Webコラム

日々の雑感 234:
山形国際ドキュメンタリー映画祭/報告(5)

山形国際ドキュメンタリー映画祭/報告(4)

2011年10月13日(木)

  1. 『監督失格』
  2. 『311』

山形国際ドキュメンタリー映画祭

『監督失格』

日本/2011/111分
監督:平野勝之

 インターナショナル・コンペティション15作のうち、唯一の日本人監督の作品。34歳で亡くなったAV女優「林由美香」と監督自身との交流を描いた作品だが、前回の映画祭で上映された『あんにょん由美香』(松江哲明監督)(2年前の山形映画祭の感想コラムに批評を書いた→山形国際ドキュメンタリー映画祭2009 (1))に欠落していた、「由美香」の内面やAV女優になるまでの過去が彼女自身の言葉で語られている。その点においては前者よりはるかに見応えのある映画だった。
 この映画の圧巻は、連絡がとれなくなった由美香のアパートに監督と母親が合いカギを使って部屋に入り、すでに死亡している彼女を発見する、その直後、母親が半狂乱となり号泣するシーンである。なぜあの映像が撮れているのかと多くの観客が疑問に思ったことだろう。「助監督が習性としてカメラを回していた」と平野勝之監督は上映後のトークで説明したが、その経緯はともかく、あの映像が撮れていたことで、この作品は成り立っていると私は思う。
 これはAV女優「林由美香」と平野監督との恋愛を描いたセルフ・ドキュメンタリーである。私自身は、上記したシーン以外にあまり心を動かされなかった。最後、由美香の死の悲しみに打ちひしがれ、号泣する監督自身の姿にもだ。「愛した女性の死が悲しく絶望する」のはわかる。しかし、かつての大切な恋人の死の映像さえドキュメンタリー映画として公にされると、その「悲しみ」や「号泣」さえも「映画のための演出」のように見えてしまう。
 私の中に、「由美香との恋愛というプライベートで、大切な思い出をなぜドキュメンタリー映画にして衆人の目にさらすのか」という疑問が残る。私はセルフ・ドキュメンタリーがダメだと言っているのではない。自分やその大切な周囲の人たちを映画として衆人の目にさらすのなら、そのためらいや羞恥心を乗り越えるだけの“普遍的な意味あい”がなくてはならないだろう。たとえば、前に紹介した『ちづる』が、「自閉症など障害を持った家族に周囲の家族はどう向き合うのか」という普遍的なテーマを提示しているようにだ。私はこの『監督失格』にセルフ・ストーリーを突き抜けた、普遍的なテーマ、主張を見いだせなかった。大切な女性との思い出の映像なら、他人にさらすのではなく、自分の机の中にそっとしまっておけばよかったのにとさえ思ってしまう。映像作家を目指す若い学生がこのようなセルフ・ドキュメンタリーを出発点にするのならともかく、40代半ばのベテラン監督が制作するセルフ・ドキュメンタリーにしては、あまり深みも広がりもない作品だと私は思ったのである。インターナショナル・コンペティションの『5頭の象と生きる女』『光、ノスタルジア』のような深い映画と並べられると、それがいっそう際立って見えてしまうのだ。審査員も観客もそれを見抜いたのだろう。この作品は賞の対象とはならなかったし、「市民賞」にも選ばれなかった。
 この映画がなぜ、インターナショナル・コンペティション15作のうち唯一の日本人監督の作品として選ばれたのか、私は選者たちに問いたい。日本人の応募作品の中に、『監督失格』を越える質の作品がなかったということなのだろうか。映画祭では、応募作品のクオリティー(質)が問われ、選者たちの篩(ふるい)にかけられる。一方、選者たちの眼力や見識もまた観客から問われているような気がする。

『311』

日本/2011/105分
監督:森達也、安岡卓治、綿井健陽、松林要樹

 森達也氏、綿井健陽(わたい たけはる)氏という2人の有名なジャーナリスト、若手のドキュメンタリスト・松林要樹(まつばやし ようじゅ)氏、プロデューサーとして著名な安岡卓治(やすおか たかはる)氏の4人の被災地取材ロード・ドキュメンタリーである。
 「伝え手は“黒子”であるべきで、主役になってはならない」という私のジャーナリスト観からすれば、対極にある作品である。取材者の「スター性」を最大限生かしたドキュメンタリーにすれば、こういう作りになるのだろう。制作者の狙い通りに映画祭参加者の関心を呼び、上映された劇場には数百人の観客が押し寄せた。お陰で、同時間に上映された私の作品『“私”を生きる』の会場は半分ほどしか埋まらなかった。私の映画は「スター」たちの集客力に完敗した。私自身も実は、いったいどういうドキュメンタリーなのか気になり、自分の映画の上映会場を抜けだし、この映画の上映劇場へ向かったほどだ。
 この映画の見せ場は、多くの児童が津波の被害となった石巻の大川小学校の現場での、子どもを失った母親たちへの森達也氏のインタビュー場面である。あれは、ジャーナリスト・森達也の面目躍如たるシーンである。「映画の他のシーンはその場面に収れんしていく作りになっていて、前半のおどけた道中映像もそれを引き立たせるための仕掛けだ」と映画に詳しい知人が解説してくれた。なるほどそうなのかと少し納得した。「見せるドキュメンタリー」にはそういう技が必要なのか。「そこが、編集者でありプロデューサーである安岡氏の力技だ」と評した知人もいた。
 一方、私は、あのおどけた道中映像を観ながら、それとはまったく対照的なNHK・ETV特集『ネットワークでつくる放射能汚染地図』を思い出していた。この映画の撮影時期よりもっと早い時期に、つまりもっと放射線量が高かった時期に、原発にもっと接近した地域を綿密に取材して冷静に報告し、大きな反響を呼んだあの番組である。『311』の中で、高い放射線量への恐怖に動揺する4人のドタバタ劇のシーンに、そんな危険な地域であの取材班が、ジャーナリストや研究者としていかに冷静にすごい仕事を成し遂げたかを改めて思い知ったのである。

 著名なドキュメンタリストたちが被災地を取材するこの映画は、一般公開されたら、話題を呼び、多くの観客を集め、興行的にも成功するのかもしれない。しかし私は、森達也氏の「スター性」に寄りかかり過ぎる(もう1人の著名なジャーナリスト、綿井健陽氏の鋭い視点、若いドキュメンタリスト、松林要樹氏の新鮮な視点が生かされていないのは実にもったいないと思う)この映画に正直あまり心は動かされなかったし、私が目指したいドキュメンタリーではないと思った。私の個人的な嗜好からすると、「スター」が主役となる映画ではなく、前に紹介した「大津波のあとに」や、松林要樹氏の『相馬看花─第一部 江井部落』(後半しか見ていないが)のように、取材者がその姿を見せず、対象に静かにそっと寄り添うドキュメンタリーが好きだ。

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