(2013年11月16日公開)
この記事は、2013年9月15日/16日に開催された「激動する中東情勢・パレスチナはどうなっていくのか ─オスロ合意20周年記念・映画とシンポジウムの集い」をボランティアスタッフにより書き起こしたものです。
シンポジウムを記録したDVDも販売しています。
→DVD販売のお知らせ
DVDダイジェスト
PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相がホワイトハウスで歴史的な握手を交わした「オスロ合意」。あれから、今年9月13日でちょうど20年なります。しかし当時、世界中が期待した「パレスチナ問題の解決・和平」への展望は、20年経った今もまったく見えず、むしろ悪化の一途をたどっています。
一方、周辺アラブ諸国も、エジプトの政変、シリアの内戦、イラク、トルコの混乱など、揺れ動いています。
現在の混沌とした中東諸国の状況は実際どうなっているのか、さらに、その中東情勢の中で、改めて、あの「オスロ合意」とは何だったのか、今、パレスチナ人たちはどういう思いを抱えて、どう生きているのか、そして今後、この中東全体の混乱がパレスチナ・イスラエル問題にどういう影響を及ぼしていくのかを、2日間に渡って検証しました。
(エジプト/シリア/トルコ/湾岸諸国・専門の若手研究者たちによる)
激動する中東情勢の中で、現在のトルコの状況をどのように考えるか
激動する中東情勢・パレスチナはどうなっていくのか
シリア内戦化
メディアを使った情報戦
反政府勢力の構成
自由シリア軍…トルコに違反してトルコで結成。違反兵と農村部の反乱兵。
違うものとして認識されているのか。
チェチェン人などの外国人武装勢力
アルカイダ武装勢力
国民連合、在外反体制勢力(国外)
←サウジアラビア、カタール、トルコの支援
トルコが平坦の部分で支援をしていた??
アサド政権
イラン、レバノンのシーア派組織ヒズブッラー
・反体制派
サウジアラビア、カタール、トルコ、西欧諸国 スンニ派が強い?
シリアの中に宗教対立があるかというとそうでもない。
100万人のキャパのところに200万人が来た。スンニ派が逃げてきた。
バロン派の司祭…憎悪感は広がっていない。みんな同じ労働者、生活者。宗教はあまり気にしていなかった。
宗教宗派ばかり気にするべきでない。
体制支持派
都市富裕層、アサド政権以降に設立された政府系団体で活動した人
反体制派
都市出身者と農村出身者。都市郊外での戦闘が激しい。
難民の生活から見えるもの
・サウジアラビアとカタールの難民支援。シリア国内で保護もある。一方で戦闘もする。
・ゆるやかな周辺諸国との間接・直接的影響。国民国家で鋭く分けられているわけではない。
疲弊するシリアの人々
・「シリアのどこにいるかは言えない。疲れた。」
・家族を置いて国外に行くわけには行かない。
・収束を最初の国際社会の目標にする
・バラバラになったシリア人の中に議論をする場を設ける。
・日本の役割を考えるべき。
・イスラエルはシリアをどう捉えているか。アサド政権に継続していいと思っているのか。
実際に武力衝突はシリアとはなかった。お互いにどう出るかというのをわかっている関係ではないか。
【湾岸諸国と中東和平】
オスロ合意歓迎した。アブドゥッラー皇太子は2002年にアラブ連盟の首脳会議でアラブ和平イニシアティブを提案し、イスラエルが占領した土地から撤退するのと引き換えに全アラブ諸国がイスラエルとの国交を結ぶ、とした。また、彼は国王になってから、2007年のアラブサミットでアラブ和平イニシアティブの再確認を主導した。
【サウジアラビアとパレスチナ】
アッバス大統領はイニシアティブを進めていく方針。ハマスを支持するような人も国内にいるが、一口にどうであると言うのは難しい。サウジの人たちはけっこうパレスチナ問題に関して冷めている。
【クウェートとパレスチナ】
もともとパレスチナ人が沢山いたが、1990年の湾岸危機でパレスチナ人は国外退去となった。2000年以降、関係回復の兆しが見えた。ガザ支援船拿捕事件ではクウェート人活動家の女性がおり、パレスチナから大いに感謝された。
【カタールとパレスチナ】
ハマドが首長であった頃はサウジと競合していた。ガザ政府への政治経済支援には力を入れていた。2012年にはアラブ首脳で初めてガザ訪問を果たす。2013年タミーム新首長の就任。アラブ和平イニシアティブメンバー。
【アメリカの動き】
ケリー国防長官が中東和平の進展を願い、アラブ和平イニシアティブを再燃させようとしている。ワシントンでケリーと他のアラブ諸国首脳会合が開かれ、若干の変更が加えられた。イスラエルへの妥協なのか、「土地から撤退」のところが、「土地を交換する形で」という文言に変わった。また、現在のシリア情勢をどうするかというトピックに変わってしまった。
【エジプトの動き】軍と政治がトピック
ムスリム同胞団:イスラム法によって統治される国家を目指す宗教団体。
1.社会的ネットワークを構築するための慈善活動を行う(医療提供、貧困者の底上げなど)。
2.政治団体 1980〜政治参加を行い、88議席を獲得。
3.統治団体 イスラム法の適応。ムバラク政権下と似ている。
ムバラク政権下で利権を持った企業が多い。
(ちなみに世俗主義:リベラルでひげなし。サラフィー主義:あごひげ長い。)
しばらくエジプトでは軍主導の政治が続くのではないか。モルシはムスリム同胞団出身。どこまで民衆に根を張れているかわからないため、同胞団がなくなるということはない。イスラム勢力と強調して民主主義実現できるのか? ムバラクはムスリム同胞団と軍の和解をしようとするも無理だった(影響力行使しにくくなるため)。何を持ってイスラムとする? ネオリベラリズムをどう結び付ける?
