Webコラム

日々の雑感 248:
爆弾破片を頭部に抱えたアマルとの再会

2011年12月5日(月)

 今回のガザ再訪の最大の目的は、映画『ガザに生きる』5部作完成のための追加取材だったが、もう1つの大きな目的は、2009年1月、ガザ攻撃直後に出会った当時9歳の少女、アマルに再会し、彼女に支援金を手渡すことだった。

 ガザ市南部のゼイトゥーン地区は、ガザ攻撃におけるイスラエル軍の残虐行為を象徴する事件で、全世界にその名を知られるようになった。イスラエル軍が住民120人ほどを一軒の家に集め、その直後に空軍機でミサイル攻撃し、29人が犠牲となった。その生存者で、4日後に瓦礫の中から救い出され九死に一生を得たのがアマルだった。爆撃された家に閉じ込められる直前、アマルは、両手を上げて部屋を出た父親がイスラエル兵に至近距離から眉間と左胸を撃ち抜かれる現場を目撃している。瓦礫の中から救い出されたアマルの頭部には、いくつもの爆弾の破片が残ったままだった。エジプトやイスラエルの病院で、その破片の摘出手術が検討されたが、周辺の脳を傷つけてしまう危険があるので手術は断念された。

 そのアマルと母親のジナット(当時35歳)を取材した私は、帰国後、アマルの治療や一家の生活支援のために「アマル基金」を立ちあげ、募金活動を開始した。2011年8月末までに集まった支援金は約34万円。2009年8月に私がガザに戻ってアマルと家族に直接渡すつもりでエルサレムまで行ったが、イスラエル政府のプレス・オフィスにガザに入るために必要なプレスカードの発行を拒否されてしまった。直接手渡せなくなった私は、あるNGOを通してガザ市内のパレスチナ人権センター(PCHR)副所長のジャバル・ウィシャ氏にその支援金を送り、当時のレートで34万円に相当する3500ドルをアマルと母親ジナットに届けてもらった。その時の受領書や写真、アマルからの感謝の手紙は、2010年2月の集会「ガザで起こった本当のこと」で報告した。
 その後も「アマル基金」には支援金が届き、2011年9月末現在で約34万円になった(当初からの合計は67万9133円)。今回、その残金の日本円をドルに換金した4300ドルを持ってガザに入った。
 PCHRのウィシャ副所長と共にゼイトゥーン地区にアマルと母親ジナットを訪ねたのは、ガザ入りして4日後の12月1日だった。アマル一家の破壊された家の跡に新しい家が建てられていた。2人とは2009年1月以来、ほぼ3年ぶりの再会だった。アマルは背丈も延び、幼い少女から娘の顔立ちになっていた。もうすぐ12歳になるという。ただ身体が痩せて細いのが気になった。母親のジナットによれば、ゼイトゥーン地区で破壊された住民の家々はあるイスラム組織の支援によって再建されたという。アマルたちが自分たちの家族のために再建された家に移り住んだのはほんの半年前のことだった。

 アマルに話を聴いた。
 「耳の中の痛みや頭痛にずっと苦しんでいます。自分の頭の中で破片が動くのがわかるんです。また目の奥も痛みます。ときどき、頭の横がとっても痛くて、夜に目が覚めてしまうんです。特にたいへんなのは起きるときです。今朝は、学校で3時間目が終わるとき、頭の横の部分に痛みを感じました。私は文字を書くとき、頭や目が痛いから頭を傾けません。起こしたままで書くようにします。
 頭の中から破片が取り除けたらって、ずっと思うんです。だって、歩いているとき、頭の中で破片どうしが振れ合って『ティック、ティック』っていうかすかな音がするんです。頭の中からこの破片がなくなれば、頭や目に痛みはなくなり、問題はなくなるのに。
 支援してくれる日本の人たちに感謝します。いつまでも私たちの側に立ってください。私の頭の中から破片がなくなることを願っています。そして兄弟たちと一緒に大きくなって幸せな生活を送ることができればと願っています。私はもっと勉強をして、怪我で苦しむ人たちを治療してあげられるようにお医者さんになりたいです」

