2014年5月20日(水)
この夏、私は韓国の元「慰安婦」たちを描いたドキュメンタリー映画『“記憶”と生きる』を公開する。3時間30分の長編である。撮影から20年、翻訳に1年、編集に1年、長い歳月を経て、戦後70年目の今年やっと世に出すことになった。
長年、“パレスチナ”を伝え続けてきた私が、なぜ元「慰安婦」の映画なのか、といぶかる人もいるだろう。
それは広島のある被爆者との会話から始まった。学生時代から20年ほど交流を続けていた被曝者・富永初子さんは、被爆者という“被害者”という立場を越えて、アジア民衆に対する加害国の国民だという“加害者”としての視点を持つ、広島の中でも特異な被爆者だった。その富永さんが、日本の植民地政策と戦争の被害者である元「慰安婦」たちに会いたいと言った。しかし主治医は、被曝の後遺症で数々の病気を抱えた富永さんの海外旅行は危険だと判断したため、私が現地でビデオ撮影し、映像を通して富永さんに元「慰安婦」たちと出会ってもらうことになった。1994年夏、私は初めてソウルの「ナヌムの家」(分かち合いの家)を訪ねた。
実際、元「慰安婦」のハルモニたちに初めて会いその証言を聞いたとき、私は強い衝撃を受けた。そして日本の被爆者と韓国の元「慰安婦」との出会い以前に、日本人ジャーナリストとして、私はハルモニたちの声と生活をきちんと記録し伝えなければと思った。そういうきっかけと動機で1994年12月、私はナヌムの家を再訪し、ハルモニたちの証言と生活の撮影を開始することになったのである。
当時は、私が活字から映像に軸足を移し始めて1年ほどしか経っていない時期だったが、「ナヌムの家のハルモニたち」を撮影する直前まで、私はオスロ合意直後のパレスチナ・ガザ地区で、難民キャンプのある家族の元に住み込み、撮影取材を数ヵ月間続けていた。当初、この「現地での住み込み取材」という私の取材方法をナヌムの家の取材でも適用できないかと考えたが、女性たちの生活空間に日本人男性が住み込むことははばかられたし、実際、当時のナヌムの家にはその空間もなかった。そこで数百メートル離れた学生下宿の一室を借り、そこから毎日通うことにした。朝から夜まで通訳と共にハルモニたちと過ごした。通訳の朴鍾培(パク・チョンべ)さんは、彼が日本の大学に留学していた1989年以来の友人だった。
この撮影取材の成否は、日本人男性の私が日本の戦争被害者であるハルモニたちの中にどこまで入り込み、心を開いてもらえるかで決まると思った。私と朴鍾培さんはハルモニたちの中に溶け込もうと必死だった。食料や飲み物を差し入れし、食事もハルモニたちと共にした。部屋で一緒にテレビを観たり、おしゃべりをしたり、トイレが詰まれば掃除の手伝いをしたり、床暖房「オンドル」の修理のために床下にもぐったりもした。1週間ほど時が過ぎると、ハルモニたちも私たちを客人扱いしなくなってきた。私たちがナヌムの家にいることがだんだん“日常の光景”になってきたのである。私は少しずつカメラを回し始めた。その撮影はこの映画の主人公、姜徳景(カン・ドクキョン)さんが死去する数日前の1997年1月までのほぼ2年間、断続的に続き、その映像テープは百時間を超えた。
(撮影・安世鴻)
撮影当時、私は、いわゆる日本軍「慰安婦」問題が20年近くを経てこれほど深刻な国際問題に発展するとは予想もできなかった。ただ撮影取材したハルモニたちが次々と世を去っていく現状に、「いつかこの証言映像が歴史的な資料となる時がくる。今きちんと記録映画としてまとめて残さなければ」という思いをずっと抱いてきた。
ただそれには大きなハードルがあった。まず1つは技術的な問題である。当時使っていた小型カメラで撮影した映像テープは「Hi8(ハイエイト)」で、そのままではパソコン編集用ソフトに取り込むことができない。そのため、一旦、百数十時間の映像をすべてミニDVDにコピーするという膨大な手作業が必要となった。幸い、学生ボランティアたちのサポートもあって、断続的にほぼ1年をかけてやっとコピーを完了した。