★サウジの果たす役割は?
シリアでの一番主要な役割が何だったのか。ワッハーブ家、サウード家を見ても親米とイスラムが並行している。
★アメリカの果たす役割は?
1980年代のアルジェリアの経験を考える必要がある。アメリカの役割の弱体化。完全なヘゲモニーでの失敗。アフガンでもイラクでも。
★イランの果たす役割は?
地域大国としてアラブ諸国におけるヘゲモニー見て動いている。極めて原理的な動きに即しながらやっている。宗派間の戦争である。
ムスリム同胞団/エジプト軍とは?
エジプトの「アラブの春」に端を発する一連の政治的な動きを概観すると、2011年1月25日に民衆蜂起が発生し、2月11日にムバーラク大統領が退任、同年12月の議会選挙でムスリム同胞団が母体である自由公正党が40%以上の議席を獲得し、政権与党に躍り出た。その後2012年月にムルスィー氏が大統領に選出された。しかし2013年7月にムルスィーは退任することとなった。
ムスリム同胞団
そもそもムスリム同胞団とは何か。彼らは宗教団体であり、ナセル時代には厳しい弾圧の対象となったり、サダト時代には比較的寛容な措置が取られたりと、状況は様々だが一貫して非合法の団体とされてきた。同胞団の構成員の職種は多岐にわたり、博士号を保持する人も少なくない。
同胞団の主な活動は慈善活動と政治団体としての活動である。慈善活動としては主に、医療や貧困層の救済を行い強固な社会的ネットワークを構築している。また政治団体の傾向としては、世俗主義者とサラフィー主義者の中道をとっている。慈善活動を通じて得た大衆動員力を活用し、1987年に最大野党となり、2005年の議会選では全議席の約20%に及ぶ88議席を獲得した。同胞団は民主主義的な選挙を通じてイスラム法の適用を求めることを目的としている。
法とコーランの関係
世論調査では程度の差こそあれ約85%もの人が法律はコーランに依拠するべきと考えている。
同胞団政権に対する懸念
同胞団政権に対する国民の懸念は大きく分けてふたつある。ひとつは表現の自由に対しての制限が厳しくなるのでは、という主張である。もうひとつはイスラエルとの関係悪化を懸念する声である。しかしこれらの懸念を抱いている人々は少数派にとどまると考えられる。というのもエジプトの世論調査によると中東和平は破棄すべきであるという意見が過半数を超え、対イスラエルパートナーシップは重要ではないと答えた割合も90%を超えるからだ。
ムルスィー政権の支持率低下
大統領就任当初高い支持率を誇っていたムルスィー政権であったが、2012年10月を契機に支持率が下落し始める。ちょうど同時期に経済状況が悪化し、ついに革命前レベルにまで後退した。また、エジプトの将来にとって重要なことを聞いた世論調査では「司法の平等」や「公正な社会の実現」を抑えて「経済状況の改善」が首位であった。これらのことを鑑みると、ムルスィー政権が支持を失った理由は国民が期待したような経済状況、生活状況の改善を実現できなかったことが考えられる。実際に退任前に行われたアンケート調査では、過半数の人々が「生活が悪化した」と回答した。
エジプト軍
エジプト軍は現在約47万人の兵力をもつとされ、これは中東諸国の中で最大級である。多くのエジプト国民は軍に対してある種対極とも言えるふたつのイメージを抱いている。ひとつは「軍はエジプト国民にとっても実態不明な存在であり、(執拗に詮索することは?)暗黙のレッドラインに触れるも存在である」というものだ。また、一方で「エジプトの国防を担う良い存在である」というイメージを抱いている。実際に学校教育の場でも第4次中東戦争時のエジプト軍について讃える詩が教科書に掲載されている。
軍の利権
軍は国防を担う存在であるが、それと同時にエジプト軍は国内最大の企業体であることも指摘できる。食品や農業品加工など様々な分野に実質的に進出している。特にムバーラク政権下では政府との癒着が進み、軍は莫大な利権を得ていたとされている。さらに、軍事費自体も米国からの莫大な援助を受けており、それに付随する利権も得ていた。
エジプト軍と同胞団の関係
エジプト軍と同胞団の関係性の推移を概観すると、2012年6月17日に軍事最高評議会のトップ、タンターウィー氏は声明を発表し大統領権限を弱めた。その後大統領に就任したムルスィーは2012年8月12日に6月17日声明の破棄を宣言し、軍は国防に専念する存在であると規定した。また、11月22日にはムルスィーは大統領権限を強化する声明を発表した。しかし、2013年の6月に軍がムルスィーに退陣の勧告をおこない、スィースィー氏が臨時大統領となった。
今後の展望
同胞団政権となり、一度は政治における影響力が弱くなった軍部だが、ふたたび利権を取り戻し、それを維持する方向性で動いていくだろう。一方で同胞団上層部は平和的デモの継続を望んでいるが、既に大部分の人の支持を失っている。しばらくは軍部主導の政治が続くと考えられる。エジプトは現在も自国に合った民主制や政治体制自体を模索している段階であると言えるだろう。
おわりに
今回の報告ではエジプトの現在の状況の大枠を理解するための様々な情報をあげてきた。しかし、2011年1月の民衆蜂起からエジプトで起きた事柄を大局的に見るだけで終わらせて欲しくない。民衆蜂起やデモの中で、身内が犠牲になった人、金品の強奪、家屋や商店の破壊など、数多くのつらいストーリーが生まれてしまった。それらのたくさんのストーリーがあることを我々は忘れてはいけない。
1.訪問地、時期 2013年3〜4月の約1ヵ月半、主にバグダッド市内
2.様子
・かつてフセイン大統領の銅像があった場所→2008年には「自由と希望の像」が建てられたが、今は皆素通りし、省みられている様子はない。
・街中に外国人の姿は少ない。最近はビジネス分野において、日本人よりも中国人や韓国人のほうが存在感を増している。(携帯電話、車など)
3.(質問)この10年で一番辛かった時期は?
