2011年10月11日
スイス、ドイツ/2009/93分
監督:ヴァディム・イェンドレイコ
この映画のタイトルから、私は当初、ヨーロッパの女性がアフリカに出かけ、象と交流する映画なのだろうと思い、「観なくてもいい映画」の部類に入れていた。しかし尊敬するジャン・ユンカーマン監督から「私がこの数年観た映画の中で最高の映画」と聞き、それならば、と劇場へ向かった。
ウクライナ生まれの翻訳家の老女の生活と仕事、数十年前に故郷を離れて以来、初めて帰郷するその旅を追った映画である。映画の終盤になって、「5頭の象」とは彼女がライフワークとして取り組んだドストエフスキー5長編大作のドイツ語翻訳本であることを私は初めて知ることになる。
この映画でまず圧倒されるのは、その美しく重厚な映像である。ドイツやウクライナの風景だけでなく、翻訳家スヴェトラナ・ガイヤー女史の品格と知性に満ちた深淵な顔の表情、品位ある落ち着いた住居の静寂が、観る者に心地よい安らぎを与える。緩やかなシーンのテンポがそれをさらに助長する。それは単に35ミリ・フィルムによる映像だからという理由だけではないだろう。この老女が発する言葉の“深さ”こそ、この映画全体の深さと広がりを生み出し醸し出している。
この映画は、社会や政治の問題、人間の普遍的なテーマを正面から取り上げた映画ではない。私の狭い“ドキュメンタリー観”の枠に入らない作品である。“翻訳”と“言葉”を主題に置き、その背景にソ連のスターリン時代に、時代に翻弄されたガイヤー女史と家族の個人史、息子の死が静かに語られる映画だ。これまで私のドキュメンタリーの概念からはみ出し、観たこともなく、観ようともしなかったドキュメンタリー映画だったが、私の心に深く染み入った。なぜなのだろう。
上映後、私はヴァディム・イェンドレイコ監督に「なぜ翻訳家をテーマに選んだのですか」と訊いた。彼はそれは偶然だったと答えた。ドストエフスキーに関する映画を作る準備をしているとき、知人から「ドストエフスキー文学の第一人者がドイツにいる」と教えられ訪ねたのが、ガイヤー女史だった。ドストエフスキーに関する映画の情報集めのつもりで会ったが、彼女の語る言葉の深さ、その人間的な魅力に圧倒され、監督はガイヤー女史自身を映画にする決断をしたというのだ。彼女との対話を通して、監督は“翻訳家”を取り上げる決断をするもう1つ重要なテーマに気付く。つまり“翻訳”という仕事と、“ドキュメンタリー制作”という作業の中に普遍的な共通点を見いだしたのだ。監督は私にこう言った。
「翻訳という仕事は、1つの言語のある言葉を他の言語にそのまま移し変えれば成立するというものでありません。その言葉の意味を深く理解し咀嚼して、その言葉がもつ本質を壊さないかたちで他の言語に移し変えなければならない。それはドキュメンタリーも同じです。目の前の現象を撮影して、そのまま並べたからと言ってドキュメンタリーになるわけではないんです。その現象の意味と本質を見いだし、それを咀嚼して映像化していくものです。そういう意味で、“翻訳”と“ドキュメンタリー”は同じなんです」
イェンドレイコ監督は、そのことを映画の中で、ガイヤー女史自身に語らせている。故郷ウクライナの大学での講義のなかで、彼女が“翻訳”の極意を学生に語るシーンがある。一字一句は正確ではないだろうが、私の記憶を辿って再現すれば次のような要旨の語りだった。
「翻訳をするとき、原書のページを左上から右下まで文字面を芋虫のように這って読んでいてはだめです。鼻を上げて読むんです。そのことをある所で語ったら、新聞に『鼻の高い高慢な翻訳家』と叩かれましたが(笑い)。つまり文章の全体を捉えるんです。それを自分の身体の中に取り込み、“内面化”するのです」
