2013年6月13日(水)
憲法の改悪が現実のものとなろうとしている。平和憲法の核ともいえる9条だけではない。私たち “表現者”“伝え手”にとって不可欠な“表現の自由”も、「公益と公の秩序を害する」という名目によって規制・制限されかねない。そして何よりも、“権力を縛る”はずの憲法が、“国民を縛る”憲法へと変質されようとしている。
しかし、ジャーナリズムにとってこれほど危機的な時期なのに、一部のジャーナリストを除いて、フリーランスのジャーナリストたちの中から、「一致団結して改悪を阻止せねば」という運動のうねりは私の知る限り、私の周囲では起こっていない。他人事のような言い方は止めよう。何よりも私自身がそのために行動を起こしていないのだ。危機意識の欠如なのか、行動力の欠落のためなのか。「まさか戦前のような状況にはなるまい」と、どこかで高をくくっているのか。いずれにしろ、私は不安、危機感を抱きながらも、それを阻止するために何も行動を起こせないでいる。そのことに、私はずっと後ろめたさをかかえていた。
だからこそ、「非戦を選ぶ演劇人の会」16回ピースリーディング「いま 憲法のはなし─ 戦争を放棄する意志 ─」を観て、「同じ“表現者”“伝え手”の1人であるお前は、いったい何をしているんだ!」と、横っ面をひっぱたかれるような衝撃を受けたのだ。
「憲法の成り立ち」「96条問題」「天皇の位置づけ」「基本的人権の重要性」「『公共の福祉』の『公益と公の秩序』へのすり替え」「9条の骨抜き化」「自衛隊の位置づけ」「集団的自衛権の問題」……。私もこれらについて断片的な情報を集め、その論点をある程度、把握しているつもりでいた。しかし2時間足らずのこの朗読劇にそれらの問題をこれほど整理、凝縮し体系だって伝えられると、自分の知識がいかに浅く散漫だったかを思い知るのだ。そして何よりも朗読劇の“力”に圧倒される。台本を読むだけなら、これほどの衝撃は受けなかったろう。しかしその活字が肉声として役者の身体から発せられるとき、その言葉に“命”と“魂”が宿り、観る人の心を鷲づかみする。私は改めて“役者”の凄さを目の当たりにした。
それにしても、「憲法問題」という重い政治問題の朗読劇になぜこれほど多くの演劇人たちが、手弁当で馳せ参じ、これほどの情熱を持って演じようとするのか。
芸能界(演劇人がこの範疇に入るのか確信はないが)では「(政治)色がつく」ことはタブー視されると聞く。たとえ「平和運動」「脱原発」であっても、公に発言することで、「色つき」とみなされ、とりわけテレビ出演などではスポンサーから敬遠されるというのだ。しかし芸能界の著名人たちの発言・主張は、世論を動かすのに絶大な影響力を持つ。だから「世論を動かしたい」と願う側は、そういう著名人たちの発言を願い期待する。「芸能人としてではなく、1人の“日本人”として、1人の“人間”としてきちんと主張し、あなたの影響力を行使してほしい」と。ただ芸能人の方々にも生活がある。「色がつく」ことで「仕事を干される」ことを覚悟で、自分の政治信条を公に主張してくれと要求するのは無茶で勝手な願いだ。一方、芸能人の方々も「生活」と「信条」のバランスをどう取るのか。悩み葛藤されているにちがいない。
2012年1月、職を賭して“表現・思想の自由”を守ろうとたたかう3人の教師たちを描いたドキュメンタリー映画『“私”を生きる』を劇場公開した。そのときゲストトークに出演してくださった俳優の根岸季衣さんに、私はその微妙な問題について訊いた。根岸さんは「非戦を選ぶ演劇人の会」の実行委員の1人である。前年の「ピースリーティング」は原発・核問題がテーマだった。
(土井)芸能界にいらっしゃって、はっきりと反原発を口にし訴えていくことはある意味では仕事を失いかねないことだと思うんですよね。だから「非戦を選ぶ演劇人の会」の方があそこまで堂々と原発の危険性・反原発の主張を訴えていくというのは相当の覚悟がいったんだろうなあと思うんですが、どうなんでしょう?
(根岸)実際に勉強させてもらっているんですよね。今、ネットがずいぶん普及して、いろいろな情報が入るとはいえ、あまりに膨大な情報の中でそれを整理しきれない部分というのはいっぱいあるし、テレビだけ観ているととんでもなく一方的なものしか入ってこない。そんな中で実は私なんかは毎年、ほんとうに勉強させてもらっています。自分自身が刺激を受けるのにとてもありがたい場所だなあと思っています。観に来た方たちと一緒に啓発されるというんですかね。
「非戦を選ぶ演劇人の会」って基本的には作家(脚本家)がまず立ち上げたものなので、作家の方々がまずすごく勉強をし、ほんとうにたくさんの本を読んで真摯に取り組んで、演劇的にもクオリティの高いものをきっちり書いてくだっています。(土井)ああいう社会問題に触れることで、仕事が減っていくとか「色がついているから」といってテレビなどマスコミから「使いたくない」と言われるかもしれないと私は思うんですけど、根岸さんご自身、そういう危険を感じて躊躇するというか、自分はやりたいんだけども、仕事のことを考えるとやはりちょっと躊躇してしまうということはないですか?
