2012年2月28日(火)
大倉山ドキュメンタリー映画祭で、以前からどうしても観たいと思いながら、その機会を逸していた2本の映画を遂に観ることができた。いずれもキネマ旬報ベスト・テン 文化映画部門第1位の作品である。1本目は2011年の受賞作品『ショージとタカオ』、2本目は今年の受賞作品『大丈夫。─小児科医・細谷亮太のコトバ─』。
『ショージとタカオ』は、1967年に起きた強盗殺人事件「布川事件」の犯人として無期懲役を宣告された「ショージ」と「タカオ」が29年ぶりに仮釈放された直後から、その冤罪を晴らすために闘う14年間を追ったドキュメンタリーである。ドキュメンタリスト・井手洋子さんが、本業だった企業PR映像の制作で生活費を稼ぎながら、2人を撮影し続けた。作品にし発表する当てがあれば、たとえどんなに取材期間が長くても、どれほど資金的に自腹を切っても、耐えられそうな気がする。作品にし、劇場公開か自主上映か、またはテレビ放映などを通して発表することで、どんな努力も経費も幾分報われるからだ。しかし、その当てもなく、終着点が見えないまま、何年も延々と取材を続けることは、並大抵の精神力ではできない。もしそれでも支えるものがあるとすれば、取材・撮影自体に、意味やおもしろさと楽しさを見出だせたときか、「この理不尽さ、不正義はどうしても許せない、何としても伝えなければならない」という“伝え手”としての義憤、責任感を抱いたとき、その一方で「ここで投げ出したら、これまで費やした時間も金も努力も全て無駄になる」ことへの悔しさをこれからの人生でずっと引きずって生きていきたくないという思いに背中を押されるとき、さらに「ここで挫折したら、これまで取材・撮影させてもらった相手に申し訳が立たず、2度と顔向けできない」という強迫観念に駆られるときだろう。
井手さんも、それらすべてに絡めとられて、止めるにも止められなくなったに違いないと私は想像する。「世の理不尽さ、不正義を暴き、社会に知らしめ、それを変革しようとするドキュメンタリスト」というカッコいい言葉では包含できない清濁入り混じった動機によって、ドキュメンタリストは作品を作り続けていると、同じ世界の片隅で活動している私は思うからである。
そのようなさまざまな動機、紆余曲折があったにしても、産み落とされたこのドキュメンタリーは“作り手”の狙いや意図を超えて、観る者を圧倒する。映し出されている「ショージ」と「タカオ」をはじめとする登場人物の持つ魅力、人間力、語られる言葉の重さ、深さ、そして力が観る者の心を揺さぶるのだ。
“作り手”“伝え手”は、描き出す人物たちが放つ“光”を捉え、壊さずにそっと観る人の前に差し出せばいいと私は思っている。そのためには“伝え手”側に、その瞬間を捉えるまでの気が遠くなるような長い時間を待つ忍耐力、一瞬のその輝きを逃さず捉える瞬発力と集中力が要求される。井出さんはそれを見事にこの作品でやってみせた。それこそが井手さんの才能なのだろう。
ドキュメンタリストは“人間の総合力”が勝負だと私は思っている。撮影技術がうまいだけでもだめだし、編集が巧みなだけでもだめだ。相手の重い口を強引に開かせようとする口達者だけでも通用しない。描こうとする相手の中に“人間の本質的、根源的なもの”を見出だす嗅覚と眼力、相手の心を開かせ、その素顔と本音を吐露させ表出させる情熱と誠実さ、それがいつ表出するかわからない長い時間をじっと待ち続ける忍耐力、相手の“痛み”を自分の“痛み”に近づけようとする感受性と想像力、相手の放つ“光”を“伝え手”の姑息な“手”で遮られたり壊されることなくありのままに伝えるために、頭をもたげそうになる自己顕示欲を抑え込む自制心、そして表現力……。
この『ショージとタカオ』という作品の中に、私は井手洋子というドキュメンタリストのその“総合力”を見せつけられる思いがした。そしてドキュメンタリストとしての自分に欠落しているものを突き付けられ、激しい嫉妬心に駆られた。
『ショージとタカオ』のパンフレットの中に、この作品を深く咀嚼し、“作り手”の井手洋子さんの才能を見事に表現した文章に出会った。フジテレビ・ゼネラルプロジューサー、横山隆晴氏の評論である。これほど深く、感動的な映画評論を私はこれまで目したことがない。前述したこの映画や監督・井手洋子さんへの私の感想の浅薄をさらけ出すようで恥ずかく悔しいが、しかしどうしても伝えておきたい文章である。
【ショージとタカオ】の二人が、仮出所後、どんな展開になるのか……、全く予想を立てることなどできなかったはず。更に、再審請求へ向かう道のりは、気が遠くなるほどに先が見えない。井手さんという人間は、どうして、こんな無謀なことを、諦めることなく継続することができるのだろう。【ショージとタカオ】の二人が暗中模索の人生なら、この映画を制作した井手さんもまた、同じ地平を歩き続けている暗中模索の人生であって、その「孤独」の深遠に向き合い続けながら、きっと絞り出すような思いで完成させたこの映画は、だからこそ、観る人の胸を打つ。
ドキュメンタリーは「記録」がベースではあるけれど、実は、制作者の「合わせ鏡」として、制作者自身が作品に映し込まれているという観点からすれば、そこに映っているさまざまな人間の姿は、井手さんという人間そのものを現わしている。この判り難い事実は、同じドキュメンタリー制作を生業にしている者でないと理解してもらえないとは思うのだけど。取材、撮影だけではなく、膨大な素材を前にして閉じこもり、構成、編集という気が遠くなるような、人の想像もし得ない不断の格闘によって作り上げられていくドキュメンタリー作品は、少し乱暴な言い方をすれば、映像では他者を表出しながら、実は制作者自身を描いていくことになる宿命を負う。撮影時の映像の切り取り方、そして構成、編集作業は、何を捨て、何を残すかの果てしない選択の連続となる。それは、制作者の感性、哲学によって、必然的に選択される。この158分は、「ショージ」と「タカオ」を実映像で観せながら、その実映像の“向う側”に、井手さんが曝け出されていて、その姿、佇まいが、清らかで美しいのだ。逆説的に言えば、そうした制作者だから、「ショージ」と「タカオ」だけではなく、この映画に映し込まれている人たちは、制作者を信頼し、制作者に心を許し、小さなデジカメのレンズに、これほどの自然体で姿と言葉を晒してくれている。
今、ドキュメンタリー制作を志している私たちにも、この映画は、実に多くのことを示唆してくれている。ドキュメンタリー制作の基本は、総て一人で行うもの。一人で取材するもの。一人で現場に立つもの。一人で構成を考えるもの。そして孤独であることを、当然に覚悟すること…。映像は他者を映しながら、一人ぼっちで自分の内面と向き合う以外に制作手法はない。
『ショージとタカオ』という映画、そしてその評論文に出会い、私はドキュメンタリストとしての自分の在り方を、改めて問いなおされる思いがする。
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