2014年6月15日(日)
本文の後に「パレスチナに生きた17年 ─医師信原孝子さんが見たもの─」(月刊誌『世界』1991年2月号/岩波書店 掲載記事)を掲載しています。
よほど“パレスチナ”に関心がある人でも、若い世代では「信原孝子」という名を知っている人は少ないだろう。しかし私たちのように80年代、またそれ以前から“パレスチナ”に関わった日本人なら、その名を聞いたことがない人はいないはずだ。PLOがレバノンに拠点を置き、反イスラエル闘争を展開していた1970年代からレバノン、シリアのパレスチナ難民キャンプで、17年に渡ってボランティア医師として医療活動を続けてきた女性である。とりわけ1982年夏、ベイルートのパレスチナ難民キャンプがイスラエル軍に包囲され激しい攻撃をさらされていた当時、現場で医療活動を続けていた信原さんから送られてくる生々しい現地報告は、そのすさまじい惨事を伝え、私たちに強烈な衝撃を与えた。
その信原さんに対し、日本政府は「日本赤軍との関係」を疑い、旅券の再発給を拒否した。その後、信原さんとその支援者たちは、発給拒否処分の取り消しを求め長い裁判闘争を続けることになる。
帰国後の信原さんは、地元の大阪で社会の底辺で生きる人びとたちのための医療活動に従事しながら、日本からパレスチナ支援活動を続けてきた。
初めてお会いして取材を開始したのは1988年で、1991年には雑誌『世界』に信原さんの人物ルポを掲載した。その後、時に東京や大阪でのパレスチナに関する集会などでお会いすることはあっても、ゆっくりお話をする機会はなかなかなかった。それでも私のパレスチナ映画の制作などにはいつも支援カンパを送ってくださった。
その信原さんが癌末期で、あと1、2ヵ月の命だと知らされたのは、今年4月だった。
私は衝撃と同時に、もう20年以上も信原さんにご無沙汰をしてしまった自分の不義理と怠惰を悔いた。そして「生存中に信原さん自身の声でその半生を語ってもらい映像で記録し残さなければ」と思った。私は病院の信原さんに電話をした。力のない声だったが、信原さんの意識ははっきりしていて普通の会話ができた。私は「かつての体験をカメラの前で語ってくれませんか」と伝えた。すると信原さんは、「ちょっと考えてみる。決断したら電話するから」と答えた。しかしその返事の電話はかかってこなかった。
6月9日、ある大学での私の映画上映と講演のために、やっと大阪に行く機会ができた。私はもしチャンスがあれば信原さんにお会いして少しでもその声を残したいと思い、バックに小型ビデオカメラと三脚を詰め込んだ。大阪に着くと、私は再び信原さんに電話した。「大阪まで来ているんですが、お会いできませんか」と言うと、「もう、ちょっと無理。ごめんね。でも、あなたが書いてくれた私の記事、私の宝物だから」と弱々しい声で信原さんは応えた。そして最後に「シリアのパレスチナ人のことがずっと気がかりで……。もう私は何もできないけど、あなたはがんばってね」と言った。
死を直前にしてまで、信原さんは、かつて自分が長年医療活動をしたシリア・ダマスカスのパレスチナ人難民キャンプの住民のたちことが気がかりでならなかったのだ。
私は電話の最後に、信原さんに「ありがとうございました」と言った。それ以外に、今の信原さんにかける言葉がみつからなかった。その言葉には、これまでの私への支援に対するお礼とともに、「“パレスチナと関わる”とはどういうことか、“パレスチナから学ぶ”とは何かを、身をもって教えてくださってありがとうございました」という、私の心底からの感謝と畏敬の気持ちの表現だった。
2日後の6月11日の午後3時ごろだった.東京から横浜に戻る電車の中でEメールを開いた。大阪でパレスチナ支援活動をする知人からのお知らせメールだった。
「大変残念なお知らせですが、信原孝子さんが亡くなられました。診療所の同僚の方を通じて連絡をいただきました。今日の午前11時頃とのことです」
私は一瞬信じられなかった。ほんの2日前、ちゃんと電話で会話もできたのに。そして4月に信原さんの状況を知りながら、敢えて大阪まで会いに行かなかった自分の怠惰を悔い恥じた。
世間はもう信原孝子さんのことを忘れてしまい、その死はニュースにもならなかった。私自身、信原さんの3〜40年前の活動について記憶が朧(おぼろ)になっていた。信原さんの死を知った直後、信原さんについて書いた自分の記事を20数年ぶりに読み返してみた。そして私は改めて「信原孝子」の生き方の凄さ、「こんなに深く、熱く“パレスチナ”と関わった先輩がいたのだ」という事実に改めて圧倒され感動し、涙がこみ上げてきた。
