Webコラム

日々の雑感 222:
その後のイラクとジャーナリストの役割

2011年8月8日(月)

 先月下旬、滞在地エジプトから一次帰国した「朝日新聞」の中東駐在編集委員、川上泰徳(かわかみ・やすのり)氏と会った。ほぼ1年ぶりの再会だったが、5月13日に開いたシンポジウム「アラブの民主化でパレスチナはどうなるのか」にはスカイプでのインタビューで登場していただいた。私が川上氏とパレスチナの現地で初めて会ったのは、1994年、オスロ合意直後のガザだったろうか。当時、カイロの中東総局特派員だった川上氏は、以後、エルサレム支局長、中東総局長、バクダッド支局長などを歴任、数年前からエジプトのアレキサンドリア駐在の編集委員などを歴任し、一貫して中東の取材を続けてきた、日本で最も中東情勢に精通したジャーナリストである。
 川上氏の話で最も衝撃を受けたのは、氏が6月に取材したイラク情勢だった。私を含め多くのジャーナリストたちが2003年のイラク戦争とその直後のイラク情勢を伝えた。しかしあれあら8年を経た今、その後イラクがどうなったかを伝える報道はほとんど見られなくなった。そして多くの日本人は「米軍の力でフセインの独裁から解放されたイラク国民は、各国からの支援を得て、フセイン時代にはなかった民主主義と自由を謳歌し、平穏と繁栄の日々を送れるようになったにちがいない」と思っているだろう。しかし現実はまったく違っていたのだ。
 川上氏はイラクの現状を、6月24日の「朝日新聞」紙上で「『自由と繁栄』空手形」と題した記事で報じている。
 1月のチュニジア、エジプトの民主化運動に連動して起こったイラクの民主化運動も、当局に弾圧された。デモの準備会合に治安部隊が装甲車でやってきて市民組織の代表たちが拘束され連行された。その1人は、移送された軍の拘置施設で「政府を転覆したいのか」と迫られた。「政治は宗派や民族の個別の利益に基づいて行われ、国や国民の利益を考えていない。国民にとっては失敗国家だ」と彼はイラクの現状を批判する。
 戦争から8年経た今も、イラクは深刻な電力不足で苦しんでいる。外国の支援も、政府の出費も、電気事情の改善のために膨大につぎ込まれたにもかかわらず改善されていない。その原因は「電気省の役人と請負業者が費用を着服し、事業にお金をいかないため」と川上氏は指摘している。その電力不足は、産業の回復に大きな打撃を与えている。
 かつて通りに軒を連ねていた縫製や皮加工工場などは、この電力不足と、関税もなく流入してくる安い外国製品に太刀打ちできないために次々と閉鎖に追い込まれた。フセイン時代は、国内の工場に優先的に電気が供給され、国内製品を保護するための援助や関税などがあったという。また電力不足で農業用ポンプによる灌漑もままならず、イラクの農業が壊滅的な状況に置かれているというのだ。
 さらに深刻な問題は、公務員になるためのコネとわいろの横行だ、と川上氏は報告している。最大の就職先である公務員も、省庁はすべて政党や政治組織によって抑えられ、大臣ポストを握る政治組織の支持者か、幹部の縁故採用が主で「コネ」がなければ難しい、という。川上氏はこう書いている。

 公務員採用で幅をきかせているのが、わいろだ。どのような部署でも役人に数百ドルから2千ドル、3千ドルのわいろを渡さなければ、採用されない。
 就職だけでなく、旅券も、運転免許も、病院の治療も、申請しても延々と待たされるが、しかるべき人物にわいろを渡せばすぐに手続きが終わる。

 また、ある若者はこう語っている。

 これは政治家や役人が権力や権限を独占して、自分たちの利益しか考えていないからだ。若者の多くは大学を出ても、コネやわいろによってしか動かない社会に絶望している。

 川上氏はさらに、軍務につかない兵士の例を紹介している。タクシー運転手であるこの若者は軍務につかなくても兵士の給料の半分をもらえる。残りの半分は幹部で分配する仕組みだというのだ。その若者は「どの部隊でも兵士の10%から20%は、私のように名前だけの幽霊兵士だ」と証言している。

