2011年6月25日(土)
時代の体制そして社会の大勢から危険視され疎まれる思想を信じ、激しい迫害と弾圧を受け続けながらも、社会の少数派として、屈することなく、凛と生きた明治・大正期の社会主義者・堺利彦(さかい としひこ)の生涯を追ったノンフィクション『パンとペン』(講談社/2010年10月刊)を、3ヵ月かけてやっと読み上げた。この間に東日本大震災が起こり、その取材に動き回っていたため、何度も中断しながらも、飽きっぽい私には珍しく、途中で投げ出さず、著者の「あとがき」そして「略年譜」まで辿り着いた。それは著者・黒岩氏の綿密な取材と徹底した資料収集、それを見事にまとめ上げ、その積み上げた“事実”によってぐんぐんと読む者を“堺利彦”の世界に引き込んでいく筆力によるものではあるが、なんといっても、その非凡な筆力によって紙面から浮かび上がってくる堺利彦の“生き様”の見事さに、圧倒されたからだった。「略年譜」に列記される気が遠くなるほどの量の翻訳や記事、論文の数、発刊するたびに官憲によって発行禁止処分にあっても、次々と新たな雑誌を立ちあげていくその強烈な意志と執念、それを支える底知れぬエネルギーにただ、ただ驚嘆してしまうのである。何がそうさせるのか。その足跡は“信念”という月並の言葉では表現しえない、超人的な“意志の強靭さ”とでも言えばいいのか。
私が「自分が堺の立場だったら、絶対できない」と観念し、だからこそいっそう感服したのは、「明治天皇への爆裂弾テロ計画」の容疑で、親友の幸徳秋水ら12人が処刑された「大逆事件」への堺の対応である。その崇高なまでの行動と生き方を突き付けられ、私はしばし呆然となった。
少々長くなるが、『パンとペン』の中から、大逆事件で死刑になった12人の遺体を堺利彦らが引き取る場面を引用してみる。
堺はその日何をしたかを自分では書いていない。だが、悲しみにくれていま間もなく、彼はすぐに各地の処刑された人々の家族や親族に悲しい電報を打っている。さらに十二人の遺体の引き取りや葬儀、遺品の取り扱いについてなど、いまやすべてが彼の判断を待つ状態だった。(中略)
当時、大逆事件の“犯人”と顔見知りだというだけで、無事ではいられないという恐怖に駆られた人も多かった。それほど警察の捜査は執拗で大規模だった。事件への関与を疑われたくない人々は変名を使って姿をくらませた。ほとぼりが冷めるまで潜伏した者もいた。家族や親戚から、これを機に社会主義から足を洗うように説得され、同志に背を向けて去る者もいた。
そのなかで堺はわずかに残った大杉、石川、吉川ら数人の同志と、処刑者の一部の親族たちと共に、二十五日午前十一時ごろ東京監獄へ遺体の引き取りに行っている。「東京朝日新聞」記者の松崎天民(本名・市郎)と「報知新聞」記者の毛呂正春が、これについて記事を書いている。
その日、東京監獄は約八十人の看守と警官に取り囲まれていて、何かひと騒動起きるのではないか、という厳重な警戒態勢だった。二十五日は第一回の「死体搬出」ということで、夕方になってようやく幸徳秋水ら6人分の棺だけが引き渡された。
監獄の北門にある不浄門から六つの棺が運び出されると、堺らはそれを荒縄で縛り、丸太棒を通して担いで、落合火葬場まで運んだが、途中で何度も警察官や私服刑事に行列を止められ、身体検査をされるなどの妨害を受けている。その落合火葬場にも警官十数人が配置され、三十分以上歩いて堺たちが到着すると、その場にいる者を全員検束して新宿署まで連行した。
検束の理由は、逆徒の火葬にこんなに大勢が参加するのは穏当ではない、というほとんど言いがかりのようなことだった。当時、大逆事件の被告たちは「逆徒」と呼ばれている。
