2011年11月10日(木)
エジプト側からラファ市の国境を越えガザ地区に入る許可がなかなか下りない。悪いことにイスラムの祝日「イードゥ(犠牲祭)」にかかってしまい、役所はまったく機能停止。ただひたすら、4日間のイードゥが終わり、プレスセンターが平常の業務に戻るのを待つしかない。私は、「何もやることがなく、ただじっと待つ」ことにまったく耐性がない。残された大切な時間を無駄に費やしているとことへの焦り、何もすることが思いつかず、ブラブラ過ごしてしまう自分への自己嫌悪に苛立ち、そして落ち込み、塞ぎ込む……。
いつになるか分からず苛立ち、落ち込むようならば、ここからイスラエルへ向かおうと決意したのはほんの2日前だった。とにかく動かなければ、気がおかしくなると思うほど追いつめられ、行動せずにはいられなかった。ただ、去年旅をしたレバノンのスタンプがパスポートに残っていたから、イスラエルの入国審査で尋問されるかもしれない。それにイスラエル政府にプレスカードを拒否され、抗議文を日本内外で公にしたため、入国拒否される可能性もある。それを避けるために、エジプト当局にガザ取材のためのアサイメント・レターを出してくれたある放送局のディレクターに、イスラエル側に提出するアサイメント・レターもお願いした。カイロとテルアビブの間を1時間ほどで飛ぶ「エア・シナイ」のチケットも2日で手に入った。出発日をイードゥ最終日の11月10日に決めた。
10日の早朝、午前4時半に起き、1時間後の5時半にホテルを出た。到着日には空港からホテルまでは渋滞で1時間以上もかかったが、早朝の道路は車もまばらで30分ほどで到着。午前9時の出発だが、3時間も前に着いてしまった。ロビーから出発ゲートの部屋に移動するとき、X線による手荷物検査。そしてボディーチェックを受けたが、調べるのはイスラエル人ではなく、エジプト人のセキュリティーだ。部屋の中でイスラエル人セキュリティーから尋問されると思ったが、全くない。以前、トルコ航空でイスラエルへ向かうとき、イスタンブール空港でテルアビブ行きに乗り換えるとき、その搭乗ゲート前でイスラエル人セキュリティーからパスポート検査やイスラエル訪問の目的など厳しい尋問を受けたものだが、ここではそれがまったくないのだ。小型の飛行機で乗客は100人程度だろうか。私の横にはインド人らしい老紳士が座った。訊くと、インドのムンバイからやってきた30人ほどのクリスチャンのグループで、エルサレムやベツレヘム、ナザレなどを回る5日間の巡礼の旅行だという。
1時間ほどでベングリオン空港に近づいた。着陸直前、眼下のイスラエルの光景を観ながら、「2年2ヵ月ぶりのイスラエルだな」と感慨深かった。入国審査を受けるとき、パスポートと共に放送局からのアサイメントレターを提示し、私は「スタンプは別の紙にお願いします」と言った。審査官は、別紙にスタンプを押したが、その紙はここを出るときに提出するもので、携帯用のものではなかった。私は「別紙のスタンプはないんですか? それがないと西岸でイスラエル兵の尋問のとき疑われて面倒なんです」と審査官に言ったが、「大丈夫」という答えが返ってくるだけだった。ところがこれが曲者だった。この「大丈夫」と言う言葉を信じたばかりに、西岸で酷い目に会うことになる。
とにかくすんなりと入国はできた。いつもの通り、乗り合いタクシーでエルサレム・ホテル前まで移動した。途中、エルサレムの街中で渋滞。オーソドックス(正統派)のユダヤ教徒たちの暮らす街中を走る。「ああ、エルサレムに帰ってきたなあ」と思った。
この2年間で一番変わったのは西エルサレムの幹線道路ジャファ通りに車が走っておらず、その代わり、モダンな路面電車が行き交っていることだった。この夏に開通したのだが、料金システムが機能せず、この3ヵ月は乗車は無料、乗り放題だという。この電車、東は東エルサレムのユダヤ人入植地近郊まで続いている。つまり東エルサレムのパレスチナ人居住区を囲むように造られているユダヤ人入植地と西エルサレムがこの電車によってつながれることになるのだ。確実に、東エルサレムの“ユダヤ化”が進行している。
今回のイスラエル訪問の大きな目的の1つは、プレスカードの再申請だった。もしこれが取れたら、イスラエル側からガザへ入れる。明日からイスラエルの週末で、役所は機能しなくなるので、さっそく到着しホテルに荷物を下ろすと、さっそく西エルサレムのプレスオフィス向かった。オフィスには見覚えのある女性の係官が1人いた。初めて申請する外国人ジャーナリストのように、言われるまま書類を書き込み、手数料50シェーケルをクレジットカードから支払い、書類を提出した。どのくらいの期間かと聞かれて、できれば2ヵ月と答えた。彼女はパソコンに向かってさっそく手続きにかかった。するとその女性スタッフの先ほどまでの優しい声が変わった。「あなたは以前、拒否されていますね」と彼女は私に冷たい声で告げた。「こちらでチェックをして、来週以降、こちらから連絡するから」。もし拒否された場合、先ほど支払った50シェーケルはどうなるのかと訊くと、それはこの手続きの料金で、その支払いがなければ、手続きにもかかれないと彼女は説明した。
「やはり、だめか……」と、帰路、また落ち込んだ。2年が過ぎ、過去の記録は消えているかもというわずかな期待はあっさり裏切られた。そういえば、2009年8月下旬、そして11月NHKエルサレム特派員の飯島さんからの申請(NHKのディレクターからのアサイメントレターだったから)、さらに12月、在日イスラエル大使館側の広報担当者から本国プレスオフィスへの問い合わせと、これまで3度私は拒否されている。これで4度目だ。もう2度と、私はイスラエルのプレスカードは取れないという宣告なのかもしれない。
2年ぶりのエルサレムで、もう1つ驚いたのが物価の急騰だ。ダマスカス門の前のいつものレストランでチキン半分と飯で46シェーケル、日本年にして1020円だ。パレスチナ人はどうやってこんな金が支払えるのか。私はご飯だけにした。それでも16シェーケル350円。ご飯1杯が350円? 高すぎる。夜はファラーヘルのサンドイッチで7シェーケル(154円程度)。物価の安いエジプトから来たせいもあろうが、とにかくイスラエルの物価の高さに唖然とする。
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