Webコラム

ルポ「絶望の街─ガザ攻撃から15ヵ月後─」(3)

(2016年2月21日公開)


(写真:ガザ 2015年11月・土井撮影)

2人の息子と家を失った家族の戦後

 私がナジャール(仮名)一家と出会ったのは2014年夏、ガザ攻撃の最中、家を破壊されて住処を失った住民たちが避難場所となっていたガザ市内の国連(UNRWA)の学校だった。ナジャール一家80人はガザ地区東北部ベイトハヌーン町にあった5階建ての家で暮らしていた。しかしイスラエル軍の攻撃が始まってまもない7月7日、家が砲撃され、2人の兄弟が殺害された。その母親ザキア・ナジャール(仮名/59歳)は当時の様子を私に涙ながらにこう語った。
 「家のバルコニーにいた2人の息子がイスラエル軍の砲撃で殺されました。その息子たちはそれぞれ6人の子どもの父親でした。顔に砲弾を打ち込まれ、脳が炸裂し、両方の目玉が飛び出し、顔がぐしゃぐしゃでした。酷すぎると思いませんか。ただバルコニーから外を見ていただけないんですよ。息子たちのことを思い、はらわたが煮えくり返る思いです。死にそうなくらい、苦しくなります。でも息子たちの嫁や孫たちの前でそんな姿は見せたくない。はらわたが煮え返る思いはもう誰にもさせたくない」

 それから15ヵ月後、私はベイトハヌーン町でナジャール一家を探し回った。住民に尋ね歩き、やっと見つけた一家は、町外れに設置されたコンテナハウス(住民は「キャラバン」と呼ぶ)で暮らしていた。

 夫を殺害された女性が「キャラバンに住んで、家族はバラバラです」と訴えた。
 「夏はとても暑くて、冬の雨季は寒いうえに湿気が上がります。雨漏りした湿気で天井の一部が腐って、寝ている人の上に落ちてきました。壁にも穴があり、ネズミが侵入してきて食料を食べてしまいます。ここは野外だから時にはヘビも入ってきて、子どもたちにはとても危険な場所です」

 いったい前回の戦争はこの家族に何をもたらしたのか。そう問う私に母親ザキアは怒気の帯びた声で答えた。
 「(あの戦争がもたらしたのは)ただ死と家の破壊だけです。殉死者と家の破壊を増やし、私たちをコンテナハウス生活に投げ込んだんです。これが私たちの生活です」
 「ハマス政府は支援しなかったんですか?」
 「いいえ。何も。息子たちは無駄死にしました。殺された2人の息子の子どもたちを支援してくれたすべての組織に感謝します。カタールやマレーシアや他の外国の慈善組織だけが子どもらに衣類や食物やお金を支援してくれました。他の誰もこの子らを支援してくれません」

 一家が暮らすこのコンテナハウスはガザ市当局(ハマス系)から無料で提供されたわけではない。停戦の直後、この一家のように家が全壊した家族には当面かかる借家の家賃代としてUNRWA(パレスチナ国連難民救済事業機関)から1500ドルが支給された。しかしその金を銀行に受け取りに行くと、すでにそれはガザ市当局に渡っていた。一家に「提供」されたコンテナハウスの「賃貸料」だと市当局は説明した。つまりキャラバンは無償で提供されたものではなかったのである。
 ナジャール家の長男マフムード(仮名/39歳)には19歳の長男を頭に9人の子どもがいる。3つのキャラバンで暮らしている。夫婦合わせて11人の家族の糊口を凌ぐために、マフムードは10年前から働いてきたコンクリート製造会社での仕事を続けている。袋をナイフで割き、中のセメントをコンクリート製造機械の取入れ口に移す作業だが、セメント塵が舞う中、防塵マスクもなく作業を続けなければならない。会社側に防塵マスクを要求したが、「自分の身体は自分で守れ」と言われ、仕方なく、マスクもなく作業を続けている。その粉塵の影響のためにか、朝、激しく咳き込む。時間も不定期で、夜に呼び出されるときもある。そんな過酷な仕事だが、月給は約200ドル。とても11人の家族は養えない。不足分を国連や慈善組織などの支援でなんとか賄っている。
 妻のエマン(仮名/34歳)は、生活苦を訴えた。
 「子供たちを育てる上で、何が一番たいへんかって? 貧しいこと。お金がないことです。学校の他の子らはお小遣いをもらっているのに、どうして僕はもらえないのと子供は言って、泣き出します。子供にとって辛いことです。ときどき娘のバス代さえあげられないんです。肉類は一月に一度ぐらいしか食べられません。私は今病気を抱えていますが、治療も受けられないんです。『なぜお父さんは働かないの?』と聞かれます。封鎖されているからだと説明します。月800シェケルでなんとかやっていくために懸命です。時には国連機関から、時には私の実兄から、20〜30シェケルを支援してもらいます。時には畑に行って、残った野菜を拾います」
 「子供たちの将来をどう考えていますか?」
 「どう言えばいいんでしょうか。子供たちには世界は塞がれています。子供たちに将来なんてありません。子供に与えられるものがありません。大きくなっても、このままです。この子らが大きくなっても、仕事が見つけられないでしょう。子供たちの目の前には未来はありません。子供たちが働いて、将来を築く道は閉ざされています。今日は昨日と変わりません。明日よりも今日の方がいい。生活は地獄のようです。生きていてもいいことはありません。死んだほうが楽です」