だが、堺はその前に、疲れきっていることを理由に、新宿署に出頭しろというなら公費で人力車を用意してほしい、それでなければ一歩も歩けないと抗議したため、警察は数台の人力車を集める指示を出す。人力車が揃うまで時間を稼いだ堺は、火葬する前に棺の蓋を開けさせて、親友の幸徳秋水と最後の別れをした。その首の回りには、紫色の広い帯状のアザが鮮明に残っていたはずである。結局、新宿署に連行された堺が解放されたのは深夜二時だった。
二十六日の夕方にも、堺は残りの棺を引き取るため、大杉らと一緒にふたたび東京監獄に向かう。典獄と相談した結果、遺族から連絡がなく、どう処置すればいいかわらない遺体は監獄内に置いたままにして、菅野すがら数人の棺を引き取った。
その日も前日同様にものものしい警戒で、落合火葬場に着くと、死体引受人になっていた堺為子だけを火葬場に残して、あとは全員が新宿署へ同行を求められている。気丈な為子はたった一人で深夜の火葬場に残り、火葬が終わると骨を拾って、二十七日の明け方、遺骨を抱いて帰宅した。
その後、行き場のない遺骨はしばらく堺が売文社で預かることになった。堺の娘の真柄は『私の回想(上)』に次のように書いている。「私が八歳のとき、赤旗事件で出獄後、はじめて売文社の看板をかかげた東京四ツ谷南寺町の父の床の間に、小じんまりとした白い風呂敷包みが、五つ六つ並んでいた。そして人の出入りがいつもより多く、その前に座り込んで話をしたり、妙にざわざわしていた。表に出ると、ウロウロと家の様子をうかがっている私服刑事尾行君が居る。(中略)年長の男の子に「お前んところじゃア、天皇陛下を殺そうとしたんだぞ」とこづかれた。私はわからなままに、大それたことが自分の親の周囲で起こったということを感じ、また殺すという言葉に刺激されて、私はでも大悪党のかたわれのような気になって、大いに肩身せまく思ってスゴスゴ家に引き返した記憶がある。」
八歳の子供にも、異様な雰囲気は忘れがたかったのだろう。世間の冷ややかな目、官憲の執拗なまでの警戒、監視と尾行、あるいは恫喝、こうした絶え間ない攻撃にも屈せず、胸を抉るような苦しみに耐えながら、堺利彦は死刑者の遺骨を自宅の床の間に安置し、最後まで世話をした。
十二人の遺骨は堺から引取人の手に渡され、それぞれの事情に応じて埋葬された。だが、当局の干渉で、墓石を立てることを禁じられ目印としてわずかに小石を置いただけの墓もあった。
もし当時、私が社会主義者だったら、どう動いただろうか。文中で記述されているように、「事件への関与を疑われたくなく、人々は変名を使って姿をくらませた」かもしれないし、「ほとぼりが冷めるまで潜伏した」かもしれない。いや、“精神的に弱くて脆い”私は、「家族や親戚から、これを機に社会主義から足を洗うように説得され、同志に背を向けて去」っていっただろう。確かなことは、私には、堺利彦のように、政府当局や官憲などに厳しく警戒され迫害を受け、何よりも「逆徒」として世間から忌み嫌われながら、敢えてその遺体を引き取りに行き、遺骨も最後まで面倒を見るような毅然とした生き方は貫けなかった。「こういう自分でありたい」と思いながらも、それができず、自己嫌悪に悩みながら生きてきた私の五十数年の半生の生きた歩みを振り返るとき、それは確信を持って言える。だからこそ、堺らの当時の行動がこれほどまぶしいのだろう。
それは、私がドキュメンタリー映画『“私”を生きる』を取材する過程での抱いた思いにも通じる。あの映画に登場する根津公子さん、佐藤美和子さん、そして土肥信雄さんの3人の生きる姿を追いながら、私は「自分にはできない。でもこういう生き方ができれば」という思いにずっと駆られていた。映画の紹介文の中に私はこう書いた。