こういう日本人がいたことを、私たちは決して忘れてはならない。また“パレスチナ”に関わる者の1人として、私は信原さんに笑われないような関わり方、生き方をしなくてはいけない。それが、“パレスチナ”に関わる、信原さんの“後輩”の1人としての私の責任だと思う。
土井敏邦
月刊誌『世界』(1991年2月号/岩波書店)掲載記事
「将来、誰かがパレスチナと日本の関係について歴史を書きしるす時、その著書はドクター・サアード(幸福)、信原孝子医師の記述のためにたくさんの時間を費やすことになるだろう。信原孝子さんこそがパレスチナ人と共にあった最初の日本の“大使”なのだと言わせていただきたい」
1987年11月26日、イスラエル軍の砲撃にさらされるベイルートの病院で、最前線の南レバノンの診療所で、そしてダマスカスの難民キャンプで、パレスチナ人のために17年間、医療活動を続けてきた信原孝子医師(当時・50歳)の帰国報告集会の席で、PLO駐日代表バカル・アブドル・モネム氏は、その功績に対する感謝の意を、そう表現した。
身長150センチ、体重45キロという小柄で柔和なこの信原さんのどこに、パレスチナ人と生死を共にしながら長年激務をこなす体力と気力が潜んでいるのか。帰国から間もない1988年春、初めて信原さんに出会った時に私が抱いた第一印象である。その体験を淡々と語る言葉には、なんの気負いも衒(てら)いもない。
だが、パレスチナ人側の感謝と賞賛とは対照的に、17年ぶりの祖国の政府は、信原さんを決して温かく迎えはしなかった。帰国後に待っていたのは、旅券の再発給を拒否する外務省との長い裁判だった。「日本赤軍との関係」を疑う外務省は、信原さんの17年間の活動の意義に目を向けようとはしなかったのである。
信原さんが私たち日本人に問いかけているのは、まさにこの活動の意義であり、日本人がパレスチナ人と関わることの意義であった。
「父親がいないから、いいところへは就職できないよ」と、周囲から言われてきた信原さんが、女性である自分が、社会で差別を受けないために手に職を、と選んだのが、医者という職業だった。だからその選択に、それほど高邁な理想があったわけではない。日本中が安保闘争の渦に巻き込まれていた1960年、大阪市立大学医学部の2年生だった。決して政治意識が強い学生でもなかったが、当時は言葉よりも行動を重んじる雰囲気があり、青年たちはデモによって表現していくのがごく普通の時代だった。また、60年代半ばには、医学生の間で、インターン制度の廃止運動が盛り上がる時代でもあった。1968年には、ある事件をきっかけに、教授との対立、大学紛争、機動隊導入へと事態は拡大し、全国の国立大学へこの運動は波及していった。
信原さん自身、製薬資本に影響された薬中心の医療のあり方、医療点数を上げることしか考えず、圧力団体化してしまっている医師会のあり方に、強い不信と反発を抱いていた。それはやがて、日本の社会で取り残された者や、その社会の抱える矛盾の真っ直中に入っていかなければという思い、しかもその医療は、ただ身体を診て終わりとするのではなく、日常生活を含めた人間の全てを診る医療でなければ、という発想へと膨らんでいった。日雇い労働者の街・釜ヶ崎の診療所に入り、実態調査をする大学の社会医学研究会というサークル活動に信原さんが参加するようになったのも、そういう動機からであった。
関西の市民や学生たちの呼びかけで生まれた「パレスチナ難民支援準備会」が、現地で医療活動をする医者を募集しているという話が、大阪市立大学医学部に持ち込まれたのは、医師となった信原さんが大学病院を辞め、南大阪の病院に勤務し始めた1971年であった。
「医師の世界は、いやなところがたくさんあり、お互いをかばいあって、ぬるま湯みたいなところがある。このままの生活を続けていけば、自分自身が堕落してしまいそうな気がした。なにか厳しい状況に自分を置いてみたい、自分が必要とされている所へ行って、必要とされていることを、やれた方がいいのではないか」。
