2011年4月20日(水)
今、私は福島県の三春町の旅館でこの日記を書いている。3月11日に起こった東日本大震災の被害とその後の状況を取材するため、4月18日に現地入りした。
大震災被害の取材のために私が初めて東北の取材に出たのは、2週間近く経った3月24日だった。ジャーナリストの自分がなぜ即座に現場へ向かわなかったのか。いや向かえなかったのか。あれから1ヵ月以上経った今、それがどれほど痛みを伴うものであっても、ジャーナリストとして、私はやはり報告し、記録に残さねばとならないと思い、この日記を書く決意をした。たとえ自分の恥をさらすことであっても、それが生身の自分なのだから。
大地震が起こった時間の4時間後、私は長い時間をかけて準備してきた緊急シンポジウム「エジプトの政変でパレスチナはどう変わるのか」を開演するはずだった。地震がおさまってしばらく、私は東京の会場に向かうため、タクシーで横浜駅に向かった。しかし駅前の広場は群衆で埋まっていた。全ての電車が止まってしまったのだ。私はシンポジウムの延期せざるをえなくなった。テレビは大震災とその直後の大津波の被害の実態を伝え始めていた。今まで目にしたこともないその甚大な被害のリアル映像に圧倒された。しかし私の中に、「すぐに現場に行かなければ」という、ジャーナリストとして当然、湧き起ってくるはずの衝動が、そのときの私には不思議なほど起こってこなかった。そのことは、「自分がジャーナリストであること」の意味を根本から問い直すべき重大な問題として今なお私の中に重くのしかかっている。とにかく当時の私は、長い時間をかけて準備してきたシンポジウムを直前になって延期せざるをえなくなった精神的な衝撃と、その事後処理に頭がいっぱいで、「歴史的な大事件を追う」という発想も気力もなかった、というのが実情だった。
その夜、JVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会)のMLには、すぐに「福島原発」の取材に出る話が出始めていた。しかし私には、「自分も」という衝動はなかった。今まで一度も取材したこともない「地震」「津波」「原発」という事件を追うことの意味を、私は自分の中に見出せないでいた。自分が現地へ行って何を、どう取材すべきなのかが当時の私にはまったく見えなかったし、自分がすぐに現地で取材しなければという突き上げる衝動がなかったのだ。私はただただ、テレビで報じられる甚大な被害に圧倒され、その映像に見入っていた。
広河隆一氏やJVJAのメンバーたちは翌日から現場へ向かい、その日々の取材活動はツイッターでも伝えられた。彼らのジャーナリストとして当然の行動、その迅速さが私にはまぶしかった。その一方で、情報の受け手、視聴者としてテレビや新聞の報道に圧倒され、「金縛り」にあったように動けないジャーナリストの自分が後ろめたく、情けなかった。
私は2日間、テレビの前を離れられなかった。そして自分の中に、「何を、どう取材すべきが見えなくても、とにかく現場に立たなければ」という思いが大きくなった。しかし動こうにも、私には手立てがなかった。東北の公共の交通機関はマヒしている状況の中では車で向かうしかないのだが、私はぺーパー・ドライバーで運転できない。運転できる他のジャーナリストを探そうとするが、多くの知人のジャーナリストたちはすでに現地へ向かっていた。私は現地へ向かう“足”がなく、見動きできなかった。
私は大地震の前から、3月16日から1週間、沖縄取材を計画していた。1950年代、伊江島で米軍による基地拡張ための農地接収と闘った阿波根昌鴻氏ら農民の闘いを取材するためである。農民が生活の基盤である故郷の土地を、外からの強者によって理不尽に奪われる──それは、まさに“パレスチナ”だった。私は初めて沖縄とパレスチナの接点を見出した気がした。幸い、私の思いとその計画に賛同してくれた沖縄の牧師K氏が車で私を案内してくれることになっていた。この期を逃すと伊江島の取材は難しくなるかもしれない。「歴史的な大事件の現場に一日も早く行かなければ」という思いと、伊江島取材は今しかないという思いの間で迷い悩んだ。しかし実際、東北へ向かう手立てがすぐにみつからない今、テレビの前で悶々としているわけにもいかない。結局、私は沖縄へ向かった。
その途上も、自分が今、大惨事が起こっている東北ではなく、沖縄へ向かっていることに迷いと後ろめたさ、葛藤に悩み続けていた。沖縄に到着した翌日、私は沖縄の知人にこんなメールを送っている。
「こんな時になぜ東北ではなく沖縄なのか。悩み迷いました。今もそうです。パレスチナと沖縄と、今の東北を結びつけるものを模索しているのです。そしてぼんやりと見えてきました。それは人にとって土地とは何かということです。一瞬にして生きる基盤を奪われた人の痛みを伝えること、それが私が今やらなければならないことです。そのなかで何からやるのがいいのか、何からやるべきなのか、その判断に悩み苦しんでいます」
私はこんな時期に沖縄へ向かう“意味づけ”と同様に、東北へ向かうための“意味づけ”を見出だそうとし、それを“パレスチナ”とのつながりの中に見出そうとしていた。そうでなければ、長年、自分のライフワークとして“パレスチナ”を追い続けてきた私が、東北に向かう、自分自身が納得できる“必然性”を見いだせなかったのだ。「すでにこれほど多くの組織ジャーナリストやフリージャーナリストたちが現地で取材し報道しているなかで、私が改めて現地で取材する意味や価値があるのか」という自問に答ええるだけの“意味づけ”の輪郭が私の中にやっと見えてきた。