(回答)2006年前後:内戦、宗派抗争がひどかったとき。((混乱で))闇の中の内戦という感じだった。運ばれてくる遺体の2割が銃弾・爆弾によるものであり、遺体によって状況のひどさを知った。
4.車爆弾について
もともと交通状況はよくないが、いつどこの車が爆発するかわからないという恐怖は、現地でないとわからない。日本に戻ると、ここの車はいきなり爆発することなどないのだと実感する。
(質問)車爆弾の目的は?
(回答)犯行声明などがあるわけでなく、目的はわからない。当初はアメリカを標的としていたようだが、報道で「スンニ派の犯行である・・・」と伝えられていても実際には犯人もわからないのが実状。
5.酒屋さんの再開
バグダッド市内にも酒屋さんがあり、最近は混乱を乗り越え再開する店もでてきたようだ。
日本と同じように、労働者たちが仕事終わりに集う場となっている。バグダッドでは深夜0時から4時は外出できないので、酒屋さんで皆そのまま朝まで過ごすということもある。
(質問)イスラム教の国なのに、酒屋があるのか
(回答)実際、(写真の中でお酒を飲み合い話に熱中している3人は)イスラム教徒やキリスト教徒達。宗教による禁酒を気にしない人達もたくさんいる。
6.人びとの綱渡りの生活
時を経て改めて行くと、知り合いが亡くなってしまっているという事実を知る。イラクではまだ綱渡りの生活が続いている。
7.バグダッド外・・・中部バビロン、サマワ
古代の貴重な遺跡が残る場であり、おそらく遺跡の一部と思われる破片が地面に転がっていたりして驚いた。バグダッドに、それらを展示するバグダッドミュージアムがあるが、現地のガイドさんいわく「治安がよくなれば、日本人も多くきてくれるだろうと思っている」とのこと。いつ治安がよくなるのか・・・。
いわゆる「アラブの春」の民衆のデモによって、2011年2月に約30年間続いた強権的なムバラク政権が崩壊した。そしてその約1年後の議会選挙・大統領でイスラム的な価値実現を掲げるムスリム同胞団が勝利し、同胞団出身のムルシーが大統領に就任した。しかし、ムスリム同胞団の独善的ともいえる政権運営に対し、彼らと協力してともにムバラク政権を倒した世俗派やリベラル層は反発して反対デモを起こした。こうしてかつての「革命勢力」が分裂したことが、今回(2013年7月)の軍の介入につながった。
軍の介入に対し、ムスリム同胞団はムルシー復権を求めてデモを行うが、軍は過激な弾圧を行って彼らを排除し、その結果600人以上もの人々が死亡した。現在も同胞団に所属する人々が連日逮捕されており、また当初軍の介入を支持していたが今回の動き(強権体制への逆戻り)に反発するようになった若者たちにも圧力がかかっている。また、軍によるメディアの規制が行われるなど、今回の軍の行動は「反革命」的な様相を帯びている。
エジプトにおける軍とはどのような存在なのか。
「アラブの春」以前の体制において、歴代の大統領は全員軍出身であり、したがって歴代の政権は軍をその基盤とするものであった。この中で軍は政治的な権力だけでなく経済的・社会的な既得権益を獲得していた。しかし、「アラブの春」後の選挙で軍出身でない文民の大統領(ムルシー)が誕生し、軍の存在に挑戦していた。したがって今回の軍の行動は、そうした動きに対する軍の巻き返しとみることが出来る。今回軍の介入によって新たに樹立した暫定政権では大統領は文民であるが、実質的な権力者は国防相(軍の最高司令官)であるシーシー副首相であり、再び軍が政治の実権を握る状態になっている。
「アラブの春」後の選挙において、もともと強権体制下でも政治参加を目指して活動していたムスリム同胞団には、民衆を組織する基盤があったため、強権体制が崩壊した後の民主的な選挙に強いことは選挙前から予想されていた。こうした組織的な基盤は世俗派やリベラル層には存在せず、選挙でムスリム同胞団に対抗できなかったことがムスリム同胞団に対する不満や批判につながり、軍の介入を歓迎する態度につながっていった。軍の介入は一般に民主化に対する逆行だと考えられるが、エジプトの若者たちの多くはそうは捉えず、「自分たちの意志」を実現する行為とみなしていた。ただし、こうした認識はその後の情勢の中で変化し、「このままではいけない」と感じ始めている。
同胞団政権の崩壊は、どのような民主化を目指すか、という問題を改めて提起した。ムスリム同胞団(イスラム勢力)は社会に根を張った組織であるのに対し、世俗派やリベラル層がどの程度社会に根差しているかは疑問である。しかし、民主主義を目指す(強権体制から脱却する)ためには、この2勢力がどのように協調していくのかが今後の課題となる。