そういう思いを抱き続けていた信原さんは、その募集の話を聞いて、「そんな辺鄙で、汚いところへ行くような独り者の医者は、他におらん。それなら、私が」と決めた。2、3年、長くても5年ぐらいだろうと思った。当時、信原さんはナセル・エジプト大統領の死亡記事を新聞で読んで知っていたぐらいで、中東の情勢など、ほとんど知識もなかった。さっそく英語とアラビア語のにわか勉強を始めた。ドイツ語で医学用語を学んできた信原さんにとって、英語は文字通り「ブロークン・イングリッシュ」だった。
1971年、信原さんは、同じくボランティアとして医療活動をする看護婦の中野マリ子さんと共にベイルートに入った。当時は、前年のヨルダン政府によるパレスチナ人への大弾圧、いわゆる「黒い9月」が起こった直後で、ベイルートの病院は負傷したパレスチナ人で溢れていた。
「パレスチナ人が置かれている現実の問題に近づきたい。どういう思いで、彼らがイスラエルと闘っているのかを知りたい」という願いから、やがて信原さんは、イスラエル空軍の爆撃に絶えずさらされている南レバノンの南端にある、ラシャディーエ・難民キャンプの療養所に移った。
ベイルートの診療所の状況は、敗戦直後の日本の状況よりひどかった。レントゲンもない。せいぜい血圧を計って、簡単な処方せんを書くことぐらいしかできない。尿検査もほとんどやれない。施設の乏しい、そんな診療所にも、朝には既に数十人が並んでいた。診療終了時間の間際になると、「あなたはどこが痛む?」「頭が」「はい、ではアスピリン」といった調子で、次々と処方せんを切っていく。まるで薬の配給みたいなものだった。これではだめだと、信原さんは、一人ひとりのカルテを作って、診察システムの改善にも取り組んだ。
パレスチナ難民キャンプの診療所の仕事は、朝の外来診察から始まる。午後は研修会、夕方からはまた診療、夜は往診・・・と、仕事は一日中続いた。尿路結石、膀胱炎、アメーバー赤痢、チフス、寄生虫、高血圧、心臓病、貧血など、病気もさまざまだ。栄養の不足や偏りから起こる症状も多かった。
女医ということで、婦人科の相談も多かった。妻や娘を男性の医者には診せたくないという夫や父親の意識もあったようだ。また、病気だけでなく、夫婦間や嫁と姑の人間関係についての相談も持ち込まれることも多かった。
救急患者が出れば、夜中でも気軽に出かけていく。学校へ行けなくて文盲の娘たちに、医療活動への参加を呼びかけ、診療所で彼女たちに栄養や避妊の講習も開いた。夜の往診も厭わず、相談も聴いてもらえる。しかも、戦争になっても逃げ出さないこの外国人医者に対するパレスチナ人たちの信頼は、日を追うごとに増していった。
難民キャンプの住民たちは、結婚式や葬式はもちろん、なにかあるごとに、信原さんを家へ招きたがった。御馳走を作ると、住民たちはまず信原さんに食べてもらおうと持ってくるのである。信原さんがパレスチナ人住民に受け入れられた理由の一つは、彼女が日本人だったことだ。アラブも同じアジア、髪や目の色も同じ黒。欧米のようにアラブ人を支配した歴史もない。しかも、「日本人は、赤軍のように、パレスチナ人のために自分の生命も犠牲にする」というイメージがパレスチナ人の中にあった。
難民キャンプでは、パレスチナ人の家に下宿した。パレスチナ人の家庭生活や家族問題を理解したかったからだ。下宿先や診療所でパレスチナ人と交わす言葉はアラビア語。診察や日常生活に必要なアラビア語は、"耳学問"で学んだ。
1982年6月4日、ロンドンでのイスラエル大使館攻撃を理由に、イスラエル軍は10万人の軍隊を動員して南レバノンやベイルートを爆撃。6日には南レバノンへ軍事侵攻した。その1週間後には、ベイルートはイスラエル軍に包囲され、砲撃にさらされた。この無差別攻撃の中で、パレスチナ人、レバノン人を問わず、たくさんの市民が殺され、負傷した。
この時、信原さんは西ベイルートの病院で、この犠牲者の治療にあたった。そのあまりの酷さにいたたまれず、信原さんは日本にリポートを書き送り、惨状とイスラエル軍の暴挙を訴えた。白紙に縦横に線を引いた原稿用紙に、その文字がびっしり書き込んであった。その行間から、訴えずにはいられない信原さんの焦燥と怒りが、読む者の胸を揺さぶる。
「難民は夜も眠れず、水も不足し、物価も上がるなかで、じりじりと迫る敵の包囲網と、爆撃、砲撃の音、爆弾におびやかされ、若い女性が卒倒する例が激増しています。皮膚病も増えています。チフスの流行や、子どもも扁桃腺炎、感冒の流行、リューマチの増加が見られます」と、現地の状況を報告した後、信原さんは日本人に向かって、こう訴えた。