「『教育の統制』の巨大な流れに独り毅然と抗い、“教育現場での自由と民主主義”を守るため、弾圧と闘いながら、“私”を貫く教師たちがいる」「日本の社会の“右傾化”“戦前への回帰”に抵抗し、“自分が自分であり続ける”ために凛として闘う、3人の教師たちの“生き様”の記録である」
映画の中で根津さんも佐藤さんも、その周囲の圧力に“自死”さえ想ったことがあると告白している。明治・大正時代に社会主義者として生きた堺利彦らが受けた弾圧、迫害の厳しさは、映画に登場する3人の教師たちの比ではなかったはずだ。しかし『パンとペン』には、堺が自殺の誘惑に駆られたことを匂わす資料はまったく出てこない。何が堺らを支えたのだろうか。家族か、信念か、それとも時代状況か。
堺利彦の生き方に、もう1つとりわけ感銘したことがある。それは主義を貫くために、「売文社」を創立し、堺自身だけではなく、社会から白眼視され、就職も難しい周囲の社会主義者たちの経済的な基盤を確立したことである。その「売文」は多岐にわたる。「新聞、雑誌、書籍の原稿製作」「英、仏、独、其他外国語の和訳」「演説、講義、談話等の筆記」に留まらない。「祝辞、祝い文」、中には詐欺事件にまで発展する開墾事業の趣意書、「愛人」が主人に生活費を無心する手紙の代筆まで引き受ける。その“人間の幅の広さ”“懐の深さ”には感嘆してしまう。どんなに崇高な主義や理想を唱えても、生活の基盤がなければ潰れてしまう。そのことを身にしみて知っている堺は、自身や同志たちが生き伸びる生活基盤を「売文」活動に求めたのである。一方、堺自身はもちろんのこと、周囲の大杉栄など同志たちには、それをこなす能力があった。彼らの生き様に、どんな逆境の中でも行きぬく雑草のような強靭さを見、感嘆してしまうのである。
最後に著者、黒岩比佐子氏にも言及しておきたい。私自身ジャーナリストとして拙文ながら文章を書き、発表してきた。同じく文章を書く仕事をする者としても、黒岩氏の資料収集力、綿密な取材力、そしてぐんぐんと文章を読ませていく筆力と構成力には、脱帽してしまう。こんなノンフィクション作品に出会うと、自分が「ジャーナリスト」と名乗ることを恥じ入ってしまうほどだ。プロの書き手というのはこんな人のことを指すのであって、私などは「ライター」など名乗ってはいけないのではないかさえ思ってしまうのである。
黒岩氏はその「あとがき」にこう書いている。
「これで、私の売文社の軌跡をたどる長い旅がようやく終わった。実は、全体の五分の四まで書き進め、あとひと息というところで、膵臓がんを宣告されるという思いがけない事態になった。しかも、すでに周囲に転移している状況で、昨年、十二月に二週間以上入院し、抗がん剤治療を開始したが、体調が思わしくない日々がしばらく続いた。
はたして最後まで書けるだろうか、という不安と闘いながら、なんとかここまでたどりついた。死というものに現実に直面したことで、「冬の時代」の社会主義者たちの命がけの闘いが初めて実感できた気がする。いまは、全力を出し切ったという清々しい気持ちでいっぱいだ」
この文章が書かれてから4カ月後、黒岩氏は死去している。享年53歳だった。文字通り、命を削って書き綴ったノンフィクション作品である。黒岩氏の早すぎる死を悼むノンフィクション作家、佐野眞一氏の文章に触れて手にした『パンとペン』であった。“本物の書き手”による“本物の人物”を描いた“本物の作品”に触れる機会を得た幸運に感謝したい。そして、自分が今後、活字、映像の作品を編み出すときに、目指すべき大きな目標として、この『パンとペン』を目の前の本棚に置き続けたいと思う。
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