2015年1月13日(火)
(写真:飯舘村/2014年11月)
人にとって“故郷”とは何か──それが30年近いパレスチナ取材、この数年のフクシマ取材の私のテーマである。パレスチナの現場で、自分が佐賀の田舎育ちであることが意外にも取材に生きていることを意識したことがある。
21年前、ガザの難民キャンプのある家族の家で住み込み取材をした時だ。貧弱で狭い家に16人の家族がひしめきあうように暮らす不自由な生活環境、しかも言葉も食べ物も習慣も全く違う環境なのに、居心地がいいのだ。それは私の幼児・少年期に体験した“空気”だった。濃密な人間関係で結ばれた農村の小さな集落、3世代が助け合いながら暮らす大家族、近所が1つの大きな家族のような共同体だった。パレスチナの難民キャンプには今もそれがそのまま残っているのだ。こちらは居心地がいいから自然体になる。すると周囲の家族も私の存在を気にかけなくなり、自然体で振舞う。そんな環境の中で、私はやおらカメラを回し始める。その家族の6年間の記録は映画『ガザ ー和平合意はなぜ崩壊したのかー』として結実した。
ただ、そのパレスチナ人家族と私の決定的な違いがある。私は故郷を40年ほど前に出たが、いつでも帰れる。しかし彼らは70年ほど前に故郷をユダヤ人に追われ、もう戻れない。その故郷を実際に見たこともない2世、3世たちは1世たちから“故郷”を語り継がれ、いつか帰郷することを夢見る。パレスチナ人にとって故郷の土地は自分の存在と歴史の根源である。だから故郷を失うことは、人間としての、また民族としての“誇り”“尊厳”を奪われることを意味する。だからこそ、彼らは命を賭けて取り戻そうとする。パレスチナの闘いは異なる宗教間の争いではなく、奪われた故郷、自らの尊厳を取り戻す闘いなのだ。
フクシマでもまた、天災ではなく人災によって住民が故郷を奪われた。3・11の直後、私は「ジャーナリストとして何をすべきか」と悩んだ後、福島県の飯舘村に向かった。長年パレスチナを取材し伝えてきた私がやるべきことは、パレスチナと同じように「人災によって故郷を奪われた人びと」の苦悩を伝えることだと思ったからだ。農業が中心だったこの村の住民たちは土地から切り離されることで、まず“生活の糧”を奪われた。「日本一美しい村」の豊かな自然環境も失った。そして何よりも濃密な村の共同体と3、4世代が共に暮らす大家族の“絆”を奪われた。村から避難する直前、ある若い母親が私に言った。「故郷の村にもう戻れないんだとわかった時、自分がこんなに村を愛していたことに初めて気づきました」
震災から4年近く経った今、避難した村人たちの心が折れ始めている。故郷と共同体と家族から切り離れた、とりわけ年長者たちが生きる支えを失いつつあるのだ。彼らが呻くように訴える。「故郷の村で死にたい……」と。
“故郷”とは何か。私は今もパレスチナで、フクシマでそのテーマを追い続けている。それは、自分にとって生まれ育った故郷・佐賀は何だったかを問い直すことでもある。
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