2012年1月17日 東京:オーディトリウム渋谷
ゲスト:永井愛さん(劇作家/演出家/劇団「二兎社」主宰)
土井敏邦(以下「土井」):では、今日は20分くらいしかないので、ちょっと早めに話を進めていきたいと思います。永井さんご自身は、もう何回かこの映画を見ていただいていると思いますけど、この映画をご覧になった感想はお聞かせください。永井さんご自身は、「日の丸・君が代」問題をテーマに『歌わせたい男たち』という演劇を作ってらっしゃいます。その永井さんからどういうふうに見えたのかなと思いまして。
永井愛さん(以下「永井」):芝居では、一応喜劇としてやったんですけれども、この3人の先生方の生き方を見ていると、本当にどれだけ厳しく孤独な闘いだったのかということがまず一番感じられます。私が『歌わせたい男たち』という、君が代斉唱・伴奏問題についての芝居を書こうと思ったのは、ある日突然新聞に載った処分者の数の多さ。びっくりしたんですよ。何と200人以上もいるんだと。それで、何か変だ、今の日本で、とても奇妙なことが起きていると思ったんです。また、それが当然のことのように新聞の記事の一つに収まっているということに強い違和感を覚えました。その一つひとつにドラマがある。例えば、どんな? ということで書いたんです。
映画は根津さんが卒業式に行かれるところから始まりますよね。あの時、根津さんは穏やかな顔をして歩いていらっしゃるけれども、どんな思いでいらっしゃったのか? 今日、自分が起立しないことによって、何が起きるんだろうと考えたら、ちょっと嫌じゃないですか。もはや、そんな行動をとるのは自分だけだろうし。そして、必ず非難される。それがわかっていて、でもなお行く。それだけでも大変なことですよね。佐藤美和子さんは、首を切った時に血がバーっと噴き出すような勢いで、胃の中に血が噴き出していると診断された。一見もの静かで優しい感じの女性の先生方が、強い意志を持っていてもそこまで闘えないようなことを、やり抜いておられることに、まずすごく打たれます。お二人が偶然にもおっしゃってましたよね、この映画のタイトルと同じ、“私”が“私”でなくなることはできないんだと。
土肥先生は直接的には日の丸・君が代じゃないですけれど、職員会議での「挙手禁止、採決禁止」って、これも普通に考えたらありえないじゃないですか。だけど、大真面目にそう決めた人がいる。私は、これも喜劇としてしか表現できないものではないかと思いましたけれども、実際にはそれで大変なことが起きていて、それこそ胃から出血するようなことになる。
土井:昨日、最高裁判、判決がありましたよね。河原井さんは「処分取り消し」、根津さんは「棄却」。そういう判決が出ました。昨日は「朝日新聞」でずいぶん大きく取り上げていましたけれども、永井さんは、この問題をずっと追いかけていらっしゃるということで、どういうふうにご覧になりましたか。
永井:ちょっと意外でしたね。というのは、もっと悪い判決が出るかもしれないという予測も出ていたじゃないですか。それを覚悟していたので、そこから見れば、「ベリーグッド」ではないけれど、ずっとマシかと。この問題は、他の懲戒処分を受けるような事例とは違うということを、はっきり最高裁判所が認めましたよね。思想・信条的な背景があって、それも決して特殊な考え方ではなく、広く共感を得ている考え方であるいということをです。判決について、5人の裁判官のうち1人が反対意見を述べたというので、教育委員会側の意見に沿った裁判官なのかなと思っていたら、そうではなくて、もっと原告寄りでした。本来、戒告すらされてはならない問題なのだということを、一人の裁判官が言っているわけです。
根津さんが卒業式を妨害したことにされたままで、処分が取り消されなかったのは非常に残念ですけれども、これまで最高裁が出してきた判決からすると、一つ歯止めがかかったような気がしているんです。やたらに停職や減給だとか、させにくくなったのではないかというふうに思っています。
土井:実は、今日そこで売っていますパンフレットの巻頭に、一昨年11月に永井さんと、元NHKプロデューサーの永田さんに来ていただいて、「『“私”を生きる』とはどういう生き方なんだ」という問いかけのシンポジウムをやったんです。その時、私がなぜ永井さんに出演をお願いしたかというと、永井さんは『かたりの椅子』という演劇をお作りになりました。その演劇の台本が雑誌「せりふの時代」に載り、同じ時期にNHKでその演劇が上映されんです。たまたまそれを拝見して、「あっ、これだ」と思ったわけです。簡単に『かたりの椅子』のあらすじと狙いを、永井さんご自身から語っていただけませんか。
