Webコラム

ガザからの報告(2014年夏)
(2)病院の中で野宿する避難民

2014年8月2日(土)

 シャジャイーヤ地区の破壊の規模と現場の広さから見て、そこからの避難した住民の数は万単位になるだろう。いったい彼らはどこへ避難しているのか。1つは前回紹介した家族のように、ガザ市内のUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の学校だ。しかし学校の数は限られているし、ガザ地区北部のベイトハヌーン地区やベトラヒヤ地区からも大量の避難民も来ているはずだから、UNRWA学校だけでは対応できないはずだ。
 今日、その避難民の一部に私は偶然、負傷者取材のために訪れたシェファ病院で出会った。病院建物の裏側に「シェファ公園」と呼ばれる芝生の狭い広場がある。そこに敷布など布で覆っただけの粗末なテントが建ち並んでいた。周辺には洗濯物が所狭しと並び、芝生の上ではたくさんの男たちが敷布の上に毛布を被って眠っていた。時計を見ると午前9時過ぎ。これからだんだん真夏の日差しが強くなってくるから、そのまま眠り続けることはできないだろう。周辺で早起きの子どもたちが遊びまわっている。テントの中には女性たちが眠っていた。こんな非常時でもイスラム社会らしく男性は外、女性はテント内とちゃんと住み分けられている。
 ここで暮らす青年の1人に聞いた。アハメド・クァムブール(23歳)の話によれば、この区域だけで800人ほどが暮らしていて、ほぼ全員がシャジャイーヤ地区からの避難民だという。ここに逃れて15日。ラマダンの期間は、イスラム関係の組織や一部の篤志家から食べ物の支援があったが、ラマダンが終わると、それも絶えた。今供給されているのは水だけで、それもこの2日間、補給されておらず、飲み水にも事欠いているというのだ。トイレは病院のトイレを使っているが、シェファ病院の敷地内の避難民の数は2000人にもなる(ある避難民)というから、足りないために、建物の一部が「トイレ」代わりに使われていた。シャワーを浴びる場所もないため、青年たちはこの15日間、一度も身体を洗っていないと言った。この暑さの中で15日間もシャワーを浴びられない辛さを想像するだけでぞっとする。どうしても耐えられないときは、トイレでペットボトルに水を汲み、それを被りながら、身体を洗うしかない。女性たちは産婦人科病棟のトイレで、また男性は内科病棟のトイレでペットボトルの水を被るのだという。
 「赤ん坊のための紙おむつやミルクもないんですよ!」同じく15日前にシャジャイーヤ地区から逃れてきたハーレド・ヘレス(41歳)は訴えた。「誰も水以外何も提供してくれないんです。政府もUNRWAも他のどんな組織も、また個人のだれも支援の手を差し伸べてくれない。『何が必要なのか』と聞きにきてくれる者は誰もいないんです」
 ラフィーク・イブラヒム(45歳)は食べ物がなく、それを買う金さえないと言う。「食事は1日1回だけです。今日はビスケットでしのぎます」
 先のハーレドに今後どうするのかと訊くと、「戦争が止んでも行くところがない。元の家のあったところで瓦礫の山を取り除き、そこにテントを建てて住むつもりです」という答えが返ってきた。

 2008~2009年のガザ攻撃のとき、地上侵攻終結の直後にも私は現地を取材した。その時はあまりに甚大な破壊の規模に圧倒され言葉を失ったが、寝泊りするテントもない避難民を目にすることはなかった。「シャファ公園」のケースのように誰の支援も受けられず野宿を強いられる避難民が出てしまうほど、今回のガザ攻撃による破壊と被害は、ガザ史上前例のない桁違いの規模に達しているということだ。この避難民たちの存在そのものが、その現実を如実に象徴している。

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