「現在の赤三日月社病院では、物資は高価な軟膏や抗生物質を、薬局で買わなければならず、思うような薬が手に入りません。また、スタッフナース(日本では高等看護婦)が圧倒的に不足し、ボランティアの外国人たちが重要な役割を果たしています。多くのベイルートで働いていた人々は、残っています。病院の職員もほとんどいないので、レバノン人の大学生を中心に、ボランティアで掃除や食事づくり等をやっています。薬やお金、そして看護婦など、日本で救援活動を強化し、赤三日月社をはじめ国際赤十字や、日本の政府を通じてでも送り届けてくだされば、どんなに励ましになるかと思います。
正しい報道が、今ほど重要な時はないと思います。日本の新聞報道も、こちらではわからないのですが、どうか、この報告を手始めに、出来るだけ広く、イスラエルへの批判や、レバノンからの撤退のための国際世論をさらに喚起し、皆殺しの危機に立たされているパレスチナ人民解放の支援の輪を広げて下さるよう訴えます」(1982年6月2日)」
さらに、イスラエル軍による西ベイルート包囲と砲撃が2カ月も続いた同年(1982年)8月2日付のリポートには、その状況の悪化を次のように伝えている。
「この1ケ月間、ベカー高原のシリア軍ミサイル基地を再度空爆し、空港周辺からのベイルート内への侵入が何度も試みられ、空爆は断続的に続き、7月20日以降は、連日の空爆・砲撃で、夜眠れない状態がつづいています。この6日間、再度、水や電気が絶たれ、チフスの再度の発生や、食糧事情の悪化で病気も増えています。7月30日、アラブ・リーグ(アラブ連盟)でPLO軍のベイルートからの撤退条件の協定が成立したにもかかわらず、断水、停電は続き、逆にシオニスト(注・イスラエル軍)は、西ベイルートへの侵入、空爆、大量砲撃への最後の決戦をいどんでいます。パレスチナ人居住区と周辺の町々はほとんど破壊し尽くされ、建物は10メートルおきに崩され、多くの市民が生き埋めになっています。200人近くの死者が出ていると報道されています。この1週間では、1000人を超える死者が出ているようです」「余りに多くの死者が出ているため、どこの市内の病院でも、負傷者の処置に精一杯で、内科疾患や、慢性・長期疾患には対処できない状態です。市民病院が爆撃されているため、それらの患者さんの寝る場所を確保するのも大変です。多くの患者は、地下防空壕のある建物へと非難しています。キャンプ近くの赤三日月社の病院では、それでも地下の手術室で、爆撃の中でも、手術を続行しています。爆弾の雨の中を、血で染まった鉢巻をした人が運転する救急車は、猛スピードで走り回り、車同士の衝突という悲劇もおこっています」
このような異常事態の中で、信原さんは我を忘れて救援活動に走り回った。
「12時間勤務体制で過労の上、水の汚染で病院の内・外でチフスがはやり、私自身も、クロマイを飲みながら、ふらふらしながらやっている状態でした。タンクを洗浄し、井戸水を運んできたり、井戸を掘ったり、水の対策をたてても、ガソリンが不十分なため、病院では、お茶も十分支給されず、患者は水の確保に、負傷した足を引きずって自分で水を捜しに出かける人もいます。ヤミで、東ベイルートから危険を冒して、ミネラル・ウォーターを仕入れて来ていた商人も数が減り、手に入りにくくなっています。ジュース、缶詰、飲料水も減ってきました。動けない患者への水の補給が、看護婦だけの大きな仕事になっています。それでも、生き埋めになった人々のことを考えると、病院にいる人々は生きているというだけで、まだ明日があります。診療所に流れていた血を必死で洗っていた看護婦が、耐えられなくなって姿を消したり、パジャマが血だらけで、血の臭いを放散しながら、じっと耐えていた8歳の男の子は、砲撃の中で両親にもはぐれてしまいました。
この血の臭いを、今思い出したとたん、日本の広島・長崎、ヴェトナム、朝鮮の血の臭いが臭ってきます。地球は狂っているのか、人間は狂っているのか、と叫びたくなる思いに時々かられながら、この現実と闘い、生き延び、平和な祖国に帰り、ユダヤ人もアラブ人も共に平等に生きれるパレスチナ国家を造ろうとしている人々に勇気づけられ、彼らが流している血を無駄にしてはならない、と思うのです」(1982年8月2日付)
砲弾に直撃され、建物の下敷きになって死ぬ住民も多かった。イスラエル軍の爆撃で、爆弾が病院の玄関口で爆発したり、夜道で不発弾やクラスター爆弾を踏んでしまうことを恐れて、懐中電灯を照らしながら、恐る恐る歩いたこともあった。病院の隣の10階建のビルが、イスラエル軍の真空爆弾で音もなく崩れたこともあった。いつその病院が砲撃されてもおかしくない状況だった。そんな砲撃が数日続くと、正気を失いそうになる。