今回の事態の中で、アメリカはどのような影響を及ぼしているのだろうか。
アメリカはもともと「アラブの春」以前の強権体制と深い関係にあり、そのためエジプトの民衆の声は無視してきた。「アラブの春」では、当初アメリカはムバラク政権側にも民衆側にもどちらにもつかなかったが、最終的には民衆を支持しなければならなくなった。そして、選挙によってムスリム同胞団が政権をとると、アメリカはムスリム同胞団に協調的になった。このように、アメリカのエジプトに対する影響力は低下しており、その時々の主導的な政治勢力に協調的になっていることがわかる。今回の事態に対して、アメリカは援助を続けるためにクーデターとは認めなかった一方、軍とムスリム同胞団の和解を望んでいるが、うまくいっていない。アメリカはイスラエルを守るためにはエジプトを見離せないため、足場が固まらないまま軍事政権に協調せざるを得なくなっている。
軍の介入による同胞団政権打倒はどのような影響を与えるだろうか。今日の世界情勢の下で、強権体制が長期的に存続することはかなり難しくなっている。しかしその一方で、どのような「未来」を目指すかはどの勢力においても定まっていない。今回のムスリム同胞団の失敗は、彼らに対して世俗派やリベラル層の協力を求めずイスラム色を強める政策を推し進め、その結果復権を狙っていた軍(や警察)に付け入る隙を与えてしまったことに起因する。
「アラブの春」は軍主導の警察国家からの脱却が本来の目標であったはずだが、ムスリム同胞団も世俗派・リベラル層もそのことを忘れてしまった。この意味で、同胞団も、軍に期待した勢力も、ともに今回の事態に責任があるのである。今後は、ムスリム同胞団と世俗派・リベラル層が、再び協力を模索していくことが予想される。
インタビュー1
(アタ・ケーマリさん パレスチナ人ジャーナリスト・東エルサレム在住 映像出演)
エジプトでの軍のクーデターの結果、エジプトはハマスとファタハの仲介をする余裕がなくなってしまい、両者の仲介者が不在になってしまった。エジプトはハマスにもパレスチナにも辟易している。また、ファタハは今回の状況を見て、ハマスの失墜を期待している。こうした状況の中で、PLOとハマスの間で交渉が行われることは絶望的である。
インタビュー2
(川上泰徳さん 朝日新聞中東総支局長 映像出演)
ムルシー政権の崩壊は、ハマスにとってどのような影響を与えるだろうか。ハマスは、もともとムスリム同胞団のパレスチナ支部だったものが、第一次インティファーダを機に反占領武装組織となったものである。そのため、同胞団とハマスの関係は良好であり、同胞団はハマスを支援していた。同胞団が政権を獲得してからは、ガザとエジプトの国境であるラファの検問所が開かれるようになった。また2012年12月にイスラエルがガザ攻撃を計画した際には、エジプトがアラブ連盟を招集し、各国外相がガザを訪問したことでイスラエルの攻撃を阻止したこともあった。しかし、ムスリム同胞団が追放されてしまったことによりラファは再び封鎖され、ハマスは後ろ盾を失うこととなった。また、トルコやカタールはエジプト経由でガザを支援していたが、クーデターによってその窓口は消滅し、イスラエルによるガザ封鎖は強化されてしまった。
こうした事態は、パレスチナ自治政府(ファタハ)にとっては追い風となるだろうか。この件に関しては疑問である。というのも、パレスチナ自治政府は腐敗がひどく、またイスラエルによる入植地の拡大に対応できないため、パレスチナ人の信頼を失っている。したがって、ハマスがダメになったからといって自治政府に対する支持が集まりそうにない。パレスチナがイスラエルに対抗するためにはガザとの統一政府が望ましいが、現状ではそれは難しいだろう。
エジプト軍はガザにどのような対応をとっているか。クーデター後の軍は同胞団やハマスをテロ組織として扱っており、今後ムバラク時代以上に厳しい対応をとることが予想される。エジプト革命における標語の一つに、「カラーマ(誇り)の回復」というものがあった。その背景の1つが2008年末のガザ侵攻に対するムバラク政権のイスラエルへの協力的な態度であり、それに対してエジプト国民は反発し、無力を感じていた。したがって、ムスリム同胞団やハマスを叩くことは、パレスチナやハマスにシンパシーを持つ民意に反することになるため、ガザの封じ込め政策は長期化しないであろう。そうでなければ、それが軍政と民意の意識の乖離につながることになると考えられる。
インタビュー3
(ラジ・スラーニさん パレスチナ人権センター代表・ガザ在住 映像出演)
