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なぜ命を賭けて撮影するのか
(映画『壊された5つのカメラ』)

『壊された5つのカメラ』予告編

(上映情報は『壊された5つのカメラ』公式サイト

なぜ命を賭けて撮影するのか
映画『壊された5つのカメラ』が問いかけるもの
(「週刊金曜日」2012年10月6日号 掲載記事オリジナル原稿)

 催涙弾の白煙があたりを覆い、痛みに眼を開けていられない。刺すような痛みが喉元に走り、激しくせき込み、嘔吐する。それまで怒りを抑え非暴力で抗議デモをしていたパレスチナ人たちが、反射的にイスラエル兵たちに向かって投石を始める。それを待っていたかのように兵士側からデモの群衆に向かって銃撃を開始した。大半はゴム弾だが、殺傷能力がある。逃げまどうパレスチナ人たちに兵士たちが襲いかかる。捕まった青年は数人の兵士たちに取り囲まれ、殴り蹴られ、ついには引きずられ連行されていく。
 そんな状況にカメラを持って居合わせたとき、ジャーナリストはどう行動するだろうか。銃撃されるパレスチナ人の中に残り、襲いかかる兵士たちにカメラを向け撮影をつづけられるだろうか。
 2005年8月、私はまさにヨルダン川西岸のビリン村のその現場にいた。デモの列に混じって撮影をしていた私は、催涙弾が打ち込まれたとき、身の危険を感じ、とっさにデモ隊から離れた。催涙弾や銃撃の現場から、身を守れそうな場所まで避難すると、私はやっとカメラを回し始めた。撃たれることが怖かったし、兵士たちに襲われカメラを壊され没収されることが怖かったのだ。それが私の映画『沈黙を破る』の中のビリン村のシーンだ。

 同じビリン村のデモを撮影した映画『壊された5つのカメラ』は私の映像とは、まったく違っていた。催涙弾の白煙の中や激しい銃撃の中を逃げまどう住民、銃撃されるデモの群衆の中でカメラは回っている。果たして、カメラはその銃弾のために壊される。しかも3度もだ。そのうちの一回は、カメラの中で銃弾が止まったために撮影者は九死に一生を得る。
 同じ現場を体験した私が、この映画に驚嘆したシーンが他にもある。パレスチナ人撮影者が、襲いかかる兵士たちに混じって背後から記録し、さらにパレスチナ人に激しい敵意を抱くユダヤ人入植者たちの集団の中で至近距離から撮影していることだ。外国人ならまだ手加減されることもあろうが、「敵」であるパレスチナ人なら容赦はしない。実際、2台目のカメラは入植者の1人によって壊される。そんな危険の中でなぜカメラを回せたのか。
 この映画の撮影者であり監督のイマード・ブルナートに訊いた。

 「もちろん危険だということはわかっています。ただ私が撮影するとき、単にニュースや映画で使用するために撮影しているわけではないんです。私にとって現場で撮影するという行為は、ビリン村の住民の1人として、私自身の生活の一部なのです。つまり撮影することで、分離壁に反対する住民の運動に参加しているのです。それは自分の責任です。
 外からのやってくるジャーナリストやカメラマンは、その衝突の現場に近づくことを恐れ、離れた安全なところから撮影していました。しかしここで暮らす私にとって撮影は責任であり、そのことに信念を持っていました。たとえ負傷したり逮捕されたり、自分が命を危険にさらることになるにしてもです。それは私が村の住民の一部だからです。私にとって撮影することは、“抵抗”だったのです」

 ドキュメンタリー映画『壊された5つのカメラ』の舞台は、イスラエルとの境界に隣接するパレスチナ・ヨルダン川西岸のビリン村。「テロリストの侵入を防ぐため」とイスラエル政府は、2002年からイスラエルと西岸との「境界付近」に「分離壁」の建設を進めた。問題はその建設場所だった。1967年の休戦ライン(グリーンライン)が国際的に認知されたイスラエルとパレスチナの“国境”である。しかし「分離壁」は、その国境に沿って建設されず、西岸側に大きく食い込むかたちで作られていった。ビリン村の場合、その目的は村の土地を没収して境界付近のユダヤ人入植地を拡張するためだった。その壁の建設によって、農業を主産業とするこの村の耕作地の半分以上が分断され、イスラエル側に取り込まれることになる。村人にとって、それは死活問題だった。住民は壁建設に抗議し中止させるために、非暴力のデモで抵抗を続ける。この映画は、その村人たちの抵抗運動と、それを弾圧するイスラエル国境警備兵、村人たちのオリーブ畑を破壊し暴行を加える入植地たち、さらにカメラマン自身の家族の生活を5年に渡って描いている。
 村の住民の1人で撮影者のイマードが最初のカメラを手にしたのは、4男の誕生を機にその成長を記録するためだった。しかしそのカメラはやがて、抗議デモとそれを力で抑え込もうとするイスラエル兵たち、暴行を加える入植者たちに向けられるようになる。その過程で、兵士や入植者たちによって、次々とカメラが破壊されていく。そのたびにイマードはカメラを修理したり新しいカメラを手に入れて、執拗に撮影を続けていく。

