2011年11月13日(日)
(インティファーダのポスター)
今回の旅の主要な目的は、現在、制作中のドキュメンタリー映画『ガザに生きる』5部作を完成されるための追加取材だった。つまりエジプト革命によって、ガザはどのような影響を受け、とりわけ第3部『ハマス』や第4部『封鎖』の状況が、私が取材した2007年以降、どのように変わったのかをガザで取材し撮影することだった。
その第2部『2つのインティファーダ』をエジプト・アレクサンドリアで朝日新聞の川上泰徳氏にも観てもらった。中東問題のプロの目にも耐えられるものか確認しておきたかったからだ。見終ると川上氏は、第1次インティファーダの描き方が薄すぎると指摘した。実は編集しながら、そのことは私自身気付いていた。原因は明白である。1987年12月に始まり、オスロ合意によって終結した第1次インティファーダを取材していた当時、私はスティールカメラとテープレコーダーは使っていたが、まだビデオカメラは使用していなかった。映像を撮り始めたのはオスロ合意以降である。だから当然、第1次インティファーダの様子を映し出した映像もなければ、住民やリーダーたちのインタビュー映像もない。終結から8年ほど経った2001年に、ラジ・スラーニに当時を振り返って語ってもらってはいるが、あのインティファーダが実際何であったのか、パレスチナ社会に何をもたらしたのか、そしてなぜ衰退してしまったのかは語られてはいない。これもまた追加取材が必要だと痛感した。幸い、川上氏が東エルサレムに住む第1次インティファーダの指導者の1人A氏を紹介してくれた。
A氏は元PLO左派のPFLPのメンバーで、反占領闘争に加わったが、20代のとき、逮捕され終身刑の判決を受けた。1985年、イスラエル兵3人と岡本公三らパレスチナ側の1000人を超える政治犯との捕虜交換で出獄し、第1次インティファーダ時代には、30代前半でその統一指導部のリーダーの1人として活動した。
彼はこれまで第1次インティファーダから、第2次インティファーダにいたるまでの経緯をアラファトとの関連を含め語ってくれた。
占領に対する反乱が起こるまで20年という時が必要だった。パレスチナ人は長い間、アラブ世界がその占領から解放する責任があると感じていた。占領は彼らが戦争に敗れた結果なのだから、彼らには占領から解放する責任があると感じたていたのだ。パレスチナ人はPLO(パレスチナ解放機構)も含めた外の世界が自分たちを解放してくれると考えていた。しかし1982年レバノンでPLOはイスラエルに敗北し、PLOの兵士たちがアラブ各国に散り、アラファトらPLO指導部はチュニジアに逃れた。我々はアラブ世界とさらにPLO自体にも失望した。そして今や我々が自らの判断で行動すべき時だと感じたのだ。
それまで占領地で誰一人、自ら行動するというビジョンも、そのための知識も持っていなかった。しかしあらゆる環境がそういう心理状態と現実の状況を生み出した。その一番の引き金は交通事故だった。それが民衆の行動に火をつけた。
外の誰も我々を解放してくれない。では私たちはどうするのだ。何かを始めよう。その何かが民衆による、自発的で、創造的で、平和的な行動だった。それは占領、抑圧、困難、不正義に対する反乱だった。それはまた民族的な感情の表現でもあった。私たちはパレスチナ人であり、アラブ人だ。イスラエルはそのアイデンティティーをすべて消滅しようとし、自分たち自身を表現するわずかな手段さえ奪おうとした。私たちは民衆の自発的な行動を組織化することができた。戦略の源は民衆の創造力だった。事は市井の人たちから起こった。全員がそれに貢献しなければという感情があった。あらゆる人が自分は何をすべきかと言った。我々は1つの民であり、生きているという意識、自分たちには将来があり、それを誰も奪うことができないという意識だった。
イスラエルのあらゆる不正義に直面した占領地の私たちは敵イスラエルを肌で知っている。しかも私たちにはアラブ世界の政治的な抑圧の伝統はない。アラブ世界は過去も現在も、独裁政権で自由というものを知らない。しかもそのアラブ諸国は革命によって成立したものではなかった。たとえ革命によって生まれた環境であっても、抑圧のメンタリティーとつながっていた。一方、イスラエルを外部からの力で破壊できるという考え方はすでに失敗した。そうでなく、内部でその占領という惨事の中で生きている者だけがイスラエルを変えることできると考えた。インティファーダは我々の深い地底から引き起こされた。それは、なぜ私たちは他の人と同じように、自由に独立して生きる権利がないのかという感情から起こったものだった。
