2013年10月11日(木)
3度目の山形国際ドキュメンタリー映画祭である。今回は自分の映画を携えて参加することはできなかったが、私のようなドキュメンタリストの新人とって最高の勉強の場だから、時間と費用を工面して開会式から6日間、みっちり学ぶことにした。世界中から応募された1000本を超す応募作品から厳選されたドキュメンタリー映画をむさぼるように、数日間朝から晩まで、観続けるつもりでいる。
今日はその初日。今回はインターナショナル・コンペティションとアジア千波万波の候補作品をできるだけ多く観ることが目標だ。
Stories We Tell
カナダ/2012/英語/カラー/108分
監督:サラ・ポーリー Sarah Polley
最初の映画は『物語る私たち』。監督サラ・ポーリー自身の個人史、家族史だ。
私はいわゆる個人史を描いたドキュメンタリー映画に一種の嫌悪感があった。2009年にこの映画祭で観た『私と運転席の男たち』という映画に辟易した体験がある。その感想に私はこう書いている。
「なぜ“自分史”を他人に見せるドキュメンタリー映画として発表する必要があるのか。それが、どれほど社会性と普遍性があるというのか。私には『ナルシストのドキュメンタリー』としか見えない。そんなものは、自分の日記のように引き出しにしまっておき、ときどき自分で取り出してニンマリしながら、感傷にふければいいのだ。
なぜこんな映画が『国際ドキュメンタリー映画祭』に選ばれ公開されるのか」
個人史を映画として他人に見せるなら、そこにその個人マターを超えた“人間”がきちんと描かれていなければいけなし、“普遍性”がなければいなければいけない、個人はそのための“素材”に徹しなければならないと私は思う。この『物語る私たち』がまさにそうだった。
監督の両親はかつて俳優だった。とりわけ母はエネルギッシュで社交家。一方、父は孤独を愛するもの静かな男性。それでも平穏な家庭生活で、3人の子供にも恵まれた。しかし10年を過ぎると2人の関係にも倦怠感が漂う。そんな時、母に別の都市での長期の舞台の仕事が舞い込んでくる。「倦怠期を解消するいい機会かも」と考えて夫の同意を得て母は単身でその都市へ向かう。その間に一度、夫は妻を訪ね、久しぶりに再会した2人は昔に帰ったように激しく“燃える”。30代後半の妻が妊娠したことが判明した。高齢出産になるために思い悩んだ末、出産を決意、そして生まれた娘がこの映画の監督サラである。母はその後、がんで亡くなってしまう。
しかし成長するにつれ、サラが他の兄弟・姉妹に似ていないことが家族の間でも話題になり始まる。最初はジョークように語られていたことがだんだんと現実味を帯びていき、やがてサラの“実父”探しが始まる。サラは父、きょうだい、母の兄や親友、そしてあの長期舞台の仕事仲間たちへと次々とインタビューを繰り返していく。そして母が父や子供たちに隠し通した秘密が明らかになっていく。あの長期舞台の時期に、母はある著名なプロデューサーと出会い、恋に落ちていたのだ。サラは当時、共演した俳優が自分の父親だと信じ込み、それを確かめるためにその元プロデューサーにもインタビューする。しかしその中で、予想もしなかった事実を告白される。彼が実父だったのだ。
サラは悩んだ末、それを自分のきょうだい、そして父に伝える決心をする。妻の秘密を初めて“娘”から知らされた父の動揺を、この映画は、父自身へのインタビュー映像と父の自伝の朗読で静かに、深く描き出す。そして、老いた実父は、自分の胸にしまい込んだまま一生を終えるつもりだったのが、その成長した自分の娘と向き合うことによって、新たに生きる力を得た喜び、幸福感をインタビューとメール文の朗読によってせつせつと吐露する。そして観る私たちに、夫婦とは何か、家族とは何か、「親子である」とはどういうことか、“血のつながり”とは何かを問いかけるのだ。
この『物語る私たち』の最大の“力”は、監督のサラ自身による、自分に最も身近な家族や親戚へのインタビューだ。しかも聞きだす内容は、自分自身と自分の家族の“裸の姿”、時には“恥部”をも他人の目にさらけ出すことにもなる。語り手たちは時には躊躇し、恥ずかしさをジョークで隠し、感極まって言葉を詰まらせながらも、愛する娘、妹、姪に向かって誠実に答えていく。その誠実な姿が、その声に観る者の耳を澄まさせ、感動させる。
技術的な面で私が圧倒されたのは、10人を超える人物へのインタビューを複雑に組み合わせ、互いに“共振”させていく、その構成力だ。その主軸となる父の語りも、スタジオでの自伝の朗読と、実際のインタビューを細かくに使い分け、それを複雑に絡みあせることで単調さを克服し、見事な効果を生み出している。
全編がインタビューで構成されるこの映画に単調さを感じさせない、もう1つ大きな役割を果たしているのは、過去のホームビデオの映像だ。もちろん画質は悪いし、ぶれっぱなしの映像は、観続けるのはつらい。しかし、そこには語りの中でしか登場しない、エネルギッシュな母の生前の姿がある。それが繰り返し映し出されることで、インタビューの中で語られる母のイメージが視覚的に観客の目に焼き付けられ、映画で登場する人物以上にその存在感を与えている。また、めまいがするほどぶれるその映像のすぐ後に3脚を立てて撮影された落ちついた映像が出てくると新鮮で、ほっとする。それによってインタビュー映像がより深く印象に残る。つまり“静”と“動”のコントラストをうまく使って、単調になりがちなインタビュー構成の映画を最後まで観客をぐんぐん引っ張っていくのだ。
『物語る私たち』予告編
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