2012年11月28日(水)
ナブルス市の西サルフィート町を以前私が訪ねたのは、私が西岸に1年半滞在していた時(1985~86年)だったから、もう30年も前になる。西岸の状況に詳しいあるNGO代表が、いま占領による被害が最も深刻な場所の1つとして上げたのが、サルフィートだった。
現地のパレスチナ人が、車で案内してくれた。人口数千人のサルフィートの周囲には52の入植地が点在している。入植地に包囲されている町というべきかもしれない。それは車で走ると否が応でも実感させられる。私たちがパレスチナ人の道路から、入植地をつなぐ幹線道路に出ようとしたとき、マシンガンを肩に下げた警官に止められた。運転手と私の案内人はIDを、私はパスポートを出せと命じられた。そして無線で連絡したのち「兵士が来るまで待て」とその警官は言った。10分ほど待たされた後、「この車はここを通れない」と言う。「なぜ? 私が外国人だから?」と訊くと、「この道路は、パレスチナ人の個人の車は通れない。通れるのはバスやタクシーだけだ」と告げた。私たちは仕方なく、ユーターンし、遠回りになるパレスチナ人の道路を走るしかなかった。
52の入植地の間には、それらをつなぐたくさんの入植地道路がサルフィート地区内や外を縦横に走っている。そこはパレスチナ人が自由に通れない。つまりその入植地道路はサルフィートのパレスチナ人コミュニティーを分断する役割も果たしているのだ。
案内されたアブ・ニダール(55歳)家は、ユダヤ人入植地のフェンスと分離壁に囲まれていた。フェンスまで数メートル、壁まで10メートルほどしかない。だから家に出入りするにも、フェンスのドアの鍵を開け閉めしなければならない。その同じドアを開けて、イスラエル兵たちが壁とアブ・ニダールの家の間の道路をパトロールで行き来する。まるで牢獄の中のような生活環境である。
アブ・ニダールが、このような状況になった経緯と現状を語った。
(写真:自宅に隣接する入植地前で語るアブ・ニダール/11月19日)
私の名前はハニ・アメル(アブ・ニダール)といいます。家族は元々、現在のイスラエル内にあるカフルカセム村(1948年、第一次中東戦争時に、ユダヤ人の武装組織にパレスチナ人住民の多数が虐殺された村)出身で、祖父はその村から逃げる途中、ユダヤ人に射殺されました。当時、父はまだ子どもでした。もちろん村を追われたのは私の家族だけではありませんが、私の家族は1948年の傷をまだ背負い続けています。そして今、またこの土地からの追放の危機に直面しているんです。
この土地に定住してからも、イスラエルは1990年に私の家の破壊を宣言し、実際、家の拡張部分を破壊しました。また92年から93年にかけて、アズーンへの道路沿いにあった私のレストランを破壊しました。ここで農業に関わる商品を売る店を建てましたが、事務所と商店は3、4回破壊され、そのたびに再建しなければなりませんでした。
分離壁ができる前の2000年には、私たちは家から追い出され、ここに検問所が造られました。1ヵ月間、私と家族は家に戻れませんでした。私の唯一の収入源は商店でした。そこでは農業に必要な肥料や苗、種、農機具などあらゆるものを売っていました。その商店を開き経営するために莫大な金を投資しました。建物だけでも25万ドルもかけました。その店から私たちを追いだしたのです。その1ヵ月間、親戚の家に泊めてもらっていたのですが、家の様子を見に家の近くに戻ると、いつも30人ほどの兵士たちがいて、私たちに銃口を向けて威嚇しました。私たちが家に戻ることを許さなかったのです。1ヵ月後に家に戻ると、あらゆるものが盗まれ、商店が破壊されていました。隣の入植者たちがやってきてあらゆるものを盗んだんです。欲しくないものは破壊しました。盗みも破壊もしないものは焼き払いました。苗は辺り一面に散らかされ、水も与えられず全部枯れてしまっていました。ここで私が長年かけて築き上げてきた生活基盤のすべてを破壊されたのです。その商店は大規模でとても大きな収益が上がっていました。3ドナムの広さがあったんです。
隣接する入植地「アルカナ」の建設が始まったのは、1986年でした。今でも拡張され続けています。私たち家族がこの家に住み始めたのは1973年で、入植地建設の13年も前です。もしその前に入植地がすでにここにあったら、ここに住まなかったでしょう。入植者たちもここに私が家を建てることを許さなかったでしょうけど。入植地建設が始まった後、イスラエルは私がそれ以上の家を拡張することを許さなくなりました。新たなに建てようとすると、すぐに破壊されました。
分離壁の建設が始まったのは2003年です。私たちにそのことが知らされたのは前年の2002年でした。それ以前からイスラエルは考えられるあらゆる手段を使って、私たちを家から追い出そうとしました。それでも私は立ち退きを拒みました。次にお金で買収しようとしました。それでもうまくいかないと、今度は、軍の武力を用いて圧力をかけてきました。兵士たちが「お前たちはここでは快適には暮らせないぞ。生活ができなくしてやる」と脅しました。それでも私はここを動かないと言い張りました。だからイスラエルは私の家のすぐ側に壁を建てたんです。
