2011年6月4日(土)
重度の免疫不全症を患うガザ出身の生後4ヵ月半の幼児を、イスラエル人医師とジャーナリストが懸命に救う、その過程を追ったドキュメンタリー映画『いのちの子ども』は、「パレスチナ・イスラエル問題」という政治的な議論を超えて “生命の尊さとは何か”という人間の普遍的なテーマを問いかける力作で、観る人の心を揺さぶる。
私はジャーナリストとして20数年間、パレスチナ・イスラエル問題と関わり、現地の実態を活字や映像で伝えてきたし、この問題に関するドキュメンタリー映画も数えきれないほど観てきた。そんな私も、この映画には強い衝撃を受けた。それは私たち第三者とは違い、現地の出来事に自らの運命、生死さえも直接的に左右される“当事者”が、自らの存在を賭けて制作した、本物のドキュメンタリーだからだろう。
この映画の圧巻は、撮影者のジャーナリスト、シュロミー・エルダールと、ガザ出身の母親ラーイダ・ムスタファとが“生命の尊さ”についての議論する場面である。第三者の私たちには絶対撮れないシーンだ。それは当事者同士だからこそ決して譲れない、自らの存在をかけた主張の、緊迫した激しいぶつかり合いだからである。
パレスチナ人のラーイダは、「イスラエルの砲爆撃でパレスチナ人住民が虫けらのように殺される現実のなかで、どうして“生命が尊い”と言えるのですか。聖地エルサレムを奪い返すためになら、今あなたたちが必死に救おうとしているこの息子が“殉教者”になることもいとわない」と言う。ここでいう“殉教者”(シャヒード)は、自分の政治的な信念または信仰のために自らの命を投げ出す者で、自爆攻撃に走るパレスチナ人もそう呼ばれる。それはイスラエル人のショロミーにとっては「自爆テロ犯」である。「自分たちがこれほど必死に救おうとしているこの活動は、そんな自爆テロ犯を生み出すためなのか」とシュロミーは失望し怒り、そして悩む。彼がもう一方の“当事者”であるがゆえに、その失望と怒りは、計り知れないほど深い。それは他人事ではなく、家族、友人、知人ら同胞たち、そして自分自身もがその犠牲となりえる、切実な現実だからである。その切迫さが、第三者が制作したドキュメンタリー映画にはない、観る者の心を揺さぶる緊迫感を生み出している。
しかし一方、“当事者”であるが故に見ないものがあることもこの映画は示唆している。映画評論家やコメンテーターの中には、ラーイダのあの言動を、「敵イスラエル人に救われることを非難誹謗するパレスチナ人同胞たちに向けた精一杯のパフォーマンスの場面」と言い切ってしまう人もいる。ラーイダ本人も後半で、息子の命を救ってくれたイスラエル人にそう「釈明」しているのだから、そう理解するのも無理もない。
しかし、ガザ住民の生活の実態を肌で知り、彼らの呻吟する声を聞いた者なら、ラーイダのあの言葉は決して「パフォーマンス」ではなく、“本音”だと気づくはずだ。
アラブ人とりわけパレスチナ人にとって“家”や“土地”は特別な意味を持つ。それは彼らにとって、自らの存在、アイデンティティ、尊厳の根源なのである。それを奪われて難民となり、しかもイスラエルの“占領下”で生き続けるガザのパレスチナ人(イスラエル軍に直接統治されていなくても、“封鎖”という手段で生活を支配されているガザ住民は今なお実質的な“占領下”にある)にとって、自らのアイデンティティと“人間の尊厳”を取り戻すことは、命をかけるに値するほど重大な営為なのである。ラーイダが憧れた“エルサレム”とは、まさにパレスチナ人のアイデンティティ、“人間として尊厳”を凝縮し象徴する場所であり言葉なのである。それを取り戻すために自らの命、愛する息子たちの命をも捧げてもいいと言うパレスチナ人の心情をいったい誰が「パフォーマンス」と言い切れるだろうか。
しかし一方、愛する子どもの命を守りたい母親の心情も紛れもない真実である。パレスチナ人の母親の中には相矛盾するこの二つの心情が“共存”し、その間で母親たちは揺れ動き、葛藤する。 ジャーナリストとして現場で“殉教者”となった息子を語る母親たちの声を拾い集めるとき、否が応でもその痛ましい現実と直面せざるをえないのである。
イスラエル人という、もう一方の当事者であるがゆえに、シュロミーが映画で描き切れていないのが、まさにその点である。“家”と“故郷”を奪われ、長年“占領”され続けることで、アイデンティティの根源、“人間として尊厳”を1948年以来、奪われてきたパレスチナ人の痛みと怒りは、その表出の一形態である「テロ」への恐怖と憎悪に目を覆われ、当事者のイスラエル人には見えていないのではないかと思えてならないのである。パレスチナ人に同情的な「良心的なイスラエル人」であっても、パレスチナ人の「テロ」を止めるためにイスラエル軍の攻撃はやむを得ないという。「テロ」と「イスラエル軍の攻撃」を同等の暴力として並べ、「暴力の応酬」と表現するのである。典型的な例が2008年暮に起こったガザ攻撃である。長年ガザ地区に通い続け、アラビア語も解し、パレスチナ人の状況や心情を知り尽くしているはずのシュロミーでさえも、「イスラエル軍のガザ攻撃は、8年も続いたガザからのロケット攻撃を止めさせるためだった」という。しかしパレスチナ人を「ロケット攻撃」や「テロ」に走らせる問題の根源、“占領”(1948年のパレスチナ人の故郷喪失も“48年占領”と呼ばれる)という、映像化しにくいが、真綿で首を絞め殺すような日常的な“構造的な暴力”、そのパレスチナ・イスラエル問題の“構造”については語らないのである。シュロミーほどの聡明なジャーナリストがそれを理解していないはずがない。しかし「テロ」の脅威に日常的に晒される当事者たちは、その恐怖と憎悪によって、冷静に問題の“構造”を俯瞰し表現することができないのではないか。それが当事者の“弱点”といえるかもしれない。私たちパレスチナ・イスラエル問題を伝える第三者のジャーナリストが果せる役割があるとすれば、当事者のこの“弱点”を補う仕事かもしれない。
この映画には1つ重大な翻訳ミスがある。パレスチナ人のラーイダの言葉の中に「自爆テロ」という訳語が出てくる。アラビア語「アマリーエ」(作戦)の訳語として当てられた言葉だろうが、パレスチナ人が「自爆テロ」と表現することはありえない。彼らにとってそれは「テロ」ではないからだ。パレスチナ人が語る言葉なら、パレスチナ人の解釈に沿った言葉を当てるべきで、こちら側の解釈や価値観を観客に押しつけるべきではない。パレスチナ人の発する言葉として伝えるなら「殉教作戦」だろう。それが日本人にはわかりにくいというのなら、こちら側の説明として「殉教作戦」(自爆攻撃)とする程度なら許容されるだろう。
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