エジプトのガザに対する態度の変化は、軍がムルシーへの最後通牒を叩きつけた6月初旬ごろに始まった。この頃から、戦闘機がガザ近辺を飛行したり、シナイ半島に兵士が大規模に配置されたり、ガザとエジプトを結ぶトンネルが封鎖され始めたりしたのである。また特に軍のクーデター後は、エジプト政府はハマスをシナイ半島での犯罪行為に関与したエジプトへの反逆者として扱い、またメディアなどを通じてこうした主張を世論に浸透させている。ほかにも、ラファの検問通過者数が10分の1になり、トンネルが封鎖されたため、ガザの経済状況はさらに悪化した。
なぜ軍はハマスを恐れる(反ハマス的な行動をとる)のだろうか。というのも、ハマスがエジプトを攻撃することなどありえないからだ。ハマスはエジプトからトンネルを通じて武器を輸入しているが、これはシナイ半島とは無関係である。ではなぜだろうか? 予測でしかないが、エジプト軍がイスラエルの許可なしにガザ周辺の軍備を強化することは無理であることを考えると、イスラエルの影響ないし協力があると考えられる。イスラエルはこれまでガザから発射されるロケットの問題に手をこまねいていた。しかも、そのロケットの性能は2年間でさらに改良されている。こうした状況はイスラエルのプライドを傷つけており、イスラエルは武器の入手経路の一掃を図っていた。しかし、イスラエルはラファだけはコントロールできない。そこで、イスラエルはエジプトにガザとの国境に5〜10キロの緩衝地帯を創出することを期待している。というのも、この距離のトンネルにはガザ側に作る能力がないため、武器流入を防ぐことが出来るからである。加えて、エジプト軍もエジプト国内に集中することが出来るのである。
現状として、エジプト世論に対しては国内のメディアを通じた操作で反発が抑えられている。また、エジプト政府側はイスラエルやアメリカとの協力は隠し、むしろ「ムスリム同胞団がイスラエルやアメリカと協力し、ハマスがガザとシナイ半島にパレスチナ国家を作ることを支援している」と主張している。加えて、ハマス側の対応も下手なものであった。すなわち、ムスリム同胞団支援の姿勢を明確にしたのである。例えばメディアを通じた支援のほか、ムスリム同胞団を支持する説教が行われた。また、ラファでの軍事パレードの際には、ムスリム同胞団のマークがジープのドアに貼られていたり、指を4本付きだすというムスリム同胞団と同じ示威行為を行ったりしていた。こうした行為が軍に利用され、エジプトで反ハマス感情が生成されているのである。
臼杵陽(日本女子大学文学部教授/中東地域研究)
長沢栄治(東京大学東洋文化研究所教授/エジプト近現代史)
(司会/土井敏邦)
臼杵陽さん
1.軍部の役割への評価
・国家との結びつき、正統性
“民主政治の経験”は関係あるか?→エジプトで民衆の声代わりになったことの(善悪抜きで)評価。
“民主政治は未熟”という結論ではよくない。
2.底辺にある“経済”の位置づけと軍の関わり
3.イスラーム
≠一枚岩 地域に根差したそれぞれのイスラーム。
シリアの状況におけるサウジの存在。
“イスラーム”は介入の口実に使われてしまう。
イスラームと親米は両立しうる。
4.アメリカの存在と役割の変化
5.地域大国としてのイランの役割の重要さとシリア
シリア軍事介入⇔イランのコントロール下におけなくなる→ロウハニ氏が勝利したイラン選挙の対外的メッセージの意味。
長沢栄治さん
◇シリアもエジプトも情報戦と化している
←どうやって見極めるかがジャーナリスト・研究者の課題。
◇“民主主義”の幻想?
2年前エジプト国民は何のために立ち上がったか。ナセル時代から繰り返される革命。
“アラブの春”革命→軍政(民主に対する取締り)→モルシー→今(軍は民衆の体現?)
◇イスラーム
中道主義(イスラームと世俗の片方に偏るのでなく)──現実社会のなかにイスラームを適用させていくのは困難だ。
※酒井啓子さんのコメント※(会場より)
イラクはイスラーム政権であり、グローバル経済のプレッシャーのなかで、ネオリベラル経済や国際社会、世俗社会に順応できる可能性が十分にある。現実社会とイスラームの適応は不可能なことではない。
【臼】イスラエル←行動の選択肢がなくなりつつある。
イスラエルは、アラブ世界の動揺で足元が不安定になる。
【長】ナセル時代の名残→根本的(経済)構造が70年代以降なされなかった→ムスリム同胞団も効果的改造が(1年で)できなかった。
“アラブの春”という幻想を見たのは欧米。選挙がなされる=民主主義=平和・安定 ではない!!