しかし、そんな状況の中でも、パレスチナ人の少女たちは、重い救急袋を抱えて走り回っている。小児マヒや眼の不自由な子が、一生懸命に看護婦の仕事を手伝っている。負傷した住民や動けない老人を必至に救出しようとしている。負傷し、松葉杖をついている青年が、我を忘れて自分の杖を放り出し、負傷した老婆を抱きかかえて救う。その後で、ふと我に返り、自分の傷の痛みに気づく。その困難な状況の中で、打ちひしがれて号泣しても、また立ち上がって闘っていく。また自分は貧困で苦しんでいるのに、利己を超えて救援活動を続けていく。そんなパレスチナ人たちの姿を目の当たりにすると、信原さんも「これは逃げるわけにはいかない。自分もここで殺されてもしょうがないなぁ」という気になってしまう。
こうした現場には、外国人医師の自分がいることで、「自分たちは一人ではない。国際的にも見守ってくれているんだ」と、彼らの励ましになれば・・・と思うと、どんなに危険でも、現場から逃げることは、信原さんにはできなかった。
パレスチナ人の中で17年間暮らして、どう変わったのか? という問いに、信原さんはちょっと考えて、「人間が好きになったかなあ」と答えた。日本のような機能的な尺度ではなく、パレスチナ人は、妻のため、子どものため、また故郷に帰りたいという思いで、自己犠牲をしながら闘っている。かって、「人間嫌いだった」信原さんは、今は、そんな人間たちに強い愛情を抱くようになったというのである。
また、自分の変化を、帰国報告会での挨拶の中で、信原さんはこうも語っている。
「私が海で他の二、三人と一緒に溺れて浮き袋が一つしかない時、どうしよう、といつも考えていました。私はその浮き袋に掴まらないで、他人に譲るだろうか? と。でも自信がない。だから自分も信じられないし、他人も信じられない。これをずっと考えていたんです」
しかし、そんな人間不信から信原さんを救ってくれたのは、パレスチナ人だった。
「爆弾が落ちて柱が崩れそうになると、パレスチナ人は、まず他人をその柱からどけようとする。そんな行為がとっさにできる。だから、浮き袋が一つあろうが、二つあろうが、どうでもいいのです。みんな一緒に泳げばいいのだから。日本では考えても、考えても、判らなかったことが、あそこへ行けば即座に解答が出てくるんです」
パレスチナ人との生活の中で、民衆に対する信頼を回復した信原さんは、「人間というのは誠意を尽くせば、心を通じあえるはずだ。どこかで必ず信頼できるはずだ」という確信を持てるようになった。抑圧される中で生きる人間の強さも肌で知った。それは「人間というものはこんなに凄いものなのか」という驚きでもあった。これが、自分が殺されるかもしれないような状況の中でも、人間に対する信頼を失わないパレスチナ人から学んだものだ。
日本の中では、「苦しんでいる人たちが主体で、彼らは自分たちでやっていくエネルギーを持っている」ということに確信もなく、釜ヶ崎や部落解放の運動、新左翼の運動にも、そんなエネルギーを感じることはできなかった。しかし、パレスチナ人にはその自力更生のエネルギーと、それを作っていけるという共同社会という基盤があった。
「パレスチナ人は単に祖国へ帰りたい、失った土地を取り戻したい、というだけではないんです。抑圧や差別を受けている中で、同じ立場にある弱い人たちの気持ちを理解し、人間を解放しようと目指しているんです」
今なお、現地の困難な状況の中で、毅然と闘っているパレスチナ人たちの姿が脳裏に蘇ってくるのだろう。そう語りながら、信原さんは初めて涙を見せた。
信原さんが勤務したパレスチナ赤三日月社は、1968年にPLOによって設置された医療機関で、パレスチナ人キャンプでの診療や衛生管理、戦闘で傷ついた人々の治療などの要求に自らの力で応えようとするのである。この赤三日月社の他にも、各パレスチナ解放組織が医療組織を運営している。信原さんも赤三日月社から出向し、PFLP(パレスチナ人民解放戦線)の診療所で治療にあたったこともあった。
