2011年10月5日(水)
【映画『飯舘村』の主人公の1人、酪農家・志賀正次(しが・まさつぐ)さん】
七転八倒である。ドキュメンタリー映画『飯舘村──故郷を追われる村人たち──』の制作の終盤で行き詰っている。8月下旬のコラムに「粗編がほぼつながった」と報告したが、それから1ヵ月あまり悪戦苦闘している。撮影から編集まで自分ひとりでやってきたが、そこからは“他人の目”が不可欠となる。独りよがりや自己陶酔から抜け出すには第三者で目利きの映像のプロたちに厳しく批判してもらうしかない。NHKの現役ディレクターのYさん、元NHKプロデューサーのNさんには、わざわざ私の家まで出向いてもらって、いっしょに試写をしながら、率直な批評・指摘をいただいた。また先月下旬には渋谷の映画美学校で生徒さんを含めた試写会の場を作っていただき、私が信頼する映像のプロたちに観てもらった。自分では「うまくいった」と思っていたところがまったく不評だったり、「インタビューで本質的な言葉を引き出した」と思い込み、気に入ったそれらの言葉をこってりと重ねている部分は、「結果的に言葉をつまみ食いしているように見えてしまう」「要素だけを切り取るのではなく、もっとその場を切り取るようにした方がいい。全部語り手に言わせようとしている」と手厳しく耳に痛いが、実に鋭い核心的な批評をいただくことになる。
前回のコラムにも書いたが、活字ジャーナリズム出身の私は、どうしても言葉に寄りかかろうとする。登場人物に核心を突いた言葉を語ってもらえれば、「いいドキュメンタリーになる」と早合点してしまう。それが実はしばしば他の映像を殺してしまっていると映像のプロたちから指摘されるが、自分独りではなかなか気づけないのだ。厳しい批判を受けることは辛いし、自信を失い落ち込んでしまうが、自分の独りよがりの作品を改良するにはこれしかない。ある友人は、「土井さんはマゾだから」と笑うが、本人は「よりいいものにしたい」「そのためにはどうすればいいか教えてほしい」と必死なのである。
今回の『飯舘村』がこれまで同様、語りが中心になっているのは、語り以外に映像が十分撮れていないからでもある。インタビューなしで、登場人物たちの動きやつぶやきで組み立てていくには、その映像が撮れていなくてはならず、そのためには長期に張り付いていなくてはならない。ちょっと立ち寄っただけで、こちらが望むような動きやつぶやきと出会うことは難しいからだ。とにかくその場に張り付いて、ひたすら待つしかない。そのためには住み込むのがいちばん手っとり早いが、それが可能になるには人間関係を作れなければならず、一朝一夕ではいかない。飯舘村でその関係が少しできたのは志賀さん一家だった。だから私の映像のなかで一番いい映像が撮れている。
ただ住み込みといっても、そこでいつも“絵”になる状況が現れるわけではない。多くは単調な日常があるだけだ。その単調さに耐えてひたすら待つ忍耐力が必要となる。しかし気が短い私はじっと待っていられず、すぐに焦り迷ってしまう。ここではなく他にもっと撮るべき場面があるのではないかと。だから一番いいかたちは、ある家族の家または村の中または近くに宿泊場所を確保してそこを拠点とし、その家族を主軸にしながら、周囲の村人たちを同時に視野に入れて取材していくことだろう。前回紹介した纐纈(はなぶさ)あやさんの『祝の島』はそれが成功した1例だ。この映画の制作過程で私にそれが十分できなかったのは、飯舘村に入るのが大震災から1ヵ月半と、あまりにも遅すぎたことが大きな理由だろう。その期間は村の状況や人びとの生活や心の動きが一番激しかった時期だからだ。住み込みができるまでの人間関係作りにも長い時間がかかるのだから、早ければ早いほどよかったはずだ。しかし時間を巻き戻すわけにはいかない。もう撮れたもので勝負するしかないのだ。
これまで何本となくテレビの番組やドキュメンタリー映画を制作してきたはずなのに、その経験や失敗による教訓が十分に生かされず、素人のような失敗ばかり繰り返している気がする。たしかに制作の状況が毎回違うし、以前の経験と教訓がそのまま通用するとは限らないのだけれども。
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