・ヨルダン川西岸の現状(鈴木啓之・東京大学博士課程/中東地域研究)
・ガザの現状(並木麻衣・JVCパレスチナ担当)
鈴木啓之さん
・「ヨルダン川西岸地区の現状と課題」
西岸地区とガザで抱える問題・課題が異なるパレスチナにおいて、西岸地区ナブルスを取り上げ、占領・オスロ合意の評価についての報告内容であった。
まず囚人問題について取り上げられた。2012年の逮捕者3848人、4900人が現在も拘束中であり、「囚人のことをみてパレスチナが占領だと分かる」と鈴木氏は話す。囚人を抱える家族へのインタビューでは、45分間の面会のために1日がかりで刑務所まで移動をしなければいけない話が語られた。
また制度疲労に陥っているパレスチナの例として、ガソリン代の問題が挙げられた。現在ガソリン代高騰により1リットル当たり約2ドルという販売価格は、他のアラブ諸国と比較してもイスラエル・西岸地区は高い。その原因の一つとして1994年パリ議定書においてイスラエルの合意の下、関税の利率が決まるため、イスラエルの価格が上昇するとパレスチナの価格も上がるためだという。
つぎにナブルス市民へのオスロ合意の評価に対するインタビューが行われた。
オスロ合意により土地を奪われ、植民地となった。そのためパレスチナ暫定自治政府(PA)に対し怒りを抱き、問題はイスラエル兵ではなくイスラエルと取引をするPAであると話す修理技師。
オスロ合意によりパレスチナ人としてのパスポートが手に入り、アイデンティティができたと話す銀行整備員。
PAはパレスチナ人の人権を否定する条項も守ったが、イスラエルはオスロ合意を守らなかったと話し、オスロ合意を時限爆弾と表した女性団体代表。
以上の現地報告を踏まえ、鈴木氏は「占領は未だに身近な現実でありオスロ合意20年を経てなお占領が続いている。オスロは占領を終えるものだったのに、オスロを再評価し、何だったのかを考える必要がある。」と締めくくった。
錦田愛子(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助教/パレスチナ研究)
錦田愛子さん
錦田氏はイスラエルがオスロ合意をどう考えているか、を主題としてイスラエル側からの報告を行った。
パレスチナ人はオスロ合意によって占領が終わると考えていたにもかかわらず、現在でもその兆しすらなく裏切られた気でいる。その一方、イスラエル人も同時にオスロ合意に対して期待が裏切られた気分である。それはなぜかを考えたとき、われわれが持っているオスロ合意に対する思い込みを3点指摘することでその理由を示せる。第一にオスロ合意によってパレスチナ国家が設立すること、第二にオスロ合意は穏健派であるハト派のラビがもらしたこと、第三にイスラエルとパレスチナは和平を全く同じものとしてとらえていることである。この3点はイスラエルの立場から見てみると、全く異なるものになる。
結論から言えば、そもそも1993年のオスロ合意の中身は、どのようなことについて話すか、計画のみを示したものであり、単なるタイムテーブルが示されているだけのものであった。そのため、最も重要な問題、例えば難民の帰還権や入植地に関する問題については全く触れられていなかった。このような根本的問題に触れられていなかったがために、イスラエルはオスロ合意に合意できたといえる。イスラエルにとってオスロ合意とは、彼らが守りたいもの、すなわちセキュリティ(治安)を守るための小手先の技術としての合意であった。
それゆえ、オスロ合意にはパレスチナ国家設立など明言されていない。当時合意を行ったラビン首相も急進派のタカ派に近い人物であったし、彼は初期のころは合意に関してほとんど関与していなかった。イスラエル世論の反応はオスロ合意に対して好意的ではあったものの、合意自体はイスラエルの国会では微々たる差で可決されたものだった。さらに、パレスチナが和平を正義や公正と考える一方、イスラエルにとっての和平とはイスラエルの治安を守ることでしかなく、同じ合意でもその中身は双方で全く異なっていた。結局、イスラエルにとってオスロ合意とは、よく言われる戦争に疲れたから合意したものではなく、あくまでも戦略的な判断であった。すなわち、パレスチナの占領地を完全には抑え込めないので、イスラエルが手放してもよいと考えるガザ地区から自治を行わせるなどを通して、外交面からパレスチナを抑え込もうとしたのである。
最後に、オスロ合意の重要性をあげるとするならば、イスラエルとPLOが武装ではなく外交的な方法で交渉しようとしたことである。また、ガザやエリコでの自治を認めたため、パレスチナが国家になるためにはよい先鞭であるといえる。
・ラジ・スラーニ(パレスチナ人権センター代表/映像出演)
・アタ・ケーマリ(元インティファーダ指導者/映像出演)
インタビュー1
アタ・ケーマリさん
オスロ合意とは「障がいのある子ども」であった。あの当時、これ以上の合意を手に入れることは不可能であった。しかしとにかく我々は子どもを手に入れた。大切なのは(それがどんな子どもであれ)子どもを手に入れることであり、その子供を大切に育てることであった。しかし、我々はその大切な子供を殺してしまった。
オスロ合意とは(アラブ・イスラエル紛争が?)新たな時代に入ったことを意味していた。今まで武力によって対向してきたこの紛争をより高度な段階に持っていくものであった。しかしながらイスラエルは1967年の戦果を維持しようとしてきた。違う可能性を否定してしまった。そしてパレスチナもイスラエルもオスロ合意の内容を履行することはなかった。だからオスロ合意は失敗したのだ。
インタビュー2
ラジ・スラーニさん