(根岸)実際に大きな企業のCMをしている方が、戦争反対ということでまず「非戦を選ぶ演劇人の会」のリーディングに参加しようとしていたんです。ちょうどその時、上演されたテーマが、それこそまさに永井愛さんが書いた「日の丸」の問題だったんですよ。そしたらやはり本番前に躊躇されましたね。その方はとてもメジャーなCMをやっていらしたので、やはりまずスポンサー・サイドとの関係をものすごく危惧したことを、友達だったので直に電話がかかってきてわかりました。私は幸いなことにメジャーなCMをやっていないので(笑)。こないだある大企業のコマーシャルをやりましたけど、どうなんでしょうね。ブラックリストにはどこかに載ってると思うんですけど(笑)。自分にもきっとそういう弊害がどこかに起きてるかもしれませんけど、幸いなことに気が付いてないという部分なのかもしれないし。
今の時期に本当に腹立たしいことがあまりに多くて、でもそういうことに全部取りかかるということは活動家になるということで、それは私が表現したいことと一致する場合もあるし、ずれてる場合もある。そうしたら、表現者として何ができるのか、何を人の前で見せていくのか、と思います。幸いなことに、ちょうど3.11の震災の時にもやっていた舞台が『シングルマザーズ』という永井愛さんの脚本の舞台で、本当に苦しいところで頑張っているシングルマザーたちの実際のたたかいから題材を得た芝居だったので、それがそのまま福島で支えあう人たちに共通するような、そういう思いをもって舞台ができました。また実際に被災地にチャリティー公演にも行けて、避難所の方々にも観ていただけたりしたので、すごく自分の仕事ともリンクすることができてありがたかったですね。今度の『パーマ屋スミレ』もそうやって昔の三池炭鉱の話から今の原発を自分の中で感じることができる、感じたものをみなさんに舞台の上から届けられるという仕事をしていくことが、とても矛盾を感じる時もありつつ、やはり自分の中で試行錯誤しながらこれからもやっていきたいなと思っています。
(土井)たとえば大震災の問題、パレスチナ問題にしても、こういう社会問題、国際問題と関わることと自分の演劇人としての仕事というのをどういうふうに自分の中で結びつけていらっしゃるんですか?
(根岸)演劇人としてというより、まず人間として、私は子どもを持ったとき、一番社会とつながった気がするんですよね。やはり実際に守りたいものができた時に、すごく社会とは切り離せない。いくら“表現者”といっても、表現の世界だけにいるわけではなくて、やはり私たちは“社会人”として生きている。だから演劇人としてというよりも、誰でも同じ、みな生きてる世界があって、そこで腹を立てなきゃいけないところは腹を立てなきゃいけないし、そういう面ではちょっと能天気なのかも知れません。土井さんが懸念してくださっているよりも能天気に、言いたいことを結構言ってきている気はしますね。ちょっとすみません。屈折が足らないというか…。
今回のピースリーティング「いま 憲法のはなし」を観終わって、根岸さんが語った「演劇人としていうより、まず人間として」という言葉が蘇ってきた。30人を超える出演者、その裏ではそれをはるかに超える演劇人、ボランティアたちがこの朗読劇を支えているはずだ。これだけの演劇人たちが多忙なスケジュールを調整して、手弁当で集まり、練習を重ね、これほど見事な朗読劇を演じてみせる。私はまずこのことに驚き、感動するのだ。
そして、もうひとつ言及しておきたいのは、台本の作家たちだ。今回は石原燃さんと、それを補佐した相馬杜宇さんと楢原拓さんたちである。「憲法問題」という複雑で難解なテーマを、その主要な論点をほとんど網羅し、それをわかりやすく噛み砕き整理して2時間近くも観衆をぐいぐい引っ張っていく構成力は見事である。そして何よりも、明確な“主張”があった。「これを伝えずにおくものか!」という気迫と情熱がみなぎっていた。役者さんたちの唸らせる演技力も凄かったが、台本が圧巻だった。
後半部分の語りの中に「あまりにも現実離れした理想論」「ナイーブ過ぎる」と思ってしまう部分もたしかにある。しかし劇中で「あたらしい憲法のはなし」が、「現実に合わせて憲法を変えたら、現実は変わらない。憲法に合わせて現実を変える。それで未来が変わる。そう信じます」と叫ぶように、現実に埋没し、それを甘受しがちな今の時代だからこそ、“理想”を高く掲げることがいっそう必要なのかもしれない。
上映後に作家の石原さんを紹介していただいたとき、「こんな若い人が!」と驚いた。彼女はこの台本のために百冊を超える本や資料を読みこなし、長い長い七転八倒の苦闘の末、この台本を書き上げたにちがいない。それには金銭的な見返りもない。この作品で一挙に「業界に認知され、脚本家として名をなす」こともないかもしれない。しかし間違いなく石原さんの台本が数百人の観衆を啓蒙し、心を捉えた。少なくとも私はそうだ。私は自分の感動と称賛を石原さんに「素晴らしかった!」という月並みの言葉でしか伝えなられなかった。「この感動をありがとうございました!」と付け加えたかったが、涙ぐんで言葉にならなかった。
齢を重ねるごとに感動する感性が鈍ってきたのか、私は最近、感動で泣くことが少なくなった。しかし朗読劇の終盤、出演者たち全員が憲法の条文を読み上げ、観衆に深々と頭を下げたとき、私は涙がこみあげてきた。
今の日本の危機的な状況の中で、“日本人として”そして“人間として”自分は何をすべきかを問い、演劇人としてやれること、やるべきことをやる、そんな彼らのまぶしいほどの“志”が私の心を揺さぶったのである。
非戦を選ぶ演劇人の会
『いま 憲法のはなし─ 戦争を放棄する意志 ─』
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