画の中の「被害家族の証言」について、こんな質問が出た。
 「私たちもテレビニュースなどで、ガザ住民の被害の証言は聞いたことはあります。でも、この映画の中での住民の証言は、もっと深い心情を吐露していると感じました。なぜあのような証言が撮影できたんですか」
 私は、こう答えた。
 「それは取材する側の姿勢の問題だと思います。私はパレスチナ人を単なる『取材対象』とだけ見ていません。それは私の“パレスチナ”との関わり方と関連しています。20数年のパレスチナ取材を通して、私は現場でパレスチナ人から多くのことを学びました。『抑圧とは何か』『人間らしく生きるとはどういうことか』『家族とは何か』『人の幸せとは何か』など、人が生きる上で根源的な事柄を、私はパレスチナの現場で学びました。ある意味では私は人間として“パレスチナ”に育てられたと言ってもいいかもしれません。だから私にとって、“パレスチナ”は“人生の学校”でした。そういう私が現地のパレスチナ人と接するとき、『取材者』によくありがちな『取材して伝えてあげる』という上からの目線で彼らを見たり接したりしていないはずです。『取材させてください。教えてください』という姿勢が私の中にあり、それが相手にも伝わっているのだと思います。もし私の映画の中の証言を、みなさんがそのように感じられるとすれば、そういう私の姿勢のせいかもしれません」
 サンフランシスコ市内で暮らすパレスチナ人男性からは、現在のエジプトの情勢に関連してこんな質問が出た。「中東にあまり関心のなかったアメリカ国民も、いまエジプトで起こっている、民主化を求める民衆のデモに注目がしています。この動きがパレスチナ問題への関心につながっていくと思いますか」
 私は、日本から送られてきたイスラエル有力紙『ハアレツ』の記者アミラ・ハスの、パレスチナ自治政府(PA)のアッバス議長がエジプトの民衆デモを支持するパレスチナ人のデモを禁止したという記事を紹介した後、こう話を続けた。
 「かつてインティファーダ(民衆蜂起)でイスラエルの占領に対して抵抗してきたパレスチナ人の政府が、エジプトの民衆蜂起への同調を禁止するなどまったく自己矛盾としか言いようがありません。それは自治政府がエジプトの独裁政権との関係のみを重視し、民衆と連帯する意志がないことを如実に物語っています。
 アメリカ国民がエジプトの事態に関心を持ったとしても、それが自動的にパレスチナ問題への関心へとつながっていくと期待するのはあまりにも楽観的すぎる、甘い幻想だと私は思います。しかし、今のエジプトの状況は、パレスチナ人にとって自分たちの問題へアメリカの国民の関心を引き寄せる絶好の機会です。それをやるべきなのは、あなたたち、アメリカのパレスチナ人たちなのです。日本人ジャーナリストの私に『つながっていくか』と尋ねないでください。つなげていくのは、あなたたち自身です。それがアメリカで暮らすパレスチナ人の役割です」

 私は質疑応答を終え、最前列の席に戻った。司会者のJが、私に謝意を述べた。すると、私の近くにいたパレスチナ人学生たちが、私に拍手を送りながら立ち上がった。それに促されるように、30人近い参加者たちが拍手しながら次々と立ち上がり、総立ちになった。私は戸惑いながら、また前に進み出た。そして、私に大きな拍手を送り続ける参加者たちに向かって、深く頭を下げた。

次の記事へ

ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。

連絡先:doitoshikuni@mail.goo.ne.jp