パレスチナ人の生活と、そもそもの大義が悪化した。今や危機的状況である。パレスチナはまるで家畜場になってしまった。乞食状態で、開発からは隔絶されている。そしてイスラエルではユダヤ人化が進み、民族浄化が行われている。もはや交渉の余地はない。西岸には600か所余りのチェックポイントが存在している。土地は没収され家は破壊されている。今や自決権や独立を獲得する段階ではなく、生きること、食べることといった基本的な人権を獲得することが困難になっている。オスロ合意から20年、パレスチナは陸海空軍からの新たな形のアパルトヘイトに直面している。それこそがオスロ合意が生み出した罪である。オスロ合意は紛争の終わりではなかった。オスロ合意によってイスラエルは「和平」の名の下にいかなることもできるようになった。分離壁、入植、併合、ガザ地区の封鎖……
イスラエルが行っていることは第一級の不義であり犯罪である。そしてオスロ合意とはパレスチナの現状を隠すものである。イスラエルは占領地で好き勝手の行動をとり、パレスチナ人を自由から隔絶している。
パレスチナの将来について
アタ・ケーマリさん
パレスチナ経済はこのままだと停滞する。イスラエルとパレスチナの統一なしには近い将来の展望を描けない。人的にも土地的にも分断するのはよくない。パレスチナ人は2国家解決に固執しているが、イスラエルとの関係を建て直し、二つの共同体にすべき。パレスチナ国家の基盤は日に日に壊されている。実質は一国家になっているので、国家としてパレスチナが体をなすのはすごく難しい。国家について語るのではなく、人を中心に人と人との平和、ユダヤ人パレスチナ人が共同体を作ること。2民族1国家で二つの民族が共存というアイデアはイスラエルが絶対に嫌がる。イスラエルは支配権を握り、パレスチナに対してアパルトヘイト状態。平和を求めることは目標に達するまでやるべき。他の選択肢はない。パレスチナ人が権利を取り戻すことが第一要求。交渉も一つの方法としては存在する。和平に肯定的で、妥協の用意がある、と世界に示す方法で(アッバスはそうしている)。これは入植地の存在も受け入れるもの。アッバスは今積極的にこの方法でやっている。彼が東エルサレムにいるので現実的になっているのかもしれない。イスラエルに取り込まれたほうが早いのだと考えている。
臼杵陽(日本女子大学文学部教授/中東地域研究)
長沢栄治(東京大学東洋文化研究所教授/エジプト近現代史)
錦田愛子(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所;&教/パレスチナ研究)
(司会/土井敏邦)
長沢栄治さん
エジプトはパレスチナ問題に対して今回の革命以前から関わっている。むしろ今回の革命は、2000年9月に始まったパレスチナのアル=アクサー・インティファーダへの連帯運動を始まりとして捉えることもできる。この連帯運動が2004年にキファーヤ運動に発展し、2008年のガザ攻撃のなかでエジプト人として尊厳の問題も関わってきた。また、シナイ半島政策と対ハマス政策がムルシー大統領にとっては喫緊の課題であった。最終的には1993年のオスロ合意に行き着くようなものとしてあった1978年のキャンプ・デーヴィッド合意の根本は、シナイ半島をめぐるエジプトとイスラエルの治安取り決めでもある。シナイ半島は一種の非武装地帯化されてきたが、革命以降さまざまな武装勢力が入り込むことによって、イスラエルとの協定のもと軍の駐留なども調整された。つまり、アメリカが今回の政変のなかでも軍事援助を止められない理由はそこにある。
「反ハマス、反ガザ、反同胞団」のような行動を軍がとっている背景はあまり明らかでない。しかし、ムルシーを追い落とすような疑惑から読み取れることもある。刑務所に入れられていたムルシーが2011年1月に脱獄し、それをハマスが手引きしたという疑惑である。ここで問題となるのはムルシーが外国の武装組織に情報を提供していたとのスパイ行為疑惑であった。ムルシーが失脚した後に、ハマスの側も冷静な政治的判断ができていない。4本指を突き出す同胞団支持のジェスチャーは、8月14日に同胞団が立て籠もっていたエジプト東部のモスクの名前が「ラービア・アダウィーヤ」と「4」(ラービア)という言葉が含まれていることに由来する。これをハマスの人々もやっていた。さらに同胞団の実質ナンバー2のシャーティル氏の警備員がハマスの構成員であったことが明らかになり、同胞団とハマスが通じているとの疑惑が軍のキャンペーンとなった。国民がこれをどれほど支持しているかというのは不明であるが、同胞団に対する反感が強まっていることは事実であろう。
同胞団をたたく論理として「テロとの戦い」を掲げている現在の軍の姿に、エジプト軍の本質を見る気がする。ナセルの時代には国民を守る軍隊であったが、第四次中東戦争のころから完全にアメリカの世界的覇権システムの一部となっていることの証拠である。現在進行中のファタハとハマスの党派和解は、ハマスを黙らせる方向で進んでいたのが革命以前のエジプトの姿勢であった。これを考えるとキャンプ・デーヴィッドがエジプトの国家体制に食い込んだ杭のようなものであると評価できよう。
エジプトとパレスチナの関わりに同胞団は重要な役割を果たした。ここではアラブ人としての連帯に加えて、ムスリムとして連帯があった。そのあたりは世論調査をしてもわかりにくいが、両者が結びついていると考えて間違いないだろう。パレスチナに対する親近感にはこれが作用しているといえる。また、エジプトには国内では少数派であるものの中東最大のクリスチャン人口がおり、彼らはアラブ人という連帯でパレスチナ問題に理解を示しており、いまでもエルサレムに巡礼するか否かと言うことが問題になっている。一方で、ナセルのころからのアラブ民族主義とイスラームとが結びついてパレスチナ人に連帯ができると同時に、一種の反ユダヤ的感情が生まれているということにも目を向けねばならない。エジプトには最盛期に10万人ほどの人口が居たが、第二次中東戦争以降に人口のほとんどが国外に出ざるを得なくなった。その辺りを含めてアラブ諸国におけるユダヤ教徒問題も考えていく必要があろう。
臼杵陽さん
