2014年8月1日(金)
(写真:ガザ市東部 シャジャイーヤ地区の破壊跡/2014年8月1日 撮影)
凄まじい破壊の跡だ。コンクリートとブロック造りの数階建ての家々が密集していたはずの地区が一面、瓦礫の山と化している。それが2〜300メートル先まで続く。瓦礫の中に壊れた家具や衣類などが散乱している。瓦礫の上を歩くと、所々、異臭がする。以前、体験したことがある匂いだ。2003年4月、私は同じような現場でカメラを回していた。ヨルダン川西岸のジェニンだ。イスラエル軍の侵攻でジェニン難民キャンプの中心部が完全に破壊された直後、その瓦礫の中で同じ匂いが私の鼻をついた。死臭だ。おそらくこの瓦礫の下に収容できない遺体が埋まったままなのだ。
ガザ市東部シャジャイーヤ地区が空爆と戦車の集中砲火によって破壊されたのは、イスラエル軍の地上侵攻が始まった7月20日過ぎだった。それから10日以上経って瓦礫の下に放置された遺体が30度を超える気温の中で腐乱しているのだ。イスラエル軍は「このシャジャイーヤ地区がハマス武装勢力の拠点になっていたから」と破壊の理由を説明した。しかしそこには何千人という一般住民が暮らしていたのだ。その住民は完全に住処を破壊され、今、国連が運営する学校などに避難している。今朝から3日間の休戦が決まり、その住民たちが破壊された自分たちの家の瓦礫の中から、使える世生活用品を拾い集めるために戻ってきていた。衣類をくるんだ布袋やマットレスや布団を背負う男たち、台所用品を拾い集める女たち……。ジェニンの破壊跡で見たように、瓦礫の中から貯金していた多額の現金や貴金属を必死に探す者もいるだろう。攻撃が始まると、住民たちは着のみ着のままで家を飛び出したはずだ。イスラエル軍は3分前に警告の電話をしたと主張するが、たとえ警告電話を受けた住民がいたとしても、突然3分後に家を爆破するといわれて、貴重品や生活用品を持ち出す余裕などなかったに違いない。生き残った住民は命の他は、すべてを失った。
私たちが現場に到着したのは午前10時ごろだった。しかし小一時間も経った頃、近くで戦車の砲撃音が響き、その方向から黒煙が上がった。瓦礫の中から生活用品を探し回っていた住民たちが一斉に引き揚げ始めた。ラジオニュースは、休戦が破られたことを伝えていた。イスラエル兵がハマスに捕囚され、その報復攻撃でガザ南部のラファ住民約60人が殺害されたニュースをテレビニュースで知った。
(写真:ラハマ一家/2014年8月1日 撮影)
そのシャジャイーヤ地区で家を失ったある家族がガザ市内の国連(UNRWA)の小学校に避難していた。この学校は7月13日から避難所になり、現在、2108人がひしめき合うように暮らしている。
ラハマ一家は夫婦と子ども6人の8人家族。イスラエル軍の空爆が始まった直後の7月7日、隣の家を狙った爆弾が的を外し、ラハマ家に命中した。その衝撃で生後6ヵ月の息子は意識を失い、やっと回復したのは3日後だった。6歳の娘は右腕を骨折し、今も細い腕に薄汚れた分厚い包帯をはめたままだ。運よく死者は出なかったが、爆撃で家を破壊された衝撃で、子どもたちは今でもパラノイヤに悩まされている。
「突然だったので、お金も服も持ち出せませんでした」と母親のハヤット(37歳)は破壊当時を語った。
「外のアラブの国々ではラマダン明けの祝日を楽しめるのに私の子どもたちはそれもできません。まもなく学校が始まります。この学校を追われたら、家を破壊された私たちはいったいどこへ行けばいいんですか!」
今回のガザ攻撃で住居を追われた、新たな“ガザ難民”の数は40万人ともいわれる(ラジ・スラーニ氏)。たとえこのイスラエル軍の攻撃が「終結」しても、40万人の“難民”たちの問題はその後もずっと続くことになる。
7月31日、5年ぶりにイスラエル側からエレズ検問所を通過してガザ地区に入った。5年間イスラエル政府のプレスオフィスから発給を拒否され続けていたプレスカードが、今回どういう訳か、すんなり発給されたのである。それは私にとって予想もしなかった“奇蹟”だった。「発給は手違いだった」と取り消される前に一日も早くガザ入りしようと、急いで今回必要となったイスラエル軍当局への申請をし、それもパスした。
7月31日早朝、エルサレムを経ち、午後0時半、私はガザの地を踏んだ。
これから、不定期的ながら、私がガザで取材した結果の一部を「ガザからの報告」としてフェイスブックと私のHPWebコラム(同じ記事)で報告する。
→ 次の記事へ
ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。