Webコラム

日々の雑感 329:
国家に棄てられる民

2015年2月22日(日)

(写真:福島県川内村/2015年2月9日)

 福島第1原発事故で一時全村避難した福島県川内村(かわうちむら)が「帰村宣言」をしたのは、原発事故から8カ月しか経たない2012年1月だった。その年の8月には避難民にとって命綱だった1人当たり月10万円の損害賠償が打ち切られ、翌年3月には20万円の生活保障も終わった。住民の多くが帰村しても生活手段がなく、病院や商店などライフラインも十分整っていない状態で帰村を決意する村民は少ない。人口ほぼ3000人のうち完全帰村者は578人(2014年1月時点)に過ぎなかった。とりわけ帰村できず、仮設住宅に残っている避難者の中には高齢者や障がい者など、仕事がなく、年金暮らしの世帯が大半である。その仮設の住民たちは今、補償を打ち切られ、生活苦に喘いでいる。

 郡山市内の仮設住宅で暮らす菅野よし子さん(仮名/62歳)は、震災前、病院の調理場で働いていたが、腎臓機能が低下し震災の数ヵ月前から1日置きに透析をしなければならない身体になった。地震が起きたときも、富岡町の病院で透析を終えたばかりの時だった。
 菅野さんの自宅は原発から20キロ圏内にある。「川内村で死にたい」という92歳の母親を残して避難するわけにもいかず、原発事故から数日間は村に残った。その間、村役場から避難の呼びかけはなかったと幸夫さんは言う。他の多くの村民が避難していることも知らずにいたが、15日に村の有線放送で遠藤村長が「村民のみなさん、また会いましょう」とあいさつするのを聞いた。村民がいるかどうか確かめるために、夜に村の中を車で回ったが、街灯以外、明かりはなかった。その時、幸夫さんは村民がすでに避難していることを知った。
 危険区域に指定された自宅に、幸夫さん夫妻が避難後初めて帰宅できたのは2ヵ月後の5月だった。持参した線量計がビービー鳴った。5~6マイクロシーベルト/時。帰っても住めるような状態ではなかった。幸夫さん夫妻は6反(60アール)ほどの水田を耕していたが、汚染された山の水を引いて米つくりをしていたから、もう作れない。
 それでも戻りたかった。地震で半壊した家を多額の金を費やして修理した。しかしよし子さんの帰村を阻む大きな障害があった。透析ができる病院である。1日置きに透析に通える病院が川内村の近くにないのだ。震災前は車で十数分足らずで通えた富岡町の病院も、今はない。また震災当時、原発で働いていた幸夫さんも、帰村しても67歳になった今、仕事はない。

 幸夫さん夫妻は、テレビのニュースを見るまで川内村の「帰村宣言」を知らなかった。以下はよし子さんとの問答である。

(Q・どうやって帰村宣言が決まったの?)

「私たちがわからないうちに帰村宣言になったんよな」

(Q・いつから? 村から意見を聞かせてというのはなかった?)

「なかった。全然ない」

(Q・どうやって決めたの?)

「わかんない」

(Q・村の人は知らなかったの?)

「知らなかった。お父さんが議員さんに聞いたら、議員さまも『知らないうちに』と言ったって。そんなことあっぺか(あるだろうか)」

(Q・帰村宣言があるというのをいつ聞いたの?)

「半年ぐらい過ぎてからか? テレビだか新聞なんかで見て」

(Q・村の役場からは何もなかったの?)

「なかったな。みんなそう思っているよ、たぶん」

(Q・普通、村の人の意見を聞いてから、判断するはずだけど。知らなかったの?)

「私らはわからない。みんなはわかっていたか、わかんないけど」

(Q・聞いたとき、どう思った?)

「ふざけんなという感じ。おめえら、何考えてるんだって」

(Q・どうしてそう思ったの?)

「帰ったって、(線量は)高いし。どうやって、この線量の放射能を取り除いてくれるんだと。こういうところに帰ってくるのかって。草はぼうぼうで、除染もしないうちだから」

(Q・除染もしないうちに?)

「うん。除染も何もしないで、草ぼうぼうで、ほんとに掻き分けて入るようなところを、帰村宣言した」

(Q・当時、線量はどのくらい?)

「4から5(マイクロシーベルト/時)」

(Q・声を上げなければと思わなかった?)

「思っても、一人で騒いだって馬鹿じゃないと思われるから、云わなかった。悔しい、ほんとに。泣き寝入りってこのことだな」

 「帰村宣言」が出れば、東京電力から出される避難住民1人当たり毎月10万円の「精神的な苦痛への損害賠償」は1年以内に打ち切られる。それは他に生活手段を持たない避難民とりわけ高齢者や障がい者たちにとって死活問題である。
 なのに避難区域の村の行政、いやその背後いる政府は、なぜ避難民たちの「帰村」をそれほど急ぐのか。政府は「避難民たちが一日も早く故郷に帰りたがっているから」と説明するだろう。しかしそれは表向きの理由に過ぎず、真の狙いは別にあると考えられる。
 1つは原発事故から4年が経つ今なお約13万人の避難民たちへの賠償や補償をできるだけ早く打ち切り、東電や国の財政的な負担をできるだけ軽減するため。2つ目は、国内および海外に「避難民はいなくなり、原発事故は終わった」と示すことで、原発再稼動や原発の輸出など日本の原子力産業の再興を急ぐため。さらに東京オリンピック成功のために、「原発事故」のネガティブなイメージを一日も早く払拭したいという狙いである。
 それらの政策遂行のために国家によって棄てられていくのが、原発事故の被災者たちである。

 よし子さんに訊いた。

(Q・帰村宣言で損害賠償が出なくなったけど、生活はどう変わった?)