もう1つのハードルは膨大な映像の中で語られるハルモニたちの韓国語を日本語に翻訳する作業だった。プロの翻訳家に依頼する予算もない。途方に暮れていたときに明治大学の大学院で学ぶある韓国人留学生が「私がボランティアで手伝います」と申し出てくれた。彼女は週に1、2度、東京の下宿先から横浜の私の自宅まで通ってくれた。後にさらに2人の韓国人留学生が加わり3人体制で翻訳作業が進んだ。それでも全部の翻訳は無理と判断し、映画の中で使う可能性のある部分だけを厳選せざるをえなかった。それにも1年以上を要した。
当初は、記録映画をいつまでに仕上げるといった明確な期限は定めていなかった。とにかく当時、同時進行で進めていた「パレスチナ」や「福島」の映画制作が一段落したら、編集に取り掛かろうと気長に構えていた。
しかし2013年5月の橋下徹・大阪市長の発言問題が起こったとき、私は「今こそこの映像を世に出さなければ」と意を決した。「あれだけ銃弾が飛び交うなか、精神的に高ぶっている猛者集団に休息を与えようとすると、慰安婦制度が必要なのは誰だってわかる」という橋下氏の言葉に私は、「この人には犠牲者の顔とその“痛み”が見えていない」と思った。
日本国内での「慰安婦」問題の議論には当事者たちの顔が見えていないというのは、私独りの思いではなかったようだ。2007年、アメリカで開催された歴史問題シンポジウムで、あるアメリカ人がこう語っている。
日本人の中で、「強制連行」があったか、なかったについて繰り広げられている議論は、この問題の本質にとって、まったく無意味である。世界の大勢は、だれも関心をもっていない。……慰安婦の話を聞いた時彼らが考えるのは、「自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか」という一点のみである。そしてゾッとする。これがこの問題の本質である。
(『世界』(2013年8月号/「日本軍『慰安婦』問題再考」・吉見義明)
日本で日本軍「慰安婦」問題が論じられるとき、被害者たちは「元『慰安婦』たち」というふうに、顔の見えない“マス(集団)“で描かれがちだ。一方、日本の戦争被害者──例えばヒロシマ・ナガサキの被爆者たち、東京大空襲の被災者たち、満州や朝鮮からの引揚者たち──を伝えるときは、名前を持った個人として等身大で、時にはその人の長い半生をさかのぼって詳細に伝えられることが多い。それによって、私たちはその個人に自分自身や自分の身近な人の姿に投影させ重ね合わせ、その“思い“や“痛み“を想像し、その存在を記憶に刻む。
しかしマスで描かれがちなアジアの“被害者たち“は等身大の姿や個人の顔が見えにくく、自分自身や身近な人に重ね合わせ、その“思い“や“痛み“を想像することは難しい。つまり「『自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか』と想像し、ゾッとする」こともないのである。だから、相手の姿もその“痛み“が私たちの記憶に深く刻まれることもなく、「日本軍『慰安婦』問題」の一時的な報道熱が冷めれば、私たちの意識からも薄れ消えていくのだと私は思う。
日本軍「慰安婦」に関する議論、報道を長年見ていて違和感を抱くのは、いろいろな情報や言葉は飛び交ってはいるが、その議論の中に“当事者たち個々人の顔“が見えにくいことである。日本軍「慰安婦」問題は、“「慰安婦」にされた人”の問題である。その“人”の顔が見えなければ、私たちの心には届かない。
“伝え手”、ジャーナリストである私の役割は、読者や視聴者が、描かれる人に自分自身や身近な人を投影させ、当事者たちの“思い”や“痛み”を想像するための手助けとなる“素材”を提供することだと私は考えている。
