Webコラム

日々の雑感 319:
菅原文太さんのこと

本文に続いて、映画『飯舘村─放射能と帰村─』のパンフレットに掲載された菅原文太さんによる「映画『飯舘村』があぶりだすもの」を転載しています。

2014年12月2日(火)

 有名でもない私は、いわゆる「著名人」の知り合いはほとんどいない。それでもドキュメンタリストとしての私の作品と仕事に共感してくださった「著名人」は、ほんのわずかだけど、いる。菅原文太さんもその1人だった。
 きっかけは、2009年に公開した私の最初のドキュメンタリー映画『沈黙を破る』だった。その試写会に足を運んでくださった奥さんの文子さんがこの映画を評価してくださり、夫の文太さんにご紹介くださったようだ。それから半年ほど経った頃、「ニッポン放送」のプロデューサーから電話が入った。「菅原文太 日本人の底力」への出演依頼だった。映画の宣伝になれば、と私は二つ返事で引き受けた。もちろん有名な俳優、菅原文太さんのことは芸能分野に疎い私でも知っていた。しかし代表作『仁義なき戦い』も『トラック野郎』も観たことがない。テレビなどで断片的に紹介されるそれらの映画映像から、正直、私とはほとんど接点のない別世界の人のように思っていた。
 スタジオで向き合った菅原さんは、収録前に私の映画の感想を訥々と語った。こんな多忙な有名人が、遠い異国のことを描いた、2時間を超える暗い内容の私の映画をほんとうに観たんだろうかと訝っていたが、その視点は鋭く、深かった。
 私は菅原さんに聞かれるまま、“パレスチナ”との出会い、30年近く関わってきた理由、“パレスチナ”から得たもの、日本人として“パレスチナ”と関わることの意味など、早口でまくしたてた。菅原さんはほとんどコメントもせず、ただじっと私の話を聞いていた。

 その次に菅原さんと向き合ったのは、あれから3年3ヵ月後の2012年11月だった。場所は同じく「菅原文太 日本人の底力」のスタジオである。しかし今度は、半年前に私が完成したドキュメンタリー映画・第一部『飯舘村─故郷を追われる村人たちー』と、その続編でまだ完成前の続編『飯舘村─放射能と帰村─』の監督としての出演だった。どういう経緯で、『飯舘村』の映画を菅原さんに観てもらうことになったのか、その経緯は忘れてしまったが、まず第一部の映画を観てくださった菅原さんから声がかかった。私は「それならば」とほぼ完成していた第二部『飯舘村─放射能と帰村─』のDVDも観てもらおうとDVDを収録前に送った。お忙しい方だから、「駄目元」のつもりだった。
 スタジオで再会したとき、菅原さんはその2本の映画を観てくれていた。この時私は初めて、東北の仙台出身の菅原さんは同郷人として震災と原発事故に深い痛みを感じていること、また自ら有機農業を実践している“農業人”としても、放射能汚染のために牛を手放さなければならず、農業を捨てなければならない飯舘村の農民たちの辛さがよりわかるのだということを知った。だからこそ『飯舘村』の映画が気になったのだろう。
 この時は前回と違って、収録中に菅原さんは私の映画を観た感想を積極的に語ってくれた。私も夢中になって話をした。結局、収録は1時間を超え、番組は2回に渡って放映されることになった。
 収録が終わった直後、菅原さんが、「映画の完成にナレーションが必要だったら、私がやってもいいから、言ってくれ」と声をかけてくださった。私は「私の映画にはナレーションはないので、できれば題字をお願いします」と答えた。
 というのは、その3年ほど前にある映画館で、私は菅原さんの映画の題字を目にし、強烈な印象として私の脳裏に焼きついていた。韓国で大ヒットしたドキュメンタリー映画『牛の鈴音』(配給:シグロ)の日本語版のタイトルが菅原さんの文字だったのである。柔らかくて、ぬくもりのある、達筆の文字だった。
 私の映画『飯舘村─放射能と帰村─』の題字を、東北出身で“農業人”でもあり、何よりも「二度とフクシマを起こしてはならない」という強い思いを持っておられる菅原文太さんに書いてもらったら、まさに「画竜点睛」、私の凡庸な映画がぐっと引き締まるに違いない──私はそう思った。
 そうは言っても、菅原さんは超多忙な有名人。名も知られていないドキュメンタリストの私のために、見返りもない労を執ってくださるだろうか。
 収録から2ヵ月ほど経ち、映画が完成間近になったとき、私は改めて、秘書の役も果たしておられる奥さんの文子さんを通して、恐る恐る、題字のお願いをした。すると、しばらくして何枚もの色紙の入った封書が送られてきた。その一枚一枚に、映画タイトル題字と「菅原文太」の署名が縦横いくつも書かれていた。こちらがいかように使えるようにと、文字の大きさを変え、位置を変えて並んでいた。その心遣いに胸が熱くなった。「菅原文太の直筆」を手にした私は狂喜し、舞い上がった。
 しかし、その翌月、飯舘村の村民を対象にした映画の試写会の時、私が大失敗していたことに気づかされた。上映後に私は「この未完の映画には、俳優・菅原文太さんのこの題字がつきます」と、誇らしげに色紙を掲げた。すると会場から「文字が違う」と声が上がった。「飯館村」ではなく「飯舘村」、つまり「館」ではなく「舘」だというのだ。
 私は顔から血の気が引いた。私はうっかりして、菅原さんに題字を「飯館村」とお願いしてしまったのだ。「どうしよう。あの超多忙な菅原さんに、『間違いました。もう一度お願いします』と、どの面を下げて言えるんだ。しかし、このままでは映画の題字としては使えない。ここまでやってもらって、『使えませんでした』とは口が裂けても言えない…」
 悩みに悩んだ末、私は腹をくくった。「正直に自分の失敗を告白し、謝罪して、もう一度、今度は『飯舘村』と書いてください、とお願いしよう」
 福島から戻った私は、文子さんに電話で事情を話して深く謝罪し、再度、お願いした。そしてすぐに送られてきたのが、最終的に映画の題字となった、和紙に書かれた「飯舘村」の見事な文字だった。