 撮影者のイマードに、私はさらに質問を続けた。「3台のカメラを銃撃され、そのうち1度はカメラで命を救われた。1人の人間として、恐怖心はなかったのか」と。するとイマードは、こう答えた。

 「私も人間だし、恐怖心はあります。だれでも怖いものです。しかしすぐにそれを忘れてしまうんです。『自分の撮影もビリン村の闘いの一部であり、自分はその使命を果たさなければならない』と考えます。私の思いはデモをする他の村人たちと同じです。もちろん私が撮影を続けることで自分の家族、妻や子供たちが心配し苦悩していることは知っています。妻は私に危ない目に会ってほしくないと願っています。でも私にとって、私自身や家族よりその撮影し記録することがもっと大切なことなんです」

 イマードのように、現場で暮らし、自分の問題としてビリン村の出来事を記録し続けるジャーナリストから、私たち外から村にやってきて、撮影する者たちはどう映るのだろうか。

 「外から撮影に来るジャーナリストと私とはもちろん違います。海外からやって2、3日、テレビ映像のためにいくらかの映像を撮影する人たちは、自分の命を危険にさらすことはありません。ちょっと撮影してすぐに自分の国に戻って行くんですから。それはジャーナリストがニュースを作るための“ビジネス”です。そこが私たちと大きく違うところです。その村で暮らしている私にとっては“日常”なのです。私はビリン村の闘いは正義の闘いだと信じていますから、それを撮影するという行為には信念をもっています。だから外からのジャーナリストより強い。自分が信念をもち、それを実行すること、つまり撮影するという行為に責任があります。だから恐怖や危険などを度外視するのです」

 ではイマードにとって、“撮影する”とはどういう意味あいをもつのだろうか。

 「撮影し記録することには複数の理由があります。すでに世界中で何百万人という人たちがこの映画を観ました。これからもさらにたくさんの人たちが観ることになるでしょう。
 この映画は単なる『映画』ではありません。『ニュース報道』でも『政治宣伝』でもない。これは私たちの“生活”であり、“現実”であり、“事実”なのです。観客は、このパレスチナの状況の現実の生活を観るのです。その現実を知ってほしい。それが、全世界に向けたこの映画の“メッセージ”なのです。だからこそ、観る者の心を動かしたのだと思います。
 しかも観客は、その現実を、家庭の中から、そして幼児の眼を通して観ていきます。その子がどのように成長し、その現実に何をどう感じていくのかを観ることになるのです。この映画は単に政治や暴力を描いた映画ではないのです」

 この映画のもう一つの特徴は、共同監督としてイスラエル人が加わっていることだ。平和活動家であり、映画制作者であるガイ・ダビディと撮影者のイマードが出会ったのは、ビリン村の抗議デモの中だった。長年、撮りためた映像を映画としてまとめる決心をしたイマードは、長い闘争の中で信頼関係を築いてきたガイに、映画制作への協力を要請した。ガイはそれを快諾した。
 パレスチナ人が撮影した映像をパレスチナ人自身がまとめた映画は「パレスチナ人のプロパガンダ映画」として偏見を持たれかねない。そこに「イスラエル人」が関わることで、この映画に客観性が加わり、世界に受け入れやすくなったのではと私は思った。しかしイマードは「彼が『イスラエル人』だから、この映画作りへの参加を依頼したのではない」と言い切った。ガイ自身も、「イスラエル人」としてのアイデンティティはほとんど重要ではなかったと答えた。