「農地を守る伊江島の闘い」の足跡と関係者の取材を終える頃、最初の東北取材を終え帰京したJVJAの写真家、森住卓氏が車で再び現地に向かうという情報を得た。私は彼に沖縄から電話し、同行させてほしいと依頼した。彼は同意し、沖縄から帰った翌々日、私は森住氏の車に同乗して岩手県の陸前高田市に向かった。
津波によって街全体が壊滅した陸前高田。私は森住氏と現場を歩き、取材し撮影した。鉄筋コンクリートの建物以外、ほとんど建物が破壊され瓦礫の山となった街に、多くの人びとが語るように、私はヒロシマを想った。破壊現場の凄まじさに圧倒されて、ひたすら廃墟、瓦礫の山を撮り続けた。現場で家族や家の跡から家財道具や貴重品を探す2、3人の住民たちと出会い、言葉を交わした。40代の母親と小学生の2人の娘は、公営アパートの破壊された自宅の中の瓦礫の山の中から使える家財道具を探していた。野外の瓦礫の中で、40代後半の男性が家ごと流された弟夫妻の遺体を探していた。介護していた老女を車で乗せて逃れる途中、津波に飲まれた妻を探す老人にも出会った。リックを背負い杖をつきながら、その老人は瓦礫を踏み越えながら妻の車をひたすら探し続けていた。
津波の直後、破壊現場ではこんな人たちがたくさん歩きまわっていたにちがいない。実際、テレビではそんな被災者たちの姿を繰り返し伝えていた。間違いなく、私はジャーナリストとしてこの現場に足を踏み入れるのが遅すぎた。
この陸前高田でも、隣街の大船渡でも、避難所で被災者たちの声を聞き、撮影した。彼らは2週間ほど前の生々しい体験を、堰き止めていた思いを一気に解き放つかのように、語り続けた。何もかも失った彼らの多くは、「でも命が助かっただけでも幸運です」と言った。
次に訪ねた大槌町に入って間もなく、私は異様な匂いに気付いた。死臭だ。2002年4月、イスラエル軍に2週間包囲され猛攻撃に晒されたパレスチナ・ジェニン難民キャンプの瓦礫の中で嗅いだ、あの死臭である。津波で街が全壊したその瓦礫に埋まった人の遺体から発せられているにちがいない。高台にある小学校の避難所で1晩を過ごした。校舎の片隅にビニールで囲んだ6畳ほどの狭い部屋に、避難所スタッフの方々8人ほどが身体を寄せあうように寝た。ストーブが1晩中焚かれていたが、3月下旬の東北は、着の身着のまま寝袋に入っても寒くて何度も目が覚めた。
早朝、校庭で、避難している住民たちが焚き木で暖をとっていた。多くが、この町の漁師たちだった。家も船も失い、彼らはこの小学校に避難していた。ある老漁師が言った。「家も船も流された。漁師を続けるかって? 70歳近くなって、しかも後継者もなく、1000万円を超える借金をして船が買えるか? 買えっこねえ。もう漁師は続けられねえ」
大槌町に足を伸ばしたのは、この町役場の職員に知り合いがいたからだ。彼の助言を得て、住処も生活を基盤も奪われたこの町の住民の思いとその生活を記録できればと考えたのである。しかしパレスチナと重ねるには少し困難があることがわかってきた。
1つは、たとえ住処と生活の基盤を奪われたという共通点はあっても、大槌の場合、“天災”だ。しかしパレスチナは天災ではなく、“人災”である。
もう1つ、パレスチナの場合、「生活の基盤」は土地であるが、大槌町の場合、海である。“土地”というキーワードでパレスチナと沖縄と、さらに大槌町を結びつけるのは無理がありはすまいか。
いずれにしろ、本格的な取材をするには、宿舎が確保できない現場で寝泊まりできる“基地”であり、現場を動き回る“足”となる車がないと動きがとれない。これまでの中東の取材では、それを人と車を雇うことで乗り越えてきた。しかし日本の東北ではそうはいかない。所属する会社に全面的に経済的なバックアップをしてもらえる組織ジャーナリストとは違い、私たちフリーランスのジャーナリストは、取材費がもたないのだ。
住と食を保障してもらいながら、東日本大震災の被害の現場を取材できる対象──それが、仙台市でのボランティア活動だった。沖縄で出会ったK牧師の紹介で、私は3月下旬から1週間ほど、仙台市にある日本キリスト教団東北教区の被災者支援センター「エマオ」に滞在し、そこに集う若者たちの活動と思いを取材した。私がとりわけ強い印象を受けたのは、同志社大学神学部の大学院生たちだった。この支援センターの立ち上げ当初から、仙台に駆けつけ、もう1ヵ月近く泥かき(汚泥除去)などボランティア活動に献身的に励んできた。しかしそんな彼らの言動にはまったく気負いも悲壮感もなく、むしろその活動を嬉々として楽しんでいるかのように明るく、生き生きとしていた。そんな彼らの姿が清々しかった。彼らは、決してストレートに今の大学院生になった青年たちではなかった。高校・大学時代に流れからはずれ、迷い悩み、自分らしい生き方を模索しながら神学という道を選び取った青年たちだった。迷い悩んだ分、彼らはそのボランティア活動の意味を深く自問してきた。しかもそれを言語化する能力も持ち備えていた。4月上旬、仙台での取材を終えて横浜の自宅に戻った私は、彼らを中心にしたドキュメンタリー映像『被災地に来た若者たち』(35分)を編集し、完成した。
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