2011年6月29日(水)
昨日の昼前、横浜を発ち、7時間ほどかけて、福島・飯舘村(いいたてむら)蕨平(わらびだいら)の志賀さんの家に着いた。急きょ、飯舘村行きを決断したのは、4月26日、志賀さんが県南の牧場に移動した11頭の子牛の競りが今日、本宮市の畜産競り場で行われるという情報を得たからだ。私の短編ドキュメンタリー『故郷を追われた村人たち─福島・飯舘村─』に登場するその子牛たちの飼育を担当したのは奥さんの百合子さんだった。2ヵ月ぶりにその子牛たちに再会できるというので百合子さんは朝から楽しみにしていた。
しかし競り場で見たその子牛たちの姿を見た百合子さんは、がっかりした。
「がたがたです。かわいそう。面影がなくなっています。ひどいんだもん。うそだろー。痩せたべ。こんなひどいとは思わなかった。毛並み、ボサボサじゃん」。
生まれた時から自分が大切に育てた牛たちがこの2ヵ月間、十分に世話されてこなかったことは一目瞭然だった。それでも、競りでは27万円近い値がついた。この日競りにかけられた乳牛の大方が20万円ほどで取引されたから、悪くない。志賀さんの他の牛の中の1頭は35万円という、この日の競りの最高の値がついた。これで志賀さんは、完全に自分が育て飼ってきた牛から離れることになる。
この日、飯舘村で私が取材してきた長谷川さん、田中さんの牛も競りにかけられた。牛との最後の別れとなるこの競りのために、長谷川さんは、奥さん、長男と嫁、その長女ら一家そろって会場に現れた。田中さんも現在、働いている白河からかけつけてきた。原発事故がなければ、将来、乳牛の「美人コンテスト」である「共進会」に出すために育ててきた、彼が「秘密兵器」と呼んでいた子牛も競りにかけられた。しかし期待に反して、付いた値は20万円代。「あれが20万円ってことはないよな」と隣の友人に不満をぶつけた。自分の十数頭の牛の競りが終わったとき、田中さんが言った。
「値段の問題じゃないですよ。これで幕引きじゃないですか。ああ、いなくなっちゃった、という感じですよ。100円だろうが、100万円だろうが、いなくなったことには変わりないですよ。あとは気にいって買ってもらった、心ある人に大切にしてもらうだけです」
志賀さん夫妻、田中さん、長谷川夫妻にその長男一家など、久しぶりに飯舘村の親しい酪農家たちが集まった。しかし、これからは各々が、それぞれ違った場所で異なる道を歩み始めることになる。このように一堂に会う機会はもうないからも知れない。飯舘村でお互い助け合って生きてきた酪農家たちの小さなコミュニティーが、バラバラになっていく。
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