 「『イスラエル人』というアイデンティティは、私自身のアイデンティティのほんの一部に過ぎず、それがこの映画制作に重要だったとは思っていません。それよりも、『自分が何ものであるか』つまり自分の性格、知識、人生体験とその中で形作られてきた価値観などがもっと重要で、それらがこの映画作りに影響していると思います。外部の人が、『イスラエル人が参加しているから、この映画は一方的ではない』と言うでしょうが、この映画に私が貢献できたのは『イスラエル人』だからではなく、私自身の価値観、思想だったのです」

 ガイの思想、価値観を形作った重要な体験は、18歳のときの“兵役拒否”だった。イスラエルでは男性は18歳から3年間、兵役の義務がある。だがガイは平和主義の信念から、入隊して3ヵ月後、兵役を拒否した。それによって、家族や友人たち、さらに国家と闘わざるをえなかった。それは長い年月をかけた激しい闘いだった。それによって厳しい結果を受けることにもなった。だが、ガイは「この体験で、私は“自由な精神”を創り上げてきた」という。
 その長い“政治的な旅”の後、海外を放浪した。ヨルダン川西岸に行ってみたい衝動にかられたのは帰国直後だった。当時、とても勇気のいることだったが、現地でパレスチナ人の友人もでき、パレスチナ人の村の中で暮らす体験もした。そんな中でガイは、イスラエルが占領地で何をしているかを知っていく。この長い“政治的な旅”のプロセスの後、2009年にガイはイマードの映画に参加することになる。もちろんイスラエルの中から「イスラエル人の観客を満足させるために、政治的なバランスを取ろうとしている」「裏切り者」といった非難をされたが、躊躇も怯みもしなかった。

 ガイがパレスチナ人の映画に参加した大きな理由の一つは、イスラエルの占領は単にパレスチナ社会に影響を及ぼすだけではなく、イスラエル社会自体にも大きな影を落としているからだった。つまりイスラエルの問題でもあるからだ。ガイはその一例として、近年、イスラエル社会がいっそう暴力的になっている現実を挙げた。

 「例えば10年前は、テルアビブの街を女性が独りで歩くことが危険だとは考えもしなかった。しかし最近では街中でのレイプが増えています。日中もです。暴力性もそうです。ときどき人びとは何の理由のなく、その暴力性をさらけ出す。これは占領の影響です。暴力性は手につかんだり、正確にその標的を絞り込んだりはできません。火のようなもので、触れたりできず、あらゆる方向に広がっていく。占領は、パレスチナ人社会に暴力を用いるだけではない。パレスチナ人社会への暴力性は、その後イスラエル社会に持ち込まれます。イスラエル社会に影響を及ぼし、さらに暴力的な社会になるのです」

 だからガイにとって、“イスラエルの占領”を告発していくことは、多くのイスラエル人が非難するような「親パレスチナ人で、反イスラエルの行為」ではなく、「親イスラエルの行為」なのだと言う。

 「それはイスラエルにいい社会を築くためなのです。そのために占領のことを考え、その隣人たちとの関係を修正しなければならない。占領を考えなおすことはもちろんパレスチナ人にとって最も重要なことだけど、占領を続ければ、自国の社会も正常ではありえず、繁栄はできないのです」

 この映画に、ドキュメンタリストの端くれである私は「記録し、伝える者」としての“姿勢”、その資質と覚悟を問われる思いがした。「なぜお前は撮るのか」「お前はそのためにどれだけの思いと覚悟があるのか」と。
 一方、「パレスチナ・イスラエル問題」の伝え方も、この映画が私たちに問いかけている。この主題でテレビ報道やドキュメンタリー映画の伝えられるのは爆撃や侵攻、「自爆テロ」や「暴動」など「センセーショナル」な事件・事象が中心になりがちだ。しかしパレスチナ人にとって、最も深刻な事態は、まるで真綿で絞め殺されるように、日常的にじわじわと生活の基盤を奪われ、人間としての希望と尊厳と破壊されていく、いわゆる“構造的な暴力”である。現在、ヨルダン川西岸で進行している“土地没収”はその典型的な例だ。しかしそれは“絵”になりにくいと思われてきた。この映画は、その通念を破ってみせた。「土地没収のための壁の建設、それに対する住民の非暴力による抵抗、それに対する弾圧」という、日常過ぎてあまり注目されない事象を、映画として成立させた。それは作り手たちの「この“理不尽な現実”に、なぜ世界は沈黙するのか」「この現実を見てくれ!」という思いと叫びが映像からほとばしっているからにちがいない。
 「記録し、伝える」という行為の原点を、この映画は私たち“伝え手”に提示している。

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