 また母親ジナットがこれまでの家族やアマルの生活を説明した。
「『コラーンとスンナ協会』がこの地区の全部の家を建ててくれました。その協会の人がやってきて、瓦礫の山になった私たちの家を観て、再建の支援を決めてくれました。私は夫と息子を失いました。でも神はこの家を与えてくださった。この家がなかったら、私の生活はもっとひどいものになっていたでしょう。私と子どもたちは、私の実家で8カ月を過ごしました。砂の家で、雨漏りのする1つの部屋で生活しました。とてもひどい生活でした。協会が家を建てることを決めた後も、完成するまで、私の義理の弟の所有する小屋で6ヵ月から8ヵ月間過ごしました。そこは鶏小屋だったところです。とても苦しかったですが、耐えました。
 娘はいつも目が痛み、頭痛がすると訴えます。朝起きるとき、左目が痛いと訴えるんです。私はまた寝て休むように言います。2週間前には鼻血を出しました。学校では、朝礼のとき、先生たちはアマルを他の生徒のように立たせないようにしています。特別に扱ってくれるんです。そんな状態でも飲んでいる薬は鎮痛剤だけです。
 医師は、手術をしたら危険だと私に警告しました。爆弾の破片は取り出せるかもしれないが、アマルは死んでしまうだろうと。テルアビブに診察に行ったとき、アマルに付き添った私の母(アマルの祖母)に医者は『暑いのも、寒いのもアマルにとってよくないし、あまり長く歩いたり遊んだりするのもよくない』と言いました。アマルは遊ぶ自由も奪われました。
 ゼイトゥーン地区を訪ねてきて、アマルのことをいろいろ尋ねる人はいます。私はその人たちに、『アマルを海外の病院へ連れていってほしい。アマルはこれからもずっと破片を頭に抱えたままになるのか、それとも手術で取り除けるのかを確かめたいから』とお願いするんです。アマルがあまりに苦しむのが辛くてなりません。目が痛いって泣くんです。頭痛や耳の痛みにも苦しんでいます。
 私には7人の子供がいます。この子供たちを育てるために誰かに助けてもらいたいんです。誰も私を助けてくれません。一番気懸りなのは、負傷しているアマルとアブダラです。2人がその痛みを私に訴えるとき、胸がつぶれる思いです。私は2人の母親なのに、2人のために何もしてやれない。子供たちはまだ若いのに、彼らのために何もしてやれないんです。もっと成長したときのことを考えるともっと辛くなります。いまは神以外に私たちを助けてくれるものはありません。
誰か、子どもたちを支援してくれる人が必要です。子供たちを育て、生活必需品も援助してくれる人です」

 私が日本から持参した4300ドルをアマルとその家族を支援するためにどう使うのが最も有効なのか、PCHR副所長のウィシャ氏と協議した。ガザの状況を熟知している彼の意見では「現在のところ手術など治療は難しいし、すでに家も支援でできている。だから治療や家建設のために一度に大金が必要な状況ではないから、支援金は生活支援に当てたほうがいい。しかも一度に大金を渡すのではなく、毎月、分割して支援金を渡すのが有効だ」という。私もウィシャ氏の考えに賛同した。
 3日後の12月4日、アマルとジナットにガザ市内のパレスチナ人権センターのオフィスに来てもらった。そこで、ウィシャ氏は12枚の小切手を渡した。300ドルの小切手を10枚、450ドルの小切手を2枚である。10ヵ月間は毎月300ドルずつ支援し(3000ドル)、ラマダン明けや犠牲祭というイスラム社会の2つの大きな祝日には450ドルずつ(900ドル)渡す、残りの400ドルはこの場で現金で手渡す、ということになった。これで4300ドルがすべてアマルと母親ジナットに渡ることになる。

 「アマル基金」の創設からほぼ3年、これまで集まった支援金をアマルに届けるという私の責務はやっと果たしたことになる。

【関連サイト】
ガザ侵攻・子ども支援 第一歩・アマルちゃん募金

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