1982年、PLOが西ベイルートから撤退した時、信原さんは期限が切れていたパスポート再発行の申請をしたが、撤退まで間に合わず、赤三日月社のスタッフと共に、シリアのダマスカスへ向かった。そこで改めてパスポートの再申請をした。だが、外務省は翌1983年2月、「日本赤軍と密接な関係がある」と疑い、パスポートの発給を拒否した。「著しくなおかつ直接的に我が国の利益または公安を害する行為を行うおそれがある」(旅券法第十三条一項5号)というのが、国側のパスポート発給拒否の法的根拠であった。日本大使館側はまた、1976年にパスポートの期限が切れているにも関わらず、今まで連絡もせずに放置しておきながら、突然パスポートをくれというのが虫がよすぎるとも主張した。しかし、期限が切れた1976年当時、レバノンは内戦で混乱状況にあり、日本大使館もベイルートから一時退去していた。
1983年、信原さんは東京の弁護士・庄司宏氏を法廷代理人として、外務省の旅券発給拒否処分の取り消しを求めて裁判所に訴えた。以来、1989年12月の結審まで6年半続いたこの裁判の中で、被告の外務省は、信原さんのPFLP診療所への出向は「パレスチナ過激派グループ」との接触であり、それは「日本赤軍の非合法武力活動を直接あるいは側面的に援助するおそれがある」と主張した。またパスポート発給は「海外に拠点を有して活動中の(赤軍)関係者等の国外滞在を積極的に正当化し、その活動を容易ならしめた場合には、テロ防止に関する我が国の基本姿勢について諸外国から疑念を招く結果となり、それが『我が国の利益』を害することになる」と説明した。
しかしその1方、信原さんの医療ボランティア活動については1切触れなかった。現地で信原さんの医療活動を見て来た青年たちを中心に、東京で「信原孝子さんを支える会」が結成され、その裁判を支援する運動を開始したのは、裁判所に提訴した直後の1983年7月であった。そして、1987年、信原さんは5年目に入った裁判闘争に本腰を入れるために、17年ぶりの帰国を決意した。長い間会っていない母親のことも気がかりだった。
当局側は、信原さんの「赤軍との関係を証明する証拠」の一つとして、1972年のテルアビブ事件(日本赤軍のメンバー三人がテルアビブ空港で銃を乱射し、多数の死傷者を出した)の1年前、現地を訪問したある日本人映画監督が撮った信原さんと赤軍のリーダー・重信房子氏が並んだ写真をとりあげた。唯一の日本人医師であった信原さんに重信氏が診療を依頼してきたことは、信原さん自身も認めている。しかしそれが「赤軍の関係者」と結び付けられることが信原さんには納得できない。日本の公安当局は、日本赤軍の関係者や支持者たちに「こういう人物を現地で見たことがあるか?」と尋問し、信原さんと赤軍の関係を探ろうとした。現地を訪問する日本人は、唯一の日本人医師として現地でよく知られている信原さんを訪ねていく者は多いから、当然知っている。すると公安は「ここでもお前の名前が出た。あそこでも」と、強引に「赤軍との関係」を造り上げていく。
原告側が上げた争点は4点あった。第一は旅券法第十三条一項五号自体が「外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」と規定した日本国憲法第二十二条二項に違反するという主張。第二点は、たとえ旅券法が違憲ではないにしろ、信原さんの場合にそれを適用するのは違憲であること。第三には、たとえ適用は違憲でない場合でも、その旅券拒否の通知書に付記すべき理由がなく、その義務を怠っていること。第4には、たとえこの旅券発給拒否理由付義務に外務省は違反していなくても、事実誤認に基づいた違萌∴分である、という4点であった。このうち最初の三点に対し、被告の外務省側は、過去の判例を上げて、その合憲性を主張した。この裁判の最大の焦点となったのは、第4の争点であった。
つまり、外務省が挙げる信原さんと日本赤軍との連帯関係」の例がどれほど信憑性があるか否か、という問題に絞られてきたのである。外務省側が挙げる例は公安情報を元にしたものであることも、その裁判の過程で明らかになってきた。
例えば、被告の外務省側が、その例として挙げたのが、日本に強制送還されたある日本人の調書である。その中に、ドクターと言われる女性が赤軍の「アジト」や「『なみだ橋』と呼ばれている拠点」にいたという箇所があった。そのドクターが信原さんであるという被告側の主張は、その日本人に信原さんの学生時代の写真を見せて「確認した」というのだ。だが、その本人の法廷での証言によれば、「なみだ橋という名前は聞いたことはあるが、それがどこの場所をさすのかは知らなかった」という。しかも、その写真の特定も「百数十枚の写真を見せられたが、信原さんの写真については、取調べの警察から『これがドクターだ』と言われたので、そう(調書に)書いた」ことも明らかになった。