永井:ものすごく極端に要約します。この映画もそうですけれども、日本中にある官僚主義、官僚対市民という闘いは、日本ではほとんど官僚の勝利に終わっているんですね。『かたりの椅子』は、新国立劇場での芸術監督選任問題で感じた、私の個人的な体験を基に、“官僚主義”というものの愚かしさと、強靭さを描こうとしたものです。「賢くて強靭」ならまだ分かるんですよ。余りにも愚かで、ボロがぼろっぼろ出て、突っ込みどころ満載なのに、ちゃんと生き残って、市民の方が負けるんですよ。そういうシステム自体を、芝居にしてみたいと思いました。
「市」というある街で、芸術フェスティバルが行われることになって、そこの文化財団、市役所、それから市民が一緒になって実行委員会を作るんですが、「市民のフェスティバルだ」って言いながら、財団の理事長は、どうしても自分が主導権をとりたいんです。一方で、実行委員長に選ばれた芸術家は、ありきたりのことをしたくない。だから「可多里市」の歴史を市民劇にする時も、あまり公の歴史には出てこなかった市民運動なども入れたいと主張する。それから、「かたりの椅子」というアーティスティックな椅子をあちこちに設置して、そこに座って市民がいろいろ話し合う、というようなイベントをやりたいと提案するんです。ところが理事長は、この二つの案がどうしても気に入らない。それを阻止しようと、いろいろ妨害工作をするんです。最初は、実行委員の人たちは皆怒っていたんですが、一人ひとり理事長側に取り込まれて、最後には実行委員長一人が孤立してしまう。最後まで彼を支持していたイベント・プロデューサーも、それこそ『“私”を生きる』のように自分を通して、どこからも仕事が来なくなるより、「たかがフェスティバルじゃないか」と、理事長側についてしまう。日の丸・君が代の「たかが60秒じゃないか」と同じ理屈ですよ(笑)。たかがフェスティバルなんかで一生を棒に振るのは馬鹿らしいということで、一旦は理事長側に寝返るんですが、最後に、もう一度どうしようかなと揺れているところで終わるという作品です。
土井:今おっしゃったイベント・プロデューサー、六枝りんこさんの役を竹下景子さんが演じていらっしゃいましたけれども、そこの要するに買収行為といいましょうか、そこのシーンが非常に面白いんです。
雨田:どこへ行く!
りんこ:本当の居場所へ。
目高;そっちへ行くと、怖いことになるぞ。
雨田:そう、あの行列が待っている。
りんこ:あの行列?
目高:一杯の豚汁(とんじる)を求めて並ぶ行列だ。
りんこ:……
雨田:事務所のローンは、あといくらだ?
目高:お前に返すアテはあるのか?
雨田:厚生年金、入ってる?
目高:国民年金だけだとキツイぞ。
雨田:並ぶのか、あの行列に?
目高:一杯の豚汁を求めて?
というようにして、りんこをこちら側に呼び寄せていく。つまり、「そんなことをしていると損するぞ、生きていけなくなるぞ」ということで、取り込まれていく。自分が自分らしく生きることを出来ない状況を作っていくんですね。
今、永井さんがおっしゃった実行委員長の入川という人が最後まで頑張るんですけれども、最後のここが私は一番印象に残っていましてね。最後に自分が、理事長が実行委員長を辞めさせる会議に出ていく直前にこういうことを言うんですね。
入川:ヤツラ(理事長に寝返った他の実行委員たち)は、僕が抗議すると思っている。僕は、抗議しないんです。
りんこ:抗議、しない?
入川:だって、被害者はあの人たちだ。加害者は常に被害者であることに、僕はやっと気がついた。
りんこ:それは……自分のやったことに耐えられない、良心が痛むというような?
入川:似てるけど、ちょっと違う。自分を社会的な目から見て、いいとか悪いとか判断するんじゃないんです。もっと、心の底からの、自分に対する問いかけだ。これがお前か……というような。
りんこ:……
入川:こういう声が話し合える相手は、自分自身しかいないんです。だから、今日はそれを言う。フェスティバルはやがて終わる。でも、自分に対する裏切りは、その後も続くんだと。
【関連サイト】
劇団「二兎社(にとしゃ)」 →書籍/DVD/パンフレット
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