2015年9月11日(金)
いま、毎日何万人という難民が、シリアなど中東からヨーロッパに押し寄せている。小さなゴムボートにすし詰めになって命がけで海を渡り、空腹と疲労に必死に耐え、荷物と幼子を抱えて徒歩で、またはバスや列車でひたすらドイツをめざす。連日、欧米メディアのトップニュースとして映し出される難民の群集を見るのは辛い。「食べ物はどうしているのだろうか」「排泄はどこで、どう済ませているのだろうか」「もう何日も身体を洗えない苦しさにどう耐えているのだろうか」「もう寒くなっているはずの欧州の夜、どこで、どうやって寝ているだろうか」「この過酷な環境に耐えられず、衰弱し病いに倒れる赤ん坊や幼子たちに親はどう対処しているのだろうか」……。
もし自分が戦渦の中で暮らさざるを得ないシリア人だったら、私はどういう選択をするだろうか。アサド政権の軍隊による無差別攻撃、IS(イスラム国)の攻撃と恐怖統治の中でも、将来の平和回復をひたすら願ってじっと耐えて現地に残る道を選ぶのか。それとも、たとえどれほど過酷で危険な行程であっても、一縷(いちる)の望みをかけてヨーロッパを目指すのか。もし自分に幼子がいて、現地にはその子らの未来はないと判断すれば、その子供たちの将来のためにたとえ自分や家族に危険はあっても、私はシリア脱出という賭けを選ぶだろうと思う。
しかし、その賭けの結果、自分の子が、トルコの海辺に打ち寄せられたあの幼子のような運命をたどったとき、私は自分の判断への後悔に胸をかきむしられるに違いない。そして自分たちにこういう運命を強いたものへの激しい怒りと憎悪が改めてふつふつと沸き起こってくるはずだ。それはどこへ向かうのか。祖国での平穏な生活を破壊し、権力維持のために自国民を平然と殺戮する独裁政権に対してか。国際政治の駆け引きのために、その暴虐を制止できなかった欧米諸国やロシアの政治指導者たちに対してか。またシリアの混乱と国民の窮状に沈黙し続けた国際社会全体にか。または、このシリア国内の混乱に乗じて勢力を伸ばし、住民を恐怖に陥れているISにか。きっとそれらが一緒くたになって、気が狂わんばかりになるにちがいない。
しかし日々の生活に忙しい私たちは、実際に「遠い国の出来事」の当事者たちにわが身を置き換えて、その心情を推し量ることは滅多にしない。ニュース映像に「かわいそうに」と胸は痛んでも、それは自分には関係のない、すぐに忘れてしまう「ニュース」に過ぎない。
「遠い国の問題だから」だろうか。首都圏から車で3〜4時間もあれば行ける福島で、原発事故から5年近くなろうとする今なお、10万人を超す住民が故郷を追われて避難生活を送っている。生活の糧であり生きがいであった仕事を奪われ、家族はバラバラにされ、狭い仮設住宅で無聊(ぶりょう)と孤独感、先がみえない不安と絶望感で心が折れそうになっている人たちだ。これほど近い距離にいる同じ日本人の現状に、首都圏の私たちは目を向け、心を痛め、何かしなければと思っているだろうか。できるだけ早く補償を打ち切るために、生活再建のめどもなく「帰還」を急がせる政府の方針に何の疑問も持たず、異議も唱えず、5年後に迫ったオリッピックの話題に注意を奪われる。それは「オリンピックの成功」のためにフクシマを「もう終わったことにしよう」とする政府の思惑通りだ。
「中東からの難民」や「フクシマ」への向き合い方は、私たち自身の“他人の痛みへの想像力”の貧弱さを改めて思い起こさせる。
一方、この問題は、日本政府の「国際貢献」「積極的平和主義」の欺瞞をも浮き彫りしている。
『東京新聞』(9月11日版)は「こちら特報部」欄で「積極的平和主義と難民対策」と題し、この問題を論じている。
その記事は、シリア難民の元凶はアメリカ主導のイラク戦争であり、日本はその戦争を支持し、自衛隊を派遣したことに言及している。黒木英充・東京外国語大学教授(中東地域研究)は「アメリカ追従の姿勢を取ってきたのは間違いない。戦火に直接関与していないとしても、『イスラム国』の誕生、現在の難民問題について責任の一端を負っている」と指摘している。