大きく事態が動いているため、長期的スパンのなかに位置づけた方が全体像が見えてくる。エジプトは大国で自己完結的世界であった。ナセルが覇権的姿勢をとっていく前には一国で完結していた。エジプトとパレスチナという関係をさかのぼれば、1936年から1939年にパレスチナで大反乱が起こったときに同胞団が連帯行動をとり、ここで初めてエジプトのなかでパレスチナ問題というものが浮上する。そして1948年のナクバに至る過程で、第一次中東戦争の時に同胞団はパレスチナに義勇兵を送っている。つまり同胞団を通じてパレスチナ問題が少なくともエジプト、ひろくいえばアラブ世界に広がっていった。これを踏まえた上で現在の状況を把握する必要があろう。
鈴木報告で取り上げられたナブルスは、オスマン帝国時代に、帝都イスタンブールに多くの官僚を送り出した土地であった。その後の委任統治の後、ナブルスはナショナリズム運動の拠点となっていく。知識人も多く輩出されており、エルサレムと同じくイスタンブールと直結した地域であった。イスラエル建国前からガザはそもそもエジプトとつながっていた。パレスチナという土地は北と南に鉄道網が整っていて、エルサレムにはリッダから支線がつながっていた。巡礼者はヤーファから入り、馬車または鉄道でエルサレムに行っていた。ガザに関しては鉄道はエジプトと繋がるものであった。つまり現在の政治的分断状態のみではなく、歴史的な地理的違いをも視野に入れる必要があろう。
錦田報告では、「思い込み」という言葉がキーワードであった。メディアが造り上げたオスロ合意のイメージをひっくり返す報告を行ったが、これは重要な指摘だ。メディアの造り上げるイメージは大きなものがあり、我々自身もそのイメージに乗っかって認識を造り上げているため、問題が起こってくる。オスロ合意を結んだラビンは、インティファーダの際にアメリカでイスラエルのイメージを損ねる一つの要因を作った人物でもある。つまり、「石を投げるならば棍棒でパレスチナ人の腕を折れ」という言葉が報道された。少なくともこの野蛮な方法でイスラエルのイメージは損なわれたという事実を思い起こす必要がある。
並木報告は現場の様子を興味深く伝えていた。パレスチナ人が持っている認識として、絶望という言葉よりもひどすぎる状況を見て、より根本的に考えていくことが必要だ。PLOがずっと目標としてきたことは何かと言えば、「民主的、非宗派的国家を建設する」というものであり、オスロ合意とは完全に矛盾している。この事態をさらに遡ると、パレスチナを越えてフランス革命以来の「国民国家」という問題を根本的に問いなおす必要に迫られる。
今なぜ国家を作らねばならないのかを問わなければならない。これと表裏の関係として、フランス革命でのユダヤ人解放令を検討する必要が出てくる。市民として平等となったが、逆にそれによって人種差別が生じ、これがシオニズム運動として展開してくる。現状パレスチナはファタハを中心としてヨーロッパが作り上げてきた理念である国民国家建設に向かっているが、これはうまくいかないだろう。見果てぬ夢になる。ケマリ氏が言う言葉をうければ、国家という物をどうとらえていくのか。パレスチナを通して人類の歴史の曲がり角を検討する必要があろう。
二民族一国家ということは、理想主義的と言われる。しかし、理念として持っておく必要はある。現実的には二国家案を過渡期としてとらざるを得ないが、形としては連邦や連合、ヨルダンの関与などいろいろな形が考えられる。かつてはパレスチナ人の発言権を奪うために連邦が言われていたが、PLOが承認された今は状況が変わっている。さらに着目せねばならないのは、離散をしているパレスチナ人と自治区の関係の問題である。アッバースが自治政府の代表でありかつPLOの議長であり得るのかということであり、これは論理的にはおかしい。ハマスとの分裂もあるが、パレスチナ人の主権が誰に担保されているのかを考えるべきである。帰還権の問題でいえばシリアなどのパレスチナ人は棄民状態にある。この点で一民族一国家という19世紀型の国家では成り立ちえないだろう。
錦田愛子さん
ハマスのエジプトとの話と国民国家の話に関して述べておきたい。エジプトでハマス批判があるとは報道で断片的に聞いていたが、ラジ氏の話を聞いて納得した。ハマスの政府は勢力を保つのに必死なことが背景にあろう。ファタハに対するハマスにとってムルシー政権が成立したことは大きかった。そういう意味でガザのなかで同胞団支持があったととらえることができるし、エジプト国内でもハマス批判が高まっているということであろう。
国家そのものの問い直しに関しては、アタ・ケマリ氏が東エルサレム住民であることが影響しているという土井さんの見解に同意である。西岸地区やガザ地区の住民は、現在住んでいるところが将来的にパレスチナ国家になる見通しがあるため二国家支持でもかまわない。しかし、東エルサレムの住民やイスラエル国籍のパレスチナ人は、パレスチナ国家が建設されれば現在の地位が剥奪される恐れがあり、それへの恐怖心がある。一国家支持者はイスラエル国籍を持つパレスチナ人、東エルサレムのパレスチナ人、そして難民に多い。アタさんの見解も、東エルサレム住民としては当然のものであろう。
90年代から2000年代にかけてイスラエル国籍を持つパレスチナ人に関する議論が増加している。イスラエル人にすればパレスチナ人には出て行ってもらいたい。イスラエル国籍のパレスチナ人には、パレスチナ側の情報にまったく関心を持たないタイプ、例えば自治区にすら行かないパレスチナ人もいる。しかし、同時に入植地に反感は持っている。これに対して、東エルサレムのパレスチナ人はより不安定な市民権であるために、地域情勢に関してはより関心を払っている。
この記事は、2013年9月15日/16日に開催された「激動する中東情勢・パレスチナはどうなっていくのか ─オスロ合意20周年記念・映画とシンポジウムの集い」をボランティアスタッフにより書き起こしたものです。
シンポジウムを記録したDVDも販売しています。
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