第1次インティファーダの組織は、すでに占領地に存在した指導層から生まれた。社会、政治の指導層(獄中で抑圧を体験した者たち)が民衆の願いを昇華し、再構成し政治的なスローガンとした。
PLOは政治的な組織だ。民衆は、それが国家の創設につながると思った。PLOはパレスチナの外で武装闘争の方法を選んだ。しかしPLOは外部のPLOだけだと考えるべきではない。占領地の民衆の共同体から生まれたもう1つのPLOがあったのだ。彼らは創造的で、新しい闘争の手段を生み出した。主要な目標は、自由な独立国家を創ることだったからだ。外のPLOと中のPLOは違うのだ。自分はファタハだ、自分はPFLPだと言っても、外と占領地内ではメンタリティーも、手段も、考え方も、解放への捉え方も、多くの違いがある。武装闘争は外部からもたらされた。占領地の内側では他の経験が蓄積されつつあった。商業組合、女性組織、労働組合など再組織化されえたものによって。彼らは自己表現しそのために行動を行った。この経験は占領地の中で構築されていった。それは武装闘争をベースとした闘いと異なるものだ。武装闘争は失敗した。しかし独立したいという願いが失敗したのではない。
パレスチナ人は2つの違った地域で、2つの全く違った体験をした。1つが失敗しても、もう1つは存在し続けた。そしてそれが表面に出てきた。武装闘争は失敗した。新たな闘争の手段を用いたPLOが、民族闘争のトップとなったのだ。1982年に失敗したのは武装闘争だった。「革命は外からもたらされる」という考え方は失敗した。誰も外からイスラエルを破壊することはできない。とても強い国だ。核兵器を持った国なのだ。最も強力な陸軍、空軍を持った国なのだ。イスラエルを外から破壊するという戦略は失敗したのだ。PLOの武装闘争は失敗した。今やイスラエル政府と国民そのものが、他の民衆を占領した。国民は動揺した。自分たちは犠牲者なのか、それとも他の人びとを犠牲にしているのかと。それを第1次インティファーダがイスラエルの国民と政府に突き付けたのだ。
第1次インティファーダは2つのものを破壊した。1つは、解放は外からでは実現できないということ。もう1つは武装闘争は失敗したということ。だからインティファーダは平和的であり、外からではなく内側から起こったのだ。
それまで指導者たちがそこにいても、それに従う民衆がいなかった。指導層と民衆がつながることで、そこに“行動の電光”が発生した。指導層も民衆がいなければ何もできない。逆もそうだ。そのとき、両者が接触した。民衆は突然、自分たちは占領と立ち向かえるということに気付いた。人びとは互いを知っていて、お互いが連絡を取り合い、まとまることができた。そして民衆の運動を組織化する道が開けたのだ。それはまさらにマジック(魔法)だった。人びとの創造性だ。そして誰も想像をしなかったことが起こった。誰もが提案を出すことができた。その提案が集まり、統一指導部のパンフレットとなった。指導部がそれらの提案を創り上げたのではなく、それらの提案は民衆から起こったものだった。それが闘争全体の戦略を形作っていった。それは民衆の創造力だった。人びとの力がその組織を生み出したのだ。
民衆が反乱まで自発的にたどり着いた。そして指導層が民衆の意志を伝える基盤を作った。しかしその目標をかたちにしたのは民衆の運動の力だった。もはや指導部が民衆に「武装闘争以外で何もできない」と説得することはできない。民衆はこう反論するだろう。「私たちは武装闘争するつもりはない。あなたたちは失敗した。今幼い子どもたちが石でイスラエルと闘っている。これこそが私たちがやるべきことだ」と。
この闘いはイスラエル人をまったく動揺させた。それがその後のオスロ合意など政治的な解決方法へとつながっていった。
冒頭の画像:インティファーダのポスター
Intifada1990: by Ayman Bardaweel in 1990
ウィキメディア・コモンズより
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