「生活は、うんだなあ。なるだけ、お金がかからないように、お父さんの年金で食べて。自分はまだもらえていないから」

(Q・いくら仮設住宅で家賃がタダだといっても、たいへんでしょ?)

「でもみんなそうやって暮らしているんだ、ここ(仮設住宅)にいる人ら。みんながんばって負けないで。お父さんが、何か食べたいものがあったら、作ってやるって……」

(Q・だれも補償してくれないって、おかしいと思わない?)

「思う、うん」

(Q・自分たちのせいではないのにね?)

「ほんとだ……」

(Q・仮設で暮らして何がいちばん苦しい?)

「やっぱり狭いのと、なんだべなあ。いい所はお店が近いから、お店にいけば、手に入る。便利はいい、川内よりは。でも、私はあまり出て歩かない。今日はお父さんとくっついて(集会所へ)行ったけど、私はあまり出ないの。いつもここに寝ているの。外に出て、人の顔を見ることはあまりない」

(Q・人に会いたくないの?)

「あまり顔みたくない」

(Q・うつ?)

「んだ。ほんとにうつ状態。お父さんが『今日はやべえ』と心配して手を引いて(集会所へ)連れて行ったけど、私はあまり出て歩かない。いつも部屋のベッドにごろんとなって、横になって。一人でいたほうがいい」

(Q・一人でいると、いろいろなことを考える?)

「考えてもなあ。行くとこないから。友達もいないし」

(Q・将来、なにが不安?)

「病院のことと、家に帰って、おばあさんどうするかって」

(Q・希望は見えない?)

「何もない……」

 そうつぶやくよし子さんの眼から涙があふれ出た。

(Q・生きがいは何もない?)

「生きがいなあ……。何にもないなあ……。1日が暮らせればいいなあ。今日、一日が終わったなあって。そんな感じだ」

(Q・帰るんだという夢は持てない?)

「持ってもなあ……。しようがないかな」

(Q・いま一番したいことって何?)

「別にやりたいこともないし。お父さんが何か食いたいものがあったら、何でも買ってくるぞって言ってくれるけど、だけど、別に食べたいものも何もない……」

 傍の幸夫さんが説明した。
「透析のために、食べることも、飲むこともできないんです。生野菜はだめだし」

よし子さんがさらに付け加えた。

「水は1日500ccしか飲めない。食べ物は必ず湯を通してものしかだめで、果物もだめ」

(Q・生きていてもしようがないと?)

「うん。何回も思っている。ああ、今日逝くのかなあって思う。透析やっていると血圧が下がる、すると『ああ、もう、逝ってもいいや』って。『いつ逝ってもいいや』って」

(Q・でもよし子さんいなくなったら、幸夫さんは生きていけないよ)

「お父さん、言うの、そういうふうに。1時間でもいいから、俺より後に逝けって。そう言ってくれる。それはありがたいね」

(Q・時々、逝ってしまいたいという気持ちになる?)

「時々じゃない、毎日(笑い)。いい時はない、ちっともない」

(Q・何が一番悔しい?)

「やっぱり透析やっているのかなあ。悔しいなあ。これさえなければ、何でもできるのになあって思う」

(Q・透析がなかったら、川内に帰りたいと思う?)

「帰って何やっぺ? 田んぼも作られないし、でも、お父さんがウチにたまに連れていってくれるんだけど、ほっとするよね。うちに行くと」

(Q・川内に帰って、一番困ることは?)

「仕事だわな。お父さんも年金暮らしだし。もう60歳過ぎた人は使わない。働くところはないし……」

(Q・何もかも失ったという気がする?)

「手足もぎとられたって感じだなあ。(放射能が)目に見えるものなら、はいて集めて捨てるってこともあるけど、目に見えないものだから困ってしまう」

「なんて言ったらいいのかなあ。どこさ、言っていいのかわからない」

(Q・どこに怒りをぶつけていいかわからない?)

「うん」

(Q・帰って生活もできない、それで帰れって。僕らから見ても、なんでそんなことをするのかって思うんだけど、そのへんをどう思っている?)

「死ねって言うみたい」

(Q・そう聞こえるんだ?)

「うん。おめえら死んでもいいという感じだな。そうでしょ?」

(Q・死ねと言われたら、「この野郎!死んでやるもんかって思わない? 意地でも生きてやるって思わない?)

(うなづき、涙)

(Q・だめだよ、負けちゃ!)

「なあ……(涙)。悔しい……(涙)」

(Q・どこにも言えないんだ、その悔しさを?)

「お父さんしか言えない」

(Q・お父さんだけだ?)

「うん」

(Q・でも幸夫さんのために生きなきゃ!)

「お父さんのために(笑い)」

(Q・でも、ほんと悔しいね)

「悔しい……」

(Q・よし子さんの声は僕が伝えるよ!)

「すいません……ありがと……」

 そう声を絞り出すよし子の両眼から、どっと涙があふれ出た。

 「この人の悲しみと怒りを、伝えずにおくものか!」
 こみ上げてくる怒りと涙の中で、私は心底、そう思った。
 “伝える”手段を持つ1人のジャーナリストとして、そして1人の人間として。

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