2014年1月9日(木)
新年早々、横浜の映画館で気になっていた映画を観た。『ハンナ・アーレント』。岩波ホールでの上映では連日、満席でなかなか劇場に入れないという話を聞いた。岩波ホールでも久々の大ヒット作だというこの映画を、どうしても見ておかなければと思っていた。横浜上映初日1月4日の朝、上映の30分ほど前に劇場に着いたが、すでに劇場前には2〜30人ほどが列を作っていた。まだ正月気分が抜けない正月明けの午前から人が並ぶことに私はまず驚いた。中高年の間に若い人も混じっていた。そして映画を見終わって後、「これほど地味で難しく深刻な内容の映画に、なぜ観客が集まるのか」という疑問が湧いた。
ナチス・ドイツからアメリカに亡命したユダヤ人女性哲学者、ハンナ・アーレントがホロコーストの責任者の一人、アドルフ・アイヒマンの裁判をエルサレムで傍聴し、その報告論文をニューヨークの有名な雑誌に連載する。そのなかでハンナは「アイヒマンは“凶悪な怪物”ではなく、“凡庸な人間”であり、“思考”能力を失っているために善悪を区別さえできず、前例のない残虐行為に走ったのだ」と結論づけ、このような平凡な人間が世界最大の悪を行う現象を“悪の凡庸さ”と呼んだ。
さらにこの論文の中で、一部のユダヤ人指導者たちがホロコーストに加担していたと指摘した。後に『イェルサレムのアイヒマン』という単行本となったこの論文が、ユダヤ人社会に大きな衝撃と激しい怒りを巻き起こした。ドイツでの学生時代からの親友たちからも断絶され、ハンナはアメリカのユダヤ人コミュニティーやその影響を受けるアメリカ社会から疎外され孤立していく。しかしハンナは生涯、己の主張と信念を曲げることはなかった。
この映画の圧巻はやはり、雑誌に掲載されたその論文のためにアメリカ内外のユダヤ人社会から罵倒され脅迫されるなか、学生や反発する大学関係者を前に、“悪の凡庸さ”について切々と語る、8分間に及ぶハンナの講義シーンである。
「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない、人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』と名づけました」
「ソクラテスやプラトン以来、私たちは“思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がない大規模な悪事をね。
私は実際、この問題を哲学的に考えました。“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」
もちろんこの言葉の内容も私の心に響いた。しかし何よりも私の心を激しく揺さぶったのは、己が信じる思想のために周囲の大勢の社会に激しく非難され憎悪され、孤立感、不安、悲哀に打ちひしがれそうになっても、一歩も退かず、自分の思想と信条を、生命を賭けて守り通そうとする、ハンナ・アーレントのその凛とした姿、“生き様”の見事さだった。
私は映画館の帰り道、同行する連れ合いたちと語る言葉を失っていた。そしてずっと自問をしていた。「お前なら、どうする。お前は何を守り通し、どう生きようとしているのか」と。
そして自分から一歩離れて、もう一度思いをめぐらしてみる。
映画館を連日満席するほど押し寄せてくる観客たちは、何を期待して脚を運ぶのだろうか。そして、この映画に何を感じて映画館を出ていくのだろうか。人びとの心の琴線に触れた要素はいったい何だったのか。それを少しでもつかむことができたら、“表現者”“伝え手”である私たちが、今なすべきことの一端が見えてきそうな気がする。
予告編
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