2011年11月12日(土)
2年2ヵ月ぶりにヨルダン川西岸の街ラマラへ向かうことにした。ラマラが急速にしゃれた街に変貌したという話を聞いた。その変化を見ておきたいと思った。東エルサレムのバス発着場から「18番」のバスに乗る。かつてのようにパレスチナ人居住区ベイト・ハニナの旧道は通らず、入植地道路を走っていく。もう東エルサレム近郊は完全にユダヤ化されていて、それにパレスチナ人もすっかり慣らされているように見える。もう「東エルサレムを首都とするパレスチナ国家の建設」など現実には起こりえない遠い夢のように思えてしまうほど、東エルサレムのイスラエルへの併合がどんどん既成事実化されていく。
昨日、エルサレムに滞在する日本人から「カランディア検問所からラマラ市へ向かう幹線道路の沿道には立派な建物が立ち並んでいる。いったいどこからこんな金が出るのかと思ってしまう」という話を聞いたが、たしかに占領地とは思えない、高い立派なビルが林立している。西岸の住民が「豊か」になっているということなのか。
久しぶりにラマラの街を歩く。たしかに高いビルや店頭に、洗練された広告看板が目につき、かつての両替店が電光掲示板を備えたしゃれた銀行になっていたり、喫茶店も欧米の世界にいるかのようなモダンなスタイルだ。行き交う若い女性たちの身なりもしゃれている。人びとの表情も明るく、今の「繁栄」に満足し、楽しんでいるようにさえ見える。たしかにこの街を歩いている限り、「豊か」「繁栄」というイメージだけで、「占領地」という現実をここで感じとることは難しい。むしろ「パレスチナ国家」などできなくても、「自治区」内で「自由」と「豊かさ」を満喫できればいいという空気さえ感じてしまう。
しかしエルサレムへの帰路、まったく違う現実に直面する。
ラマラのバス発着場で30分ほど待って、やっとエルサレム行き大型バスが入ってきた。狭い発着場で方向転換するだけもたいへんな作業だ。なぜこんな狭い発着場しかないのか。エルサレム方向へ向かう人が多く、バスはすぐに満席になった。ラマラを出たのは午後3時10分ごろ。乗客にはビルゼート大学の学生らしい教科書を抱えた女子学生たちも多い。ラマラ市街を出るまで、またカランディア検問所に近づく頃にひどい渋滞となり、バスはなかなか進まない。検問所までほぼ30分。検問所前で乗客全員がバスから降り、検問所へ向かう。長い檻の中に並ぶ。その先の回転扉もイスラエル兵に管理され自由に動かない。そこで20分近く待たされる。さらに荷物検査と身分証明書検査のところまで進むのに、また檻に並び回転扉が回るのを待たなければならない。そこでも30分近い時間待たされる。その回転扉を操作するイスラエル兵が開けるまで、じっと待つしかないのだ。もうそれが日常であり、生活の一部だと諦めているのか、だれも苛立ちを声や行動で表現する者はいない。「仕方ない。これが日常なのだから」とばかり、じっと回転扉が開くのを待っているのだ。私も「苛立っても仕方ない。皆と同じようにとにかく待つしかないのだから」と苛立ちを抑えるために目をつぶって、じっと回転扉が開くのを待つ。扉は3人が通ったら、また止まる。3人の金属探知機の通過、荷物のX線検査、さらに身分証明書のチェックが終わるまで動かない。ある女性が金属探知機でひっかかった。何度通っても警報が鳴る。ついに彼女は部屋の中で検査を受けることになった。中からその女性の叫び声が聞こえてきた。その間も、回転扉は止まったままで、女性の検査が終わるまで他の通行人はただじっと待たされる。列はどんどん長くなる。
やっと私の番になった。荷物とX線検査は問題なかった。しかしパスポートの提示でひっかかった。審査する女性兵士がパスポートをガラスにぴたりと付けろと命じた。当初、その意図が理解できなかった。そうしなくても私の顔とパスポートの写真の照合はできるはずだからだ。しかし写真との照合だけではなく、私のパスポート番号をパソコンに打ち込もうとしているのだ。2年前には、ただパスポートの写真照合だけですぐに通れたが、今はさらに審査がいっそう厳しくなっている。次に兵士は私に入国時のスタンプを見せろと言った。私にはそのスタンプがない。別紙と空港の係官に「西岸で兵士に問題にされるから別紙にスタンプを押してほしい」と言ったが、「なくても大丈夫」と取り合ってくれなかった。果たして、その懸念が現実のものとなった。私は「スタンプをパスポートに押さないでほしいと要求したら、別紙の用紙もなく大丈夫と言われたから」と説明したが、兵士たちは納得せず、中で兵士たちが相談している。そのやりとりで時間が経ち、その間、回転扉は閉まったままだ。しばらくしてやっと私は放免された。出口でもう1つ回転扉を通ってやっと外に出た。並び始めて50分が経過していた。「別紙スタンプがなくても大丈夫」と言ったあの係官と、こんなに人を苛立たせるイスラエル側のこの理不尽な検問のやり方にも怒りが込み上げてきた。
それにしてもこんな検問を毎日耐えなければならない住民たちの屈辱感はいかばかりか。それでも抗議の声を上げず、じっと耐えて待っている女子学生たち。彼女たちはどういう思いでこの屈辱に耐えているのだろうか。パレスチナ人は占領の中で、それに順応し、笑って生きるしたたかさを身につけているように思える。私のように苛立ってばかりいては身体も精神も持たないだろう。「占領に順応している」ように見えるパレスチナ人たちの“強さ”は、このしなやかさ、悪く言えば、「長いモノには巻かれろ」的な“柔軟さ”なのだろう。
カランディアからエルサレムへ向かうバスの中で、西に沈む赤い夕陽とオレンジ色の夕焼け空を観た。遠くの家々がシルエットになって映し出された。検問所での体験で苛立った私の気持ちを幾分和らげてくれた。東エルサレムのバス発着場に着いたのはもう5時を回っていた。1987年の第1次インティファーダ前は、車で30分もかからなかったラマラとエルサレムを2時間もかけて移動したことになる。外はもう暗かった。
その後、私はあるパレスチナ人ジャーナリストに、カランディア検問所での私の印象、つまり「検問所で人びとが占領のこの実態に慣らされ、それに順応すること覚え、怒りを抱かなくなっているのではないか」という私の印象を率直にぶつけてみた。すると彼は穏やかに反論した。
「かつてはあのような屈辱的な検問に対して怒り、抗議の声を上げていた。しかしそれは何の結果ももたらさなかった。すぐに鎮圧され、状況はさらに悪化した。あのように占領者に従順に見える対応は、ある意味では静かな闘いなのです。どんなに妨害され弾圧されても、自分たちは西岸のラマラと自分たちの首都だと考える東エルサレムの間を通い続けるということを占領者たちに示すのです。これは静かな闘いです」
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