2011年11月5日(土)
(車と人で混沌したカイロの下町)
カイロに来て1週間が過ぎた。1月のあの劇的な革命から10カ月が過ぎた今、あの熱気の残り火を街中に探すのは容易ではない。革命の舞台となったタハリール広場に何度か足を運んだが、今は閑散とした広場でしかない。近くの露店でエジプト国旗や革命の発端となった1月25日のデモをあしらったTシャツを売っているくらいで、“革命”の連想させるものはほとんど目にすることはできない。
私が滞在するホテルのあるザマレク地区はビジネス街でちょっとすました感じの街だ。しかしそこから「6月20日通り」を東へナイル川に掛かる橋を渡ると、もうそこは庶民の街だ。露店の古着売り場が立ち並び、大勢の人びとが行き交い、売り子たちの大きな掛け声、スピーカーから流れるアラブ音楽、渋滞する車が鳴らすけたたましいクラクション……。とにかく活気に満ち溢れ、その喧騒とその中でたくましく生きる人びとのエネルギーに圧倒される。
外国人の私にとってありがたいのは、たとえカメラを提げていても、通行人は気にも留めず、まったく私が存在しないかのように、無視して通り過ぎていってくれることだ。カメラを向けても、別に嫌がる様子もない。中には撮ってくれと催促する人もいる。エジプト革命で、それまで住民が恐れていた秘密警察が街角から消え、その監視の目から解放されたからだろう。人びとは開放的だ。ただ1度だけ、ある衣類店を通りから撮影していたら、主人らしい男が駆け寄ってきて、「なぜ撮っているんだ! 許可はあるのか。警察を呼ぶぞ!」と凄い剣幕で迫られたことがあった。おそらく革命以前の秘密警察への恐怖心を引きづっている人なのだろう。
引ったくりなど盗難や暴行を受ける危険も感じない。すれ違う子供たちも、「お金をくれ」とまとわり着いてくることもない。とにかく人が穏やかで素朴で、明るく、たくましい。だから独りで自由に街を歩ける。道に迷うと、片言のアラビア語でも地図を示しながら行き先を訪ねればいい。私の片言のパレスチナ訛りのアラビア語はなかなか通じず、「お前は英語はしゃべれないのか」と訊かれてしまう始末。それでも親切に教えてくれる。「安心して歩ける街」というのが私の第一印象だ。
街の中心街を歩いて気付くのは、やたらと衣類を売る店が多いことだ。しゃれた店の衣類店、その通り露店でジャージなどを並べる青年たち、もっと下町に行けば、通りは古着売り場で埋め尽くされている。いくら1500万人の人口を抱えているといっても、こんなに多くの衣類店が立ち並んで、商売が成り立つのだろうか。その割に、食堂が少ない。日本の「吉野家」や「松屋」「すき屋」みたいな、ちょっと立ち寄って安く食事ができるところがなかなか見つからない。庶民の味として知られる「コシャリ」はマカロニと米の上に豆類がのっていて、それにトマトソースをかけて食べるのだが、60円ぐらいで安いが何度も食べたくなるものではない。まだシュワルマのサンドイッチの方が口にあう。
1週間もいると、困るのが食事だ。朝はホテルでパンの朝食が出るが、昼食と夕食に困る。幸い、私のホテルの近くに韓国料理店がある。ご飯を食べないと食べた気にならない私は、毎日夜になるとそこに通い、一番安い焼き飯を食べ続けている。ここはキムチなど数種類のおかずがついてくるのがうれしい。しかも無料だ。これで幾分、野菜類の補給ができる。パレスチナでは民家に泊まるから、食事も家庭料理で、毎日変化がある。ホテル住まいだとそうはいかない。毎日、同じものを食べてしのぐしかない。
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