これは翻訳の極意であると共に、ドキュメンタリストにもジャーナリストにも当てはまる、実に示唆に富んだ深い言葉である。“伝え手”は、目の前に現れた事象を、単に左から右へ移すように、ただ映像化して観せるのではなく、その事象をいったん自分の中に取り込み、“内面化”して伝えていくべきだということなのだろう。だからこそ、伝え手には“内面化”できるだけの眼力や価値観、思想、もっと言えば“生き方”が問われるということなのだろう。
この映画の中でのガイヤー女史の言葉で、もう1つ深く心に染みた言葉がある。それは彼女が息子の死を語るシーンである。息子の棺の蓋のネジを最後に母親である自分が締めたことを語ったのち、しばし沈黙の間のあと、彼女はまた静かに語る。
「息子の死とは、もう二度と息子には会えないということなんです」。
その言葉に、私の脳裏の中に少年時代、最も大切な人だった祖母の臨終の瞬間の感情、10年ほど前、母の亡きがらを入れた棺に蓋をするときの感情が蘇ってきた。「もう二度と会えなくなる」。その感情に私は打ちのめされ、押し潰されそうになった。
まさに同じ言葉を、ガイヤー女史がつぶやくように語る。最愛の人を失う悲しみの表現は、さまざまだろう。他の映画で、娘の死を目の当たりにした母親の半狂乱になって号泣するシーンがあった。それにも胸が詰まった。しかし、静かにぽつりと語られたガイヤー女史の言葉とその瞬間の彼女の表情は、より深く私の記憶に焼きついた。
この映画祭で観た数十本の映画の中で、これは“言葉”の力と、その言葉と言葉の “間”、沈黙の力に圧倒された、最も“深い映画”だと私は思った。
(追記)
この映画は、インターナショナル・コンペティション部門で市民賞と優秀賞に輝いた。発表後、監督と再会したとき、彼は「とりわけ市民賞がうれしかった。一般の市民に私の感性を受け止め理解してもらったから」と語った。
『5頭の象と生きる女』予告編
フランス、ドイツ、チリ/2010/90分
監督:パトリシオ・グスマン
チリの標高3000メートルのアタカマ砂漠にある天文台。ピノチェト軍事政権の弾圧で殺された数千ともいわれる人びとの遺骨が埋められた広大な砂漠の土地と、そこで遺骨を探し続ける遺族たち。その一見、まったく無関係なような両者が、いつのまにか重なりあっていく。その2つを結ぶのは「過去をみつめる」という共通の営為である。
何よりも映像が美しい。宇宙の星雲、広大な砂漠、望遠鏡に映し出される克明な月の表面、それはいつのまにか拡大された頭蓋骨の表面へとすり変わる。その重厚で美しい映像は、『5頭の象と生きる女』と同様、35ミリ・フィルム映像の持つ深みからくるのかもしれない。
パトリシオ・グスマン監督はこう語っている。
「星の光が我々に届くには、何十万年もの時間がかかる。だから天文学者はいつも過去を見つめている。歴史学者、考古学者、地質学者、古生物学者、そして、いなくなった者を探す女性たちもそうだ。彼らには共通点がある。過去を観察することで、現在と未来とをよりよく理解しようとしているのである。不確かな未来に直面する我々を、ただ過去だけが照らしてくれる」
映画の終盤で広大な砂漠で延々と遺骨を探し続ける老女が「生きている限り掘り続け、掘り続けるために生き続ける」と語り、両親が自分の身代りとなって抹殺されてしまった娘は、生かされたことへの感謝を語る。静かな語り口だが、あのピノチェト政権の弾圧の残酷さが観る者の胸に迫ってくる。グスマン監督自身、ピノチェト独裁政権の弾圧を体験し、その後、祖国を離れている。あの2人の女性の語りは、監督自身の心情の投影なのだろう。しかしそれを「過去をみつめる」天体の観察と交錯させながら表現する。その表現法はストイック(禁欲的)であり、またそれがよりいっそうこの映画に“深み”を生み出しているように思える。
(追記)
この映画は、「山形市長賞」を受賞した。
『光、ノスタルジア』予告編
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