その調書は、弁護士との面会も妨害される中で、朝から深夜にまでおよぶ過酷な取調べの中で取られ作成されたものであった。また外務省側は、「(信原さんが)今どこにいて、何をしているのかについては全く知らない」と主張しているが、1982年暮れ、国会議員がシリアを訪れ、信原さんに会っているし、在シリア日本大使館員の案内で日本の新聞記者たちが信原さんに会い、そのアパートを訪ねているのである。
信原さんと赤軍とを強引に結び付けようとする外務省側の動きに対して、信原さんは法廷での陳述書の中で、こう反論している。
「私は『赤軍』と政治的にも実践的にも、密接な継続した連帯関係をもった事実はありません。個人的な交流や医療行為は現地での自然な、人間としての行為であり、またPFLPとの関係も主として医療分野での協力関係であり、『赤軍』と直接かかわることではありません。(中略)パレスチナ人の置かれていた厳しい状況とのかかわりで、必要なボランティア活動をやってきた事に対して、『近い場所にいた』とか、『連絡がとれたはず』等とかのことを外務省が根拠にすることなどは、もってもほかです。また情報源の不明な情報をもとに、被拘留者に誘導尋問して取った『確認』を、あたかも確かな情報として連絡役としてでっちあげるなど、被告外務省は人権無視を当然としています」
また、自らの活動についても信原さんは、「私がたとえPFLPの医療活動を支援しようが、また、PLO総体を支援する立場でボランティア活動を行い、パレスチナの人々の友情を受けてきたことも、日本国民として恥じる行為とは考えられません。むしろ国際的な視野と友好が、ますます問われている時代に、日本人として誇るべきことと考えています」とも主張した。
一方、「医者としての評価も、(赤軍の)連絡役であるということで打ち消される」とする、被告外務省側の主張に対し、原告の信原さん側は、シリアの難民キャンプの診療所における信原さんの医療活動を撮ったビデオを法廷で公開し、その活動の意義を訴えた。「赤軍との関係があったかどうかという、そうしたものの見方、それ自体がおかしい。それよりも、信原さんの現地での活動をどう評価するか、が問われているのだ」と主張したのである。
「政府はこの旅券発給拒否で、『海外のボランティア活動も、国の外交政策の中でやれ。それをはみ出した者は許されない』と言いたいのでしょう」
「信原孝子さんを支える会」事務局メンバーの一人として、当初からこの裁判を支援してきた豊田直巳さん(当時・34歳)は、外務省の狙いをそう推し量る。
「今、政府は"国際平和協力隊"の派遣を主張し、『国際協力』『中東の人々の支援』を強調する。それを言うのだったら、17年間も現場で、その中東の人々のために支援活動をしてきた信原さんに、まずパスポートを出すことを先にやるべきです。それを拒否しておきながら、『中東の人々のために』と言う。結局、その掛け声は嘘で、本音は"派兵"への道を作りたいんですよ」
信原さん自身も、この日本の「国際協力」「援助」のあり方について、先の陳述書の中でこう訴えている。
「薬や機械の援助、医療ボランティアへの援助、救急車などの寄付も、欧米諸国に比べ日本からはほんのわずかであり、政府関係の援助は全く目に見えませんでした。大国になった日本、技術・工業ですばらしい日本と言われるたびに、肩身の狭い思いをしました。国際化が叫ばれている今日、ボランティアに対する援助・支援だけでも早急に考え直してもらいたいものです」
1989年12月18日、東京地方裁判所は、「被告(外務省)が原告(信原さん)に対し昭和58年2月17日付けでした一般旅券の発給をしない旨の処分を取り消す」という、原告、信原さん勝利の判決を下した。その判決は、外務省が旅券法第十三条一項五号に該当するとしたことの「前提となる重要な事実を誤認したもので、事実上の基礎を欠く違法なものというほかない」とした。また、この旅券法の規定は、憲法で保証された海外渡航の自由を制約するものであるため、外務大臣の裁量権は「それほど広いものではなく」、「裁判所の審査が及ぶべきことは言うまでもない」と結論付けている。