 今、私の手元には、決して世に出ることがなかった、菅原文太さん直筆の「飯館村」の色紙と和紙が数枚ある。文字は正しくないかもしれないけど、菅原さんの優しさと熱い思いと、私の失敗も飲み込んでしまう度量の大きさが凝縮された、私にとって宝物の文字である。

【追記】
以下は、「菅原文太 日本人の底力」(2012年12月2、9日)で、菅原さんが語った話を私が書き起こし、菅原文子さんに手を加えてもらった文章で、映画『飯舘村─放射能と帰村─』のパンフレット冒頭に収録したものです。

映画「飯舘村」があぶりだすもの
菅原 文太(俳優)

 牛を手放してコンクリート工場に再就職し、これまでと全く違う仕事を始めた志賀正次さんが、「行政や国が『村から避難しろ、村に戻れ、ああしろ、こうしろ』と余計なおせっかいはしないでくれ。村に戻るかどうかは自分たちで決める」と悲痛な声で言っていたのが強く印象に残った。それは彼だけじゃない、追い詰められた人々の切羽詰まった心境だと思った。

 人間というのは、立つ側によってこうも変わってしまうのかというのを、このすぐれた記録映像で見せつけられた。説明をしている政府の役人。ロボットがしゃべっているようにしか聞こえない。そういう職業を選んだ者が、その立場に立つことで、会社なら会社、組織なら組織に染まり、自分の言葉や意見ではなく、弁明や空虚な言葉しか出てこない。被災者側は、それぞれが悲痛な腹の底から出てくる言葉をぶつけているが、それを受け止める人間らしい感情を喪失している。土井さんの撮ったこの映画の中には、飯舘村という小さな村での様々な人間のあり方があぶりだされている。

 村長は除染に3000億円を超えるカネを提示していく。その金額が何を意味しているのか、わかっているんだろうかな。何をしようとしているんだろう。本当にそれが村民たちのためなのか、「村」を無理矢理に残していこう、存立させようということなのか。
 小さく寒い、小屋のような仮設住宅でみんな2年間も暮らし、帰りたいというのは本心だろうと思うし、悲痛な叫びだろうけど、「除染すれば帰れます」という空虚な言葉が飛び交っていること自体がおかしな話だ。考えてみれば、ある程度わかるんじゃないですか。「除染」といっても、学校や田畑などの表土を何センチか削る程度。では山や川、沼の底はどうするんですか。不可能だろうなとは素人でも思う。でも「除染」という言葉だけがずっと生き続ける。どうもそれをやめさせない誰かがいるのかなと疑わざるを得ない。これから土井さんにそれを探ってもらいたい。そこに手を突っ込んでいくのは難しいだろうけど。
 “パレスチナ”も大事だけど、“東北”も見続けて下さい。

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