2016年5月12日(木)
5月下旬にオバマ大統領が広島を訪問することが決まった。メディアはそのニュースを大々的に報じている。「現職アメリカ大統領の初の広島訪問」「『核(兵器)なき世界』の理念を改めて広島から世界に発信する」「大統領の理性と良心に基づく英断」……。原爆を投下した当事国の大統領が、その被害を受けた街を訪れ、被害の実態を自ら見聞し、犠牲者を慰霊し、改めて「核兵器のない世界を」と訴えることは大きな意味があり、歓迎すべきニュースであることに違いない。
ただ私は、このオバマ大統領の広島訪問を「歴史的イベント」として政府やメディアがこれほど大騒ぎすることに、どうしても違和感をぬぐいえない。
メディアのこのはしゃぎぶりを見て、私が真っ先に思ったのは、「このニュースを、かつて日本の植民地支配や侵略の被害を受けたアジアの国々と国民は、どう見ているのだろうか」ということだった。
「ヒロシマ・ナガサキ」はたしかに“核兵器廃絶”という全人類の願いのシンボルであり、「聖地」でもある。それはまた日本の“被害の歴史”の象徴でもあり、日本人が「平和」を世界に向けて訴えるとき、「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」と叫ぶ。日本人の「平和」の原点は、「ヒロシマ・ナガサキ」に象徴される“被害体験”だからだろう。
その一方、日本の平和運動の中で、「ノーモア・南京」という声を私は聞いたことがない。“南京虐殺”に象徴されるような“加害の歴史”は日本の平和運動の原点とはなってはいないのだ。
“被害”を強調することは、時として“加害”を覆い隠す“隠れ蓑”になりかねない。私はそれをパレスチナ・イスラエルで見てきた。イスラエル人にパレスチナ人への加害の実態について問うと、「ユダヤ人のホロコースト体験」を挙げ、「あのような悲劇を繰り返さないために、我われは闘っているのだ」と反発する人がいる。
私たちが自国の被害歴史を語るとき、加害歴史もきちんと見据えておかなければならないはずだ。そうしなければ、被害を受けた当事者・当事国には、その被害歴史の強調が、加害歴史のカモフラージュに見えてしまうからだ。
日本が「オバマ大統領の広島訪問」から学ぶべきことは、最高責任者である首相が同じように、かつて自国による被害を受けた相手国に赴き、犠牲となった人々を慰霊する勇気ある決断ではないか。例えば、安倍首相が中国の南京市や韓国の元日本軍「慰安婦」たちが共同生活をする「ナヌム(分かち合い)の家」を訪問する決断である。
もちろん日本の保守・右派勢力からの猛反発は避けられまい。しかしオバマ大統領も、「原爆投下で戦争の終結が早まり、むしろ多くの命が救われた」と考えるアメリカ国民が半数を超える国内世論の反発、共和党側から「謝罪外交」と激しい非難を浴び、今年の大統領選挙で民主党候補に不利になる危険をおかしながらも、あえて広島訪問を決断した。その“勇断”は「親密な同盟国」である日本が見習うべきことではないか。
「ヒロシマは“核兵器廃絶”と全人類の未来に関わる全世界的・普遍的な問題だ。日本の加害・被害の歴史の問題とは次元が違う」という声もあるだろう。しかしかつて日本の加害の犠牲になったアジアの人たちも、“人間の尊厳と生きる権利”を理不尽に強奪されるという、今なお世界各地の紛争地で延々と続く“全世界的・普遍的な暴力”の犠牲者である。「原爆で一瞬にして焼き殺された犠牲者」も「強姦され腹部を切り裂かれて殺された犠牲者」も“人間の尊厳と生きる権利”を理不尽に強奪されるという一点においてなんら違いはないはずだ。
1991年の湾岸戦争をイスラエルで取材して、私が当時暮らしていた広島に戻った時である。私は「平和のメッカ」であるはずのこの広島でこの戦争に対する反戦運動が湧き起こっているに違いないと期待した。しかし私は広島でそれを目にすることはなかった。ある平和団体の知人に尋ねると、「あれは通常兵器による戦争だから」という答えが返ってきた。「核兵器が絡まない運動は、“ヒロシマ”を薄める」という声も聞いた。ヒロシマは欧米に向けては「平和のメッカ」としての発信力をもつかもしれないが、中東をはじめ世界各地の紛争地やかつて日本が侵略したアジアの国々に同様の説得力をもちえるだろうか。
安倍政権と与党・自民党は、現職の米大統領の広島訪問を政治的に最大限利用しようとするだろう。実際、「朝日新聞」(5月11日朝刊)が伝えるように、「日本人にとって一番深い傷である広島を、米国のトップが慰霊のために訪れることは、日米関係が極めて健全で良好であることの証左だ」(谷垣・自民党幹事長)、「支持率もまた上がるだろう。このまま参議院選に突入だ」(自民党幹部)といった声が上がっている。
安倍首相自身も早々とオバマ大統領の広島訪問に同行することを決めた。全世界の注目を浴びるこのオバマ氏への同行は、安倍首相にとって日米関係の親密さと自身の存在を世界にアピールできる絶好の機会だととらえているにちがいない。
オバマ氏もまた、「大統領の理性と良心に基づく英断」と称賛されるこの広島訪問を、2009年のプラハ演説で「核(兵器)なき世界」を提唱しノーベル平和賞まで受賞しながら実質的な成果を上げきれなかった大統領任期中に、何としても自身の「遺産」を残すための“最高の舞台”として選んだ、と考えるのはあまりに穿った見方だろうか。
プラハ演説がそうであったように、広島でのオバマ演説にあまりに大きな期待をかけると、将来、大きな失望を味わうことになるだろう。いま世界が真に求めているのは、オバマ氏が大統領としての「遺産」を残すための高邁な演説ではなく、核廃絶に向けた実際の行動とその結果なのだから。
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