2017年8月7日(月)
6月29日に現地入りして、40日近い日が過ぎた。明日、帰国の途に就く。
今回のパレスチナ取材の目的の1つは、9月に招聘するイスラエル人ジャーナリスト、アミラ・ハスの現地での取材の様子を取材し、来日に関して彼女と詳しい打ち合わせをすることだった。実は、私はパレスチナ占領50年目の5月下旬~6月初旬に現地入りする予定だったが、アミラが1カ月間イスラエルを離れるとのことだったので、現地入りを1カ月ほど延期した。
アミラ・ハスとガザで知り合って25年近くになるが、実はアミラの取材現場に立ち会う機会はほとんどなかった。お互いそれぞれの取材で忙しかったし、何よりもアミラは他のジャーナリストに同行取材されることを嫌った。彼女にはこの25年間で2回ほどインタビューしたが、「取材するジャーナリストの自分が、なