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2013年11月4日(月)
この映画祭に“ドキュメンタリー映画制作の勉強のため”に通い始めて今年で3回目である。感動した映画も少なくなかったが、一方、失望し「費やした時間が無駄だった」と悔やまれる映画も多かった。しかも不可解なことに、私がまったく感動もしないばかりか、「なんでこんな映画がコンペに選ばれるんだ!」と怒りさえこみ上げてくる映画が受賞する例も1本や2本ではなかった。自分にはドキュメンタリー映画を観る目がないのかと、自分の眼力を疑い、自信喪失してしまいそうになることもあったが、3回目にして、私もやっと気づいてきた。ジャーナリストの私が追い求めるドキュメンタリー映画の基準と、この映画祭で上映され評価される映画の基準が異なっているという現実である。
Tour of Duty
韓国/2013/韓国語/カラー/150分
監督:キム・ドンリョン、パク・ギョンテ Kim Dong-ryung, Park Kyoung-tae
特別賞を受賞した『蜘蛛の地』もそうだ。冒頭の、意味不明の異様に長い雑木林や食堂の中の様子の固定映像にまず戸惑い、その思わせぶりな出だしに私の気持ちが離れた。やっと出てきた元売春婦の証言も衝撃的だが、中途半端で肩透かしを食う。3人目に登場する黒人と韓国人女性との混血の女性が、廃墟と化したかつての売春宿を訪ねるシーンは、ドキュメンタリーというより、劇映画のシーンのように演出され、そのシーンに被せられる「人生を託して語られる詩的なモノローグ」も、本人の言葉にしてはあまりに洗練されすぎていて、監督の演出があからさまに見えてくる。私には、2人の監督が自分の思い描く世界を、元売春婦たちの姿を借りて映像で作り出そうとしているように見える。これは、目の前の“現実”を切り取って、その“現実”がはらんでいる問題の“根源”や“本質”を抜き出し凝縮して映像に映し込んでいくという、私が求めるドキュメンタリーとは異質のものだ。だから感動できないのだろう。
しかし、知り合いのドキュメンタリー映画監督は、この映画を激賞した。「心を許した監督たちと共にこの映画を製作することで、元売春婦たち自身が癒されていく、そんな映画だ」と言うのだ。そうなのかも知れない。しかし少なくとも私の心に響かなかった。
同じ2人の監督が制作した『アメリカ通り』は4年前にこの映画際で上映され、小川紳介賞を受賞している。しかし私はその映画にも、深い感動を覚えなかった。4年前、その映画の感想を私はこう書いている。
「撮影に成功した(売春婦の)女性たちが脈略なく並べられ、紹介されているだけのように見えてしまう。「現実はわかった。それで?」という疑問が私の中にどうしても残ってしまうのである。それが私にとって、この作品を“消化不良”のドキュメンタリーと感じさせるのかもしれない。
やはり、私のドキュメンタリーを観る目が浅いのだろうか。
Voices from the Waves
日本/2013/日本語/カラー/213分
監督:酒井耕、濱口竜介 Sakai Ko, Hamaguchi Ryusuke
最後に、日本の作品についても言及しておこう。15本のインターナショナル・コンペテーションの候補作品のうち、唯一の日本からの作品である『なみのこえ(YIDFF特別版)』は、どうしても観ておかなければならないと思った。私を含め、おそらく日本の何百という日本人ドキュメンタリストたちが、インターナショナル・コンペテーションに応募したはずである。その中から唯一選ばれた作品なのだから、落選した私たちが「凄い、完敗だ!」と感嘆するドキュメンタリーに違いないと思った。しかも震災から2年後に、震災の映画が選ばれるには、2年後の今でしか描けない深い映画であるはずだ。
しかし、私の期待は無残に打ち砕かれた。夫婦、親子、友人たちが向き合い対話する形式の証言という目新しさはあったが、その証言の内容は、この2年間にテレビやドキュメンタリー映画で語られてきた膨大な震災被害者の証言を超えるものは何一つなかった。少なくとも前半を観た限りにおいては。失望と「なぜこの映画が日本唯一のコンペ作品なのか」という怒りがこみ上げてきた。1組十数分の対話が終わるたび失望し、それでも、「きっと次の対話で何かあるかもしれない」と思い直し、次を観る。しかし、また肩透かし。「でも、次こそきっと」ともう1組。しかし前半が終るころ、私の我慢もついに限界に達し、席を立った。
何百本という日本からの応募作品の中から厳選された映画で、しかも震災から2年以上を経た今、改めて震災の映画が選ばれたのだから、同じく震災関連の映画を出品した私に欠落していたものを、その作品で観せてもらい、勉強させてもらえるにちがいないという期待があったからこそ、その失望と怒りは尋常ではなかった。
その夜、映画祭参加者たちの夜の溜り場になっている「香味庵」で、知り合いの映像のプロたちとこの映画について語り合った。A氏は、最初の1組の対話が終わった時点で、「この程度の映画か」と見限って劇場を退出してしまったという。一方、私が席を立った後も観続けたB氏は、私と同様、「なぜこの映画が、唯一の日本の候補作品なんだ!」と怒りをぶちまけ、こう言った。
「海外の候補作品と日本からのこの候補作品のレベルが違いすぎる。これでは、海外のドキュメンタリー映画関係者に『日本のドキュメンタリー映画のレベルはこの程度か』と思われてしまう。俺たち日本のドキュメンタリー制作者たちが馬鹿にされ侮辱されることになってしまうよ」
インターナショナル・コンペテーションに選ばれた日本作品に違和感を覚えるのは今回だけではない。前回の『監督失格』について、2年前、私はコラムにこう書いた。
この映画がなぜ、インターナショナル・コンペティション15作のうち唯一の日本人監督の作品として選ばれたのか、私は選者たちに問いたい。日本人の応募作品の中に、『監督失格』を越える質の作品がなかったということなのだろうか。映画祭では、応募作品のクオリティー(質)が問われ、選者たちの篩(ふるい)にかけられる。一方、選者たちの眼力や見識もまた観客から問われているような気がする。
1000を超える応募作品から15作品を選ばなければならない審査員の方々の苦労は私たちの想像を絶するほど過酷なものにちがいない。それは十分承知の上で、あえて私はお願いしたい。
数百に及んだに違いない日本からの応募作品の中から、なぜ『なみのこえ』が日本からの唯一の候補作品として選ばれたのか、その理由を公表してほしい。それも匿名ではなく、選ぶ者としての自負と責任をもって実名で公表してほしい。それは、山形国際ドキュメンタリー映画祭に出品することを1つの目標として、長い時間と多額の費用をかけて、ある意味では人生をかけてドキュメンタリー映画作品を制作している日本のドキュメンタリストたちに対する、選ぶ者としての最低限の“責任”だと私は思う。
今回、私はこの映画祭では「インターナショナル・コンペテーション」候補作品と、「アジア千波万波」候補作品を中心に観た。ここでしか観れない映画だし、膨大な応募作品から厳選された作品だから、ドキュメンタリー映画を制作する私が学ぶべきことがたくさんあるはずだと考えたからだ。その中でも海外の作品を優先した。日本の作品は、ここでなくても国内のどこかで、いつかは観れるはずだ。だから、アジア千波万波候補作品の1つとなった『標的の村』も、あえて観なかった。ただ、この作品が「アジア千波万波」部門の候補作品に選ばれたことに、私は希望の光を見た。
山形国際ドキュメンタリー映画祭の創設時から通訳として活躍してきた山之内悦子氏の著書『あきらめない映画』の中で、この映画祭で重要な役割を担っている、東京事務局コーディネーターの藤岡朝子氏がこう語っている。