 夫のマフムードに「前回の戦争はあなたたちパレスチナ人に何をもたらしたのか」と問うと、母親のザキアと同じく怒りのこもった答えが返ってきた。
 「最悪の状況になりました。誰に怒りを抱くかって? 私はイスラエルとガザ政府の両方に怒っています。とりわけ前回の戦争の責任はガザ政府にあります。この戦争の背後にハマスがいます。ハマスがどうあれ、ガザを掌握しているのはハマスだけです。ガザで起こること全てはハマスに責任があります」
 妻エマンも「ハマスに全ての責任があります」と言い切った。「ハマスが検問所を閉鎖してしまった。もし開いていたら、仕事があるはずなのに。ハマスは住民に責任を持つべきです。冬に雨漏りをするので、ハマス政府にビニールシートを求めたけど、拒否され、自分で探せと言われました。前回の戦争の責任はハマスにあるのに。ハマスがロケット弾を撃つから、イスラエルが報復したんですよ」
 マフムードの怒りを増幅しているのは、ハマスよる差別だ。
 「停戦直後に私は枕と毛布の支援を政府に求めて出かけていきました。しかし80人の家族に与えられたのは10組の枕と毛布だけでした。ハマス系『ウンマ』という組織があります。家を破壊されたハマスのメンバー1人ひとりにこの組織が7300ドルを支援したのです。他の住民には支援しませんでした。ハマスに属さない住民を差別しているのです。ガザ政府自体が私たちを支援してくれることは期待していません。しかし海外から政府に多額の支援が届いています。何千万、何億という支援金が入っていると聞いています。しかし住民は全くその支援を手にすることができませんでした」
 「戦争中、私は政府を支持しました。政府の勝利を祈っていたんですよ。多くの死傷者が出て、家が破壊されても、私たちは最後まで、ハマスを支持し続けました。しかし戦後、政府は私を失望させました。政府は戦争が終わるや否や、私たちを見放したんです。彼らは弟たちの1周忌に弔問のためにナツメヤシ1箱抱えて訪ねてきました。戦争から1年後です。この1年間、コンテナハウスに住む私たちに1度も会いに来なかったのに」
 しかしマフムードは先のオサマと同様に、自分の怒りを公にすることはできない。周囲にはハマス関係者も多く、公言すると当局に伝わり、投獄など弾圧される危険があるからだと言う。
 「希望は?」と問う私に、マフムードは「何もありません」と即答した。
 「希望なんてないんです。戦争から2年になろうとしているけど、何も状況は変わってはいません。戦争中には『家は再建されるから、心配するな』と言われたけど、何も進展はありません。何も状況は変わっていないんです。世界中の人のように、朝起きたら新しい日が始まり、幸せな生活がある。そんな希望が私たちには全くないんです」
 「先月ずっと、妻と子供たちを連れてガザを出ることばかり考えていました。もう1ヵ月の間です。どんなに金がかかってもガザを出たいです。誰に、どれだけ多額の金を払ってもです。どんな方法でも出たい。ガザを出られるのなら、どんな国でもかまいません。みなこの生活にうんざりしています」

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