 記事の最後を川上氏はこう締めくくっている。

 腐敗がどこまで国をむしばんでいるかは想像もつかないほどだ。「富国強兵」政策を進めて、国民を犠牲にして戦争を繰り返す独裁者が倒された後、権力は宗派、民族で分割された。しかし、それぞれに自分たちの利益しか考えず、国民はやはり見捨てられている。

 私はまず、8年後のこのイラクの現状に衝撃を受けた。そしてかつてイラクを取材しテレビや雑誌、書籍で報告したジャーナリストである自分がこの現実をまったく知らなかったこと、また知ろうとしなかったことを思い知らされ、いっそう大きな衝撃を覚えたのだ。社会とメディアが注目しているときは懸命に取材するが、その熱が引いてしまうと、もう見向きをしなくなり、『もう終わり。ハイ、次!』とばかり、新たに社会とメディアが騒ぐテーマへと移っていく。たしかにイラク取材には、国内の治安が不安定で身の安全を確保するのが難しかったという事情もあった。組織ジャーナリストのように会社の資金でその対策が講じられるのとは違い、後ろ盾のないフリージャーナリストにとって、それは取材の可否を決める重大な要素の1つである。しかし私の場合、「もうイラクの問題は終わった」という意識がどこかにあったことは認めざるをえない。「自腹で高額の取材費を使い、命がけで取材しても、社会やメディアはもう関心がなく、発表する場もないだろう」という「計算」である。私たちフリージャーナリストは、発表できなければ収入はない。だからその取材の結果が出せるのかどうかの目算を本能的にしてしまう。
 しかし私にとって“パレスチナ”はそうではなかった、と思う。それは金銭を度外視した、いわば“ライフワーク”だったからだろう。つまり“自分が生きる”ことと、“パレスチナを追う”ことが同心円ではないにしても、かなりの部分重なりあっていたのである。20数年関わり続けてきた“パレスチナ”で、私はジャーナリストとしても、人間として育てられた。私にとって“人生の学校”だったとも言える。だから、金銭的な採算がとれないことはわかっていても、私はパレスチナに通い続けられたのだと思う。
 しかしイラクに関していえば、それがなかった。イラク戦争が起こる直前、私はイラクではなく、パレスチナのガザへ向かった。世界の目が一斉にイラクに向き、多くのジャーナリストたちが現地を目指すとき、私は“あまのじゃく”のように、パレスチナにこだわった。しかしその直後、世界が“イラク”一色になり、「自分も歴史的な事件の現場を見ておきたい、行かなければ」という焦りがつのり、戦争直後に遂にイラクに入った。その時も自分の中に“大義名分”が必要だった。私は「パレスチナの占領を見てきた自分が、それと比較するためにアメリカ軍のイラク占領を取材に行く」という目標を掲げた。私はやっと「自分はイラクへ行ってもいい、行くべきだ」と自分の中で納得した。
 今回の東日本大震災の取材もそうだった。「長年パレスチナを追ってきた自分が、なぜ東北へ行くのか」という自問と“大義名分”の模索、震災直後に東北ではなく沖縄へ向かう「的外れ」な行動、沖縄での逡巡、そして「『日本のなかの“パレスチナ”』を東北で追う」という目標の設定……。その過程は4月20日付けのコラム「なぜ大震災以来、沈黙してしまったのか」に記した。

 「考えるより先に、とにかく現場へ向かう」というのがジャーナリストの鉄則なのかもしれない。そういう意味で、私はジャーナリストの資質に欠けるのかもしれない。ただ私の中に、「自分にとってそれがどんな意味を持つのかを思いめぐらすことなく、ただ社会やメディアが今注目するホットな事件現場を飛び回るジャーナリスト」でありたくないという、自分なりの“ジャーナリストとしての指針と矜持”がある。ならば、いったん関わった事柄に対してフォローし続ける責任があるはずだ。川上氏の話と記事に受けた衝撃は、それができていなかった自責と羞恥に起因している。

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