Webコラム

日々の雑感 259:
飯舘村・村を離れた酪農家たち(1)・長谷川義宗さん

2012年4月21日(土)

 昨年7月17日の「日々の雑感」(飯舘村の酪農家・長谷川健一さん)で紹介した酪農家、長谷川健一さんの長男、義宗さん(33歳)と、飯舘村・長泥地区で、独りで酪農を営んでいた田中一正さん(41歳)に再会するため、福島市から国道13号線を登って山形へ向かった。2人は昨年8月から、米沢市の西10数キロの飯豊町の牧場で働いている。彼らを前回訪ねたのは昨年9月だったから、7カ月ぶりの再訪である。
 前回は奥さん、3歳になる長女とアパートで3人暮らしだったが、5カ月前に次女が生まれ、4人家族になった。福島第一原発の爆発直後、義宗さん一家は千葉に避難し、その後、福島市内の借家で暮らしていた。しかし、そこも放射能の線量が高く、幼児や妊婦だった妻への影響を恐れ、もっと遠くに移らなければと考えていたときに、山形の牧場での仕事の誘いがあった。義宗さんは、調理師専門学校を卒業し、飯舘村の飲食店で調理師の仕事についたが、数年前、父親・健一さんの仕事を継ぐため、酪農の道に入った。やがて牛飼いや「牛の美人コンテスト」である「共進会」に自分の牛を出し競うことに生きがいを見出だし、酪農の道で生きていく決心を固めた。しかし原発事故が義宗さんのそんな酪農の夢を打ち砕いた。
 一時は、現場から長く離れていた調理師の仕事に戻ることも考えたが、数年現場から離れていた調理師の仕事に戻るのも不安だったし、仕事も覚え酪農家仲間との人間関係もでき、やっと面白さがわかってきた酪農への思いを断ち切ることができなかった。そんな矢先の山形での酪農の仕事の誘いを、義宗さんはふたつ返事で引き受けた。
 山形へ来て8カ月、職場の牧場から車で5分ほど離れたアパートから通勤し、早朝の搾乳から、夜の搾乳まで仕事は続く。ただ雇われの身だから、自分が思うようにやれた飯舘村での酪農業のようにはいかない。かといって、将来、飯舘村に帰って村で再び酪農をやることは義宗さんの計画にはまったくない。

 「万が一、村に戻って酪農が再開できたとしても、飯舘村の牛乳を買ってくれる人はいない。『飯舘村』というだけで敬遠されますよ。米も野菜もそうです。もう飯舘村では農業はできませんよ。そういうリスクを冒してまでやる意味があるのかなあと思うんです」

 もちろん自分が生まれ育った飯舘村への郷愁がないわけではない。子どもの頃遊んだ山は懐かしいし、農業という土地とつながる仕事をしてきたから、故郷への思いはなおさら強い。しかし幼子たちを線量の高い村に戻す気にはなれないし、なによりも生活が成り立たない。飯舘村出身の友達と話をしても、「もう、戻れねえべ」という結論に落ち着く。
 今、福島市近郊で、「復興牧場」の計画が具体化し、そのスタッフとして戻って来ないかと声がかかった。故郷の福島で「酪農の復興」のために働けるのなら、と乗り気だ。
 ただ幼子たちをまだ線量が低くない福島に戻す気にはなれない。山形の今のアパートから、福島まで通勤するつもりでいる。

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