一方、英国紙『ガーディアン』が「日本は『イスラム国(IS)との戦いには2億ドル(約240億円)を拠出するのに、シリア難民をまだ受け入れない』という、日本の「中東和平への貢献」の矛盾への鋭い指摘を紹介しながら、『東京新聞』の記者は「積極的平和主義という言葉を看板にしつつ、難民支援は主に資金や物資の提供にとどまっている。本末転倒ではないか」と書いている。
「国際貢献」を声高に叫ぶ安倍政権だが、難民受け入れの実態はその掛け声とは程遠い。2011年以来、シリア内戦による400万人を超える国外難民のうち、ドイツは9万8千人、冬までに15万人受け入れを表明、英仏もそれぞれ2万人規模を受け入れる計画だ。ヨーロッパだけではない。遠いベネズエラも2万人受け入れを表明したという。
一方、日本では昨年の難民認定者数は申請者5000人に対して11人に過ぎない。シリア難民は2011年から今年7月末まで3人である(上記『東京新聞』より)。
安倍首相の言う「国際貢献」とは、多くの国民の反対を押し切って安保法案を強引に成立させようとする現状が象徴しているように、「アメリカ貢献」のことであり、決して世界の弱者に手を差し伸べることではないのだ。
ドイツのメルケル首相の言動と比較すると、日本の指導者の言動の薄っぺらさが際立つ。
ドイツでも難民政策に巨額の税金が費やされ、国民が仕事を奪われるのではないかという懸念から、極右勢力による難民保護施設への襲撃や放火が続発し、難民排斥デモが各地で相次いでいる。その現状に、メルケル首相がきっぱりとこう言い切るのだ。
「人の尊厳を踏みにじる者を許さない。彼らの心は偏見に満ち、冷たさと憎しみを宿している」。
このメルケル氏の勇断は今回に限らない。福島の原発事故直後、「日本のできごとからわかるのは、科学的にあり得ないとされてきたことが起こるということだ」と、ドイツの将来のために経済界の反対を押し切って、「原発推進」から「脱原発」へ、自らの政策を180度、方針転換した。
一方、日本の指導者は、経済界のために、十数万人の国民の生活を破壊して今なお事故の収拾のめどさえ立たないまま、“セールスマン”となって他国に原発輸出を推進する。さらに「武器輸出三原則」の縛りを解き、日本の武器商人たちのために武器輸出を容認するのだ。さらに占領・抑圧され無差別攻撃で殺戮され続けるパレスチナ人が“テロ国家”と呼ぶイスラエルと「対テロ連携」を宣言し、戦闘機を共同開発する。極めつけは安保法案だ。「アメリカ貢献」のために日本人の誇りだった“平和憲法”を骨抜きにしようとする。そんな日本の指導者は私にはまさに「経済界とアメリカの“忠犬”」に見えてしまうのである。
そんな日本の指導者に、メルケル首相が語った、人の心を揺さぶる「人の尊厳」という深い言葉を期待するのは、太陽が西から昇るのを期待するようなものだ。
なぜこうも両指導者が違うのか。指導者個人の人間の資質の差だけだろうか。その指導者を選ぶ国民の意識の差にも起因しているはずだ。
やっとの思いでフランクフルトに到着した難民たちを、たとえ一部であってもドイツ国民は「お疲れさま! 私たちの国ドイツを希望の地と思ってくれてありがとう!」と迎えた。日本人はアジアや中東からの難民をそういうふうに迎えられるだろうか。
「難民」に対する向き合い方の両者の相違は、「ホロコースト」という自国の負の歴史ときちんと向き合い、後世に伝え残そうとするドイツ人と、「南京虐殺」「『慰安婦』問題」などに象徴される自国の戦争責任、負の歴史と向き合えない日本人との相違とどこか根底でつながってはいないか。「難民」問題は、その違いの起因を解き明かすヒントの1つを提示しているようにも思えるのである。
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