橋下発言をめぐるメディアの一連の報道を見ながらもどかしかったのは、上記したように、報道で飛び交う議論のなかに、当事者たちの等身大の姿と顔がほとんど見えないことだった。そんな今こそ、被害者であったハルモニたちの生の声と姿を日本人に伝え知らせる時だと私はハルモニたちの証言記録映画の制作を決意したのである。
独りでの編集は断続的に1年ほどを要した。昨年の1月にはほぼ映像がつながり、身近な映像のプロたちの間で試写を繰り返してきた。劇場公開をめざし、配給担当者が東京の劇場を回り始めたのは昨年の春だった。しかし次々と断られた。3時間半という長さのせいもあろう。しかし実際に映画の内容を観て吟味してもらえず、断わられたケースも少なくなかった。おそらく扱っているテーマが日本軍「慰安婦」問題という今最も議論を呼んでいる「微妙」な問題で、一部勢力に攻撃される危険性があるという判断があったのかもしれない。長い挑戦の結果、やっと「アップリンク」(東京・渋谷)での劇場公開が決まったのは今年1月だった。
映画『“私”を生きる』以来ずっとそうであるように、「監督・撮影・編集・製作」をほぼ私独りでやった、ことになっている。しかし編集段階で多くの映像のプロたち、「慰安婦」問題の専門家たちに試写で観ていただき、厳しく的確で貴重な批評や教示、助言をいただいた。また技術的な面でも、知人の映像制作のプロたちのアドバイスに助けられた。
撮影当時、私はまだ40代になったばかりで、好奇心とエネルギーに満ちていた。映像の世界に入って間もない私は、今のような「その映像が編集段階で使えるかどうか」の打算も知らず、とにかく撮影がおもしくて、ただがむしゃらにカメラを回していた。それが20年近く経って見直すと、当時は無駄撮りに思えた部分が、意外にも面白く、深い意味を持つ映像だったことを編集しながら気付かされるのである。「Hi8」で撮った画質は、現在のデジタル映像とはずいぶん見劣りがする。カメラを回し始めて1年目の撮影技術も稚拙だ。しかし映し出されたハルモニたちの声と姿は、劣悪な画質や未熟な撮影技術を超えて、観る者に迫ってくる“力”をもつ映像だと自負している。それは映し出される登場人物たちの“力”である。そのハルモニたち全員が亡くなってしまった今、その映像は “歴史資料としての価値”も持つようになった。
マスコミ試写で、「証言の羅列」という批評もあった。私の編集の稚拙さゆえだが、私はそれでもいいと思っている。その1つ1つの証言に“力”と“意味”があると信じるからだ。3時間半は長過ぎるという指摘もある。私自身、そのことは気がかりで、一時、証言者の数を削り、短縮版も作ってはみた。しかし、そうすれば、落ちてしまったハルモニたちの証言は、もう2度とこの世に出る機会を失う。「観やすさ」を採るのか、「歴史証言の意義」を優先するのか、迷った末、私は後者を選んだ。それなら、最終的に落としてしまった李英淑(イ・ヨンスク)さんの証言も削るべきではなかったし、紹介したハルモニたち各人の証言も、あまり「整理」せずにできる限りに未編集のまま出すべきだったのかもしれない。しかし「観てもらうためには、ある程度の工夫はしなければ」という編集者としての計算が働いた。そういう意味で、実に矛盾をかかえた作品である。
私はこの『“記憶”と生きる』という映画が果たして一般の日本人に受け入れられるのかどうか、劇場公開が成功するかどうか、まったく自信はない。ただ、観る人は多くはなくても、戦後70年の今、日本国内で世に出す意味はあると信じている。それはまた、元「慰安婦」のハルモニたちと出会い、関わり、その声と生活を記録した加害国・日本のドキュメンタリストとしての私の責務だと思っている。
映画の詳細は 『“記憶”と生きる』公式サイト をご覧ください。
土井敏邦監督『記憶と生きる』
2015年6月7日完成披露上映会
【出版のお知らせ】
「“記憶”と生きる」 元「慰安婦」姜徳景の生涯
(大月書店/2015年4月20日発行)
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