「バランスよくきれいに作ろうと思っていないもの、何かいびつで壊れているものが好き」「模範解答みたいなものを作ってくるのは、大体面白くないと思ってしまう方ですね」「映画祭もきれいな優等生的なものが並ぶより、意見が分かれるようなラインアップの方が面白いんじゃないかと思う。みんなの意見が一致してたら、香味庵の飲み会も盛り上がらないでしょう」
私はこの言葉に、この映画祭の傾向・嗜好をまざまざと見る思いがした。「ああ、そういうことだったのか」と。
そういう映画祭で、『標的の村』のような「何かいびつで壊れているもの」ではなく、まっとうな社会派のドキュメンタリー映画が候補作品としてきちんと認められたことに私は驚いた。私は、これが映画となる前の1時間のテレビ・ドキュメンタリー番組を、昨年11月、取材先のエルサレムで、ネット上で見た。その感想を現地で書いている(2012年12月5日 日々の雑感 287:【パレスチナ現地報告】(12)沖縄・高江とパレスチナ)。パレスチナの現場に身を置き、“パレスチナ”とつながる普遍性を『標的の村』に見出したからこそ、より深く感動したのだと思う。こういう映画がきちんと評価されたことが私は正直うれしかったし、上記の傾向・嗜好を持つこの映画祭にも、まだそれだけの“懐の深さ”はあるのだと知ってほっとし、希望の光を見る思いがした。
日本/2012/132分
監督:朴壽南(パク・スナム)
今回、山形で観た数少ない日本の作品の中で、私が最も衝撃を受けたのは『ぬちがふぅ─玉砕場からの証言─』(朴スナム監督)だった。沖縄慶良間諸島における日本軍の命令による「玉砕」という名の集団自決の強要、朝鮮人「軍属」に対する監禁・虐殺、米軍への「斬り込み」の強制の証言、沖縄での朝鮮人「慰安婦」の実態を、現地で長い年月をかけ丹念に拾った証言であぶり出していく。在日朝鮮人である朴監督が執念で作り上げたドキュメンタリー映画である。
山形映画祭のコンペ作品によく見られる「斬新的な手法や切り口の映画」「芸術性の高い映画」「『映画』として完成度の高い作品」「何かいびつで壊れている映画」でなく、歴史事実や社会・政治の現実と真正面から向き合い、映像として記録し、それを懸命に伝えようする、このような社会派のドキュメンタリー映画に私は強く心を揺り動かされる。つまり私が追求しようとしているドキュメンタリー映画とは、そういうものなのだ。
『ぬちがふぅ─玉砕場からの証言─』予告編
私が観たい、作りたいと思うドキュメンタリー映画は、多種多様で幅広い“ドキュメンタリー映画”の中のほん1つのジャンルに過ぎないということを、2年前、この映画祭で、小林茂監督から突きつけられた。だから、上記のような傾向・嗜好のあるこの映画祭で上映される映画に戸惑い、失望し、怒りを覚えるのは当然といえば、当然だったのだ。
かといって、還暦を過ぎた私が今さら、「斬新的な手法や切り口の映画」「芸術性の高い映画」「『映画』として完成度の高い作品」「何かいびつで壊れている映画」をめざしても、その能力もないし、そのために残された時間もない。そして何よりも、そんなドキュメンタリー映画を作りたいとも思わない。私は「映像作家」ではなく“ジャーナリスト”である。伝えなければならない出来事や、声にならない人の叫び声を、かつてのように活字ではなく、“映像”という手段を用いて、伝えていく“ジャーナリスト”である。だから、私はこれまでのようにジャーナリストとしての“ドキュメンタリー”を作り続けていけばいいのだと思う。それが山形国際ドキュメンタリー映画祭に受け入れられないのなら、それはそれでいい。この映画祭は、私が目指す“ドキュメンタリー”とは違う傾向・嗜好の、まったく違ったジャンルのドキュメンタリーが主流の映画祭なのだと割り切って参加すれば、これほど戸惑ったり、失望したり、怒ったりせずに済むのである。
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