信原さんはこの裁判の結果を、「第三世界の問題にも日本は平和の中で安閑と傍観している。そんな状況の中で、現地に入って活動し、住民の信頼を得ていることに、それなりの評価を(司法が)下してくれた。またそんな活動に対する外務大臣の政治判断による裁量権も無制限ではないことも認められた」と評価している。「私の生きる姿勢や考え方を通して、パレスチナの現実を大衆化した」という自信もついてきた。
しかし、この判決を不服とする外務省は控訴し、裁判は今(本稿執筆の1991年現在)なお継続中である。
信原孝子さんは、軍医だった父親は戦死し、母親一人に育てられた。その母は、娘のパレスチナ行きに反対はしなかった。「医者として行くんだから、他人に迷惑をかけなければ、いいんじゃないかと思っていたんじゃないですか」と信原さんは笑う。だが、その後、公安がその母親を訪ねて、「お宅の娘さんは赤軍の重信らと付き合っている」と吹聴する。すると心配した母親は「変な人と付き合わないように」と手紙に書いてよこした。
戦争で夫を亡くしたクリスチャンの母は、「戦争」や「暴力」に対しても強い拒絶反応を示す。その母に信原さんは「私も戦争には反対です。しかし、ベトナム戦争にみられるように、侵略する側と侵略される側があり、侵略される側は闘わざるをえない時があるし、武力で抵抗する権利があります。パレスチナ人もそうです」といった趣旨の返事の手紙を母親に書き送ったことがある。
母の反対は予想以上に強かった。「そんな戦争を肯定する人間は嫌いです。そんな危険な思想を持つお前とはもう縁を切る。勘当です!」という手紙が信原さんの元に届いた。しかし間もなくすると、その母の方から「やはり、子どもは自分の手足のようなものです。切っても切れません」という手紙が届くのである。
この母親のように、一般の日本人には戦争はいやだといっても、それを生み出す大きな社会機構に対して、どう立ち向かい、どう闘っていくか、といった発想が欠落しているように信原さんには思えてならない。だから、個人で良心的に生きよう、平和を守ろう、という幅の狭い平和主義に留まってしまうのでは、と。しかし、その母親も、娘が個々の人間に対して理解をしようという姿勢に対して信頼は抱いていると、信原さんは肌で感じ取ることができた。そうした信原さんの行動に、母親も頭から反感を持つことは、もうなくなった。
"あなたの国"(母はパレスチナのことをそう呼ぶようになった)に私も一度行きたい。でも、体が悪くて行けない」と書き送ってきたこともある。信原さんが帰国した後も、パレスチナ人の客が来ると、「家に来て欲しい」と催促するまでに母は変わった。
現地で、故郷へ帰りたいというパレスチナ人の言葉を聞かされるたびに、信原さん自身は「自分にとって故郷とは何か」と自問してきた。それは"祖国"である日本の見直しでもあった。アラビア語のように考えなくてもしゃべれる日本語、緑の少ない中東で思い出す水と緑に恵まれた日本の風土・・・遠く離れて初めて祖国のよさを思い知った。
しかし、17年ぶりの帰国後に見たその日本の姿は、以前とは全く変わって映った。電車の中の男の人の顔がずんべら坊で「女みたい」に見え、ケーキを買うと、一つ一つ丁寧に紙で包み、その上にまた袋に入れる。その資源の浪費にも驚かされた。
以前より一層悲惨に見えたのは、日雇い労働者の街「山谷」や「釜ケ崎」の実態であった。アルコール中毒になっても病院にも行けない老人。一日中全く食事もできない中年の男性・・・。「パレスチナよりひどい」皆が助け合って暮らす社会で暮らしてきた信原さんには、「豊かな日本」の中で見たこの光景に、思わずそう呟いてしまった。
「信原孝子さんを支える会」の機関誌に信原さんはこう書いている。
「巨大な壁が、30階建てのビルから10階建てのアパートや2階建てのウサギ小屋にまで連なっているように見えてきた。職種や会社や学歴、家族や学校やサークルやグループがいっぱいあって、複雑にどこかで触れ合っているようだけれども、まだまだ職種や会社や学歴の壁で仕切られているような気がする。いろんな社会的・政治的な活動をしている人々の間にも違った壁がある」
以前にも増して、信原さんには、モノの豊かさで幸福度を計ろうとする、いびつな日本人の姿もはっきり見えてきた。確かにモノは溢れている。進んだ技術もある。しかし、逆に、それに毒されてはいまいか、と思えてならないのである。
【月刊誌『世界』(1991年2月号/岩波書店)に掲載】
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