Webコラム

日々の雑感 223:
【玄海原発】玄海町で“私”を貫く人たち

2011年8月17日(水)

 1月に死去した父の初盆のため、四九日の法事以来、半年ぶりに故郷の佐賀に帰省した。せっかく佐賀に戻ったので、最近話題になった玄海(げんかい)原発のある玄海町を訪ねた。小城市(おぎし)牛津町(うしづちょう)にある実家の兄から車を借りて、現地へ向かった。横浜から連絡し、案内をお願したTさん(47歳)と「九州電力 玄海エネルギーパーク」で待ち合わせた。この施設は九電(九州電力)が原発の安全と効能をアピールするために100億円を費やして建設した原発の解説と推進を目的とした巨大な展示場である。もちろんその費用は住民の電気代で埋め合わせされた。
 Tさんの実家は玄海町だが、小学生の息子たちを原発から1キロほどしか離れていない小学校に通わせるのが不安で、住居を呼子町(よぶこちょう)に移した。住民の大半が九電関連の仕事にたずさわる玄海町の住民の中で、反原発の運動を続けるTさんは「変人」扱いされ、地域で孤立した。「村八分」状態に耐えられたのは、反原発運動への揺るぎない信念と日蓮宗への強い信仰だったとTさんは言う。
 Tさんは若い頃からインドなどアジアや中南米などを旅して回り、地球規模の広い視野を養い、平和運動にも長年取り組んできた。奥さんの両親はインド暮らしの長かった芸術家で、奥さん自身も幼少期にインドで暮らした経験がある。2人が出会ったのは沖縄での平和行進だった。志を同じくする奥さんも、孤立の中で反原発の運動を続けるTさんの心強い支えである。山間部の田畑で米や野菜を栽培する一方、近隣の呼子町などで売る木工品を制作して収入を補う。慎ましい生活であるが、自分のこれまでの生き方や行動の中で生み出してきた思想、人生哲学、信仰を貫き、凛と生きるTさんとその家族の生き方に深く感動し、私は自分の生きる姿勢を問われる思いがした。
 私たちとTさんは他の訪問者たちと共に「玄海エネルギーパーク」をガイドの女性に案内されて回った。ガイド嬢は、玄海原発と福島原発との違いを強調し、ここの原発がいかに安全かを力説した。しかし原発の仕組みや核燃料に詳しいTさんが、解説のあいまいさや誤りを鋭く突いて質問すると、ガイド嬢は知っている限りの知識を披歴し答えた。しかしTさんにさらに突っ込んだ質問を畳みかけられ答えに窮した。「もっと詳しい説明ができる係が受付におりますので」と言うと、それ以上の説明を避けた。
 Tさんの説明によれば、原発を冷却した温められた莫大な量の海水が隣接する海に流出されるため、周辺の海水温度が上がり生態系が壊されているという。しかも、その現象はこの玄海原発周辺に限らない。日本海沿岸に広がるたくさんの原発から暖められた海水が大量に流出するため、日本海の海水が太平洋の海水より1〜2度高くなり、生態系に変化を及ぼしているというのだ。有効な地球温暖化対策として推進される原発が海水温度を上げ、生態系を壊しつつあるとすれば、笑えない皮肉である。

 玄海町の12人の町議会議員のうち唯一の共産党議員、藤浦晧(ふじうら・あきら)さん(74歳)は、建設当時から原発の誘致に疑問を抱き、反対し続けてきた。町の財源のや雇用の大半を九電に依存する玄海町では、行政や町議会もまた九電の影響から自由でありえず、九電、とりわけ原発に反対する声は上げるのが難しい。その中で「反原発」の声を公に上げれば、狭い町の中で「村八分」にされ、数少ない雇用の機会も失う。
 農家に生まれ、水田やミカン栽培など農業を営んできた藤浦さんも、暮らす集落の中で、「村八分」状態だった。玄海町のどの集落でも1人や2人は九電関連の仕事に就いている。彼らが“監視役”となり、“反原発”“反九電”の声を上げる住民の情報を九電側に伝える。その結果、その人が九電関連の仕事をしていれば、即クビとなる。だからモノが言えない。藤浦さんは「玄海町は“沈黙の町”」と表現した。
 しかし町の空気が近年少しずつ変わった。議員5期目の藤浦さんだが、初当選以来、2度落選した。当選できてもいつも最下位だった。前々回の選挙でも落選したが、昨年の選挙では少し空気が変わった。「原発に全員賛成ではだめばい。やっぱり杉浦さんが議員でおらんばいかんばい」という声が高まり、前回の選挙では初めて4位の得票数で当選した。3月の原発事故以来、その声はいっそう高まっていると藤浦さんは言う。以前は原発に関して住民から電話がかかってくることもほとんどなかったが、今は励ましの電話もかかってくるようになった。「二度とフクシマを経験したくない」という意識が住民の中には広がっているというのである。ジャーナリストたちが身分を隠し住民と話をすると、原発への危機感を吐露する声を聞くこともできる。しかし一旦メディア関係者だと知ると、住民は途端に押し黙ってしまう。

 藤浦さんが玄海町で“反原発”の声を上げられない元凶として挙げるのが、官・民・学そしてマスコミを含めた“利益共同体”の存在である。その象徴的な例が“入札”問題だ。以前、5億5千万円の工事の入札も、岸本町長の実弟が経営する岸本建設と、ある東京の企業の2社が入札に参加したが、町長が決める予定価格と全く同じ額を提示した岸本建設がその工事を手にした。その金額が同額なのはおかしいと指摘されると、町役場は「偶然、そうなったんです」と突っぱねた。このようないわゆる「100%入札」の実態を藤浦氏は玄海町内で発行される情報誌「玄海民報」で報じてきたが、地元の新聞もテレビもまともに取り上げようとはしないと藤浦さんは嘆く。
 このような藤浦さんの存在は、町の行政にとっても煙たい存在に違いない。そんな藤浦さんの活動を抑え込もうとする画策もされる。去年の選挙前、集落で「区長になれ」と住民に押しつけられた。本業の農業に反原発運動などさまざまな活動に追われ、さらに前々回の落選から再起し、再び町議会の場で活動したいと願っていた矢先の要請だった。「住民が自分の『反原発』など政治活動を妨害しようとした」と藤浦さんは見ている。
 藤浦さんは、玄海町で「村八分」状態に追い込まれる大きな要因の1つは「共産党員だから」と言う。佐賀という保守的な地域で、しかもその典型ともいえる農村社会では「反共意識」は今だ根強い。「いくら言っても住民には通じず、まともに取り合ってもらない。私は初めから排除される立場なんです」と藤浦さんは言った。しかし藤浦さんはそれに全く怯むことはない。「ここまで来たら、どう言われようが痛くも痒くもない。『言う奴は言え!』ですよ」と74歳の藤浦さんは笑った。

 住民の多くが“利益共同体”に取り込まれて、原発に対する危機意識を内心持ちながら押し黙り、むしろ、“反原発”の声や“官民学”の癒着を糾弾する声を上げる勇敢な少数の人たちを抑え込もうとする側に加担してしまう小さな地方の町。その“ムラ社会”から逃げずに孤立無援の中でも“私”を貫き、毅然として生きる徳永さんと藤浦さんの姿に私は心を揺さぶられた。2人との出会いは、今回の故郷への帰省の最大の収穫だった。

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