2015年7月7日(火)
(『“記憶”と生きる』パンフレット「監督のことば」より)
30年近く“パレスチナ・イスラエル”を取材し伝えてきた私が、 “日本軍「慰安婦」”をテーマにしたドキュメンタリー映画を制作したことを意外に思われる方もおられるだろう。
きっかけは、1994年夏、私が学生時代から交流を続けてきたある老被爆者との会話だった。 80歳近かったその老被爆者は“戦争被害者”という立場にとどまらず、被爆者である自分もまたアジアの民衆に対しては加害国の国民の1人であったという現実を見据えていた。そんな彼女が元「慰安婦」の女性たちに会いたいと言った。しかしその願いは、結局、実現しなかった。様々な病を抱えていた彼女の海外渡航を医者が禁じたのだ。
それなら私が元「慰安婦」の女性たちの姿と声をカメラで撮影し、間接的な“出会い”の機会を作ろうと考えた。そうして、1994年夏、私は初めて「ナヌム(分かち合い)の家」を訪ね、元「慰安婦」のハルモニたちと出会うことになったのである。
彼女たちは元「慰安婦」だったという共通の体験以外、その境遇や歩んできた道はまったく異なる。時には支えあい、時には激しくぶつかり合う生活の中で彼女たちは消せない過去の記憶と、抑えられない感情を日本人男性の私にぶつけ、吐露した。“パレスチナ・イスラエル”問題と共に“日本の加害歴史”も重要な取材テーマとしてきた私は、そのハルモニたちの証言と姿に強烈な衝撃を受けた。「このハルモニたちの“記憶”と生活を映像で記録しよう」と決意したのはその時である。
1994年12月以来、ナヌムの家の近くに下宿しながら取材・撮影を続けた。この映画の主人公である姜徳景(カン・ドクキョン)さんが肺がん末期であることが判明した翌年からは、姜さんの記録を残すためにいっそう足繁くナヌムの家に通った。この映画は、姜徳景さんが亡くなる数日前の1997年1月までの2年間に撮りためた百数十時間の映像を私自身が1年がかりでまとめたものである。
「なぜ20年後に映画化なのか」とよく問われる。
撮影から年月を経るに従って、証言したハルモニたちが次々と亡くなっていき、映像に残された彼女たちの声と姿が貴重な歴史資料としての意味を持ち始めた。一方、年月を経るに従って映像素材がどんどん劣化していく。この映像を後世に残す記録映画にまとめなければと焦りながらも、パレスチナなど他のテーマの取材に追われ、その作業は遅々として進まなかった。
そんな折、起こったのが2013年5月の橋下・大阪市長の「慰安婦」問題発言だった。「「慰安婦」は世界の各国にあった。日本だけがどうして取り上げられるのか」と日本の加害責任を回避するようなこの発言が、韓国や国内から強い反発を招いた。私はこの発言に「この人たちには被害女性たちの“顔”が見えていない」と思った。元「慰安婦」とマス(集団)で語られる限り、被害女性たち個々人の“痛み”は伝わらない。その“痛み”を伝えるには、被害女性たちの“顔”を日本人に見せなければいけない。その素材を持っている私が今こそそれをやらなければいけない。2013年春からこの映画の編集作業に本格的に乗り出したのは、そういう動機からだった。
3時間半を超えるこのドキュメンタリー映画は、「『慰安婦』問題の解説」や「史実の検証」を目的としたものではない。ハルモニたちの脳裏に深く刻まれた「慰安婦」体験と、それを引きずって生きてきた壮絶な戦後の半生、“人としての尊厳”を取り戻すために彼女たちが日本人ジャーナリストの私に敢えて語った、その“記憶”を記録することをめざしたものである。そしてそれは、あのハルモニたちと出会い関わった加害国のジャーナリストである私の責務だと思っている。
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【出版のお知らせ】
「“記憶”と生きる」 元「慰安婦」姜徳景の生涯
(大月書店)
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