当初、彼らは私の家のある場所に壁を建てると主張し、家を標的にしていました。壁の建設のために彼らがやってきたとき、私はフェンスの中に立ちはだかり、建設を阻みました。村中の人が私の側についてくれました。外国人や海外の団体、国際赤十字など人権団体、国連なども支援してくれました。世界中から私の支援にやってきていた外国人たちは、それぞれ自国の大使館のスタッフも連れてきてくれました。だからほとんどの大使館も私の件を知るようになり、私たちを支援してくれました。だから自分の家に住み続ける権利を維持することができたんです。ここで暮らすことで直面する問題は、いろいろ混ざり合って複雑です。最も深刻な問題は私たち家族の命が危険な状況にあることです。でも誰も理解してくれません。入植者たちはいつでも私たちの家を襲い、殺すことができるのです。また入植者たちは、私たちを疲れ果てさせ、普通に生活できなくしています。私たちはそれになんとか対処できていますが、私たち家族はこの家で、まったく武器もなく、孤立しています。一方、入植者たちは武装しています。ときどき何十人も集団になって私たちを襲い、銃を発砲し、罵ります。側を通るこの道路から家族に向かって石を投げてくることもあります。時には銃を空に向けて撃って脅すんです。
私の家族は8人で、私と妻と4人の息子、2人の娘がいます。6人の子どものうち、一番上は長男ニダールで28歳、下は12歳です。長男は決まった仕事がなく、時に日雇い労働に出るくらいです。子どもたちは学校や大学、仕事に出ることに問題を抱えています。
最大の問題は、家を空けられず、誰かが家に残っていなければならないことです。ほんの10分家を出ることもできないんです。私たちが家を空けたとたん、入植者たちが家に侵入してくる危険があるからです。家を空けて帰ってきたら、家の中に入植者がいることでしょう。彼らを追い出すこともできません。彼らには軍がついていますから。
ずっと入植者たちの動きを見張っていなければなりません。近くを通る入植者がいれば、彼らがどこへ行くのかずっと見ていなければならないのです。夜、彼らが襲ってくるのでは怖くてなりません。だから夜も、入植者がやってくる危険に備えて家族の1人がずっと起きて見張っていなければなりません。昼も夜も、ずっと警戒体制で備えていなければない。1分たりとも気が抜けないんです。現実に危険にさらされているのですから。家と近くの町までの行き来も大きな問題です。イスラエルに閉鎖されたこの地区までバスも乗り合いタクシーもやってこないため、仕事に出るにも、病院や学校に行くにも、日常生活に必要なものを店まで買いに行くにも、たとえばマッチ箱1つ買うにも2キロの道のりを歩かなければなりません。暑い夏でも寒い冬でもです。
イスラエルは私たちの収入源を奪ってしまいました。他の人たちも私たちの立場だったら、疲れ果ててしまうはずです。ほんとうに命の危険に恐怖し続けているんですから。
私たちの生活はとても困難でみじめです。しかしこの現実から抜け出す方法はないんです。この生活を続けるしかありません。死と生の間で生きていくしかないんです。
残された選択肢は2つです。この家に住み続け、生活を守っていくこと。そしてもう1つは死んでしまうことです。だから、どんなにこの生活に疲れきっても、どんな困難に直面しても、まったく「問題はない」と思うしかありません。家を守り続けようとするなら、あらゆる問題は「存在しない」と考えるしかないんです。“家”があることに代わるものはありません。私たちの“ゴール”は、自分の故郷と、自分の家で暮らすことです。これがもっとも重要なことですから。そのためには入植者たちの隣で生きるしか選択肢はありません。家を守ること以外、他には目的も展望もありません。働けるかどうか、疲れ果てたかどうか、空腹かどうかなんて気にもかけられません。私たちの「人生の設計」はただ1つ、家を守ること。それ以外のことはどうでもいいです。他に野心もありません。いまガザで起こっていることですか? ガザの住民に起こっていることに胸が痛みます。あれは虐殺です。ガザの人たちが自分たちの土地を守ろうとしていることを私は心から支援します。彼らの状況は私の場合ととても似ています。“土地を守る”ということで私たちとガザの人たちは同じで、つながっているんです。お互い気づかい合い、思いやる気持ちを分かち合わなければなりません。ガザの人たちの状況は100%理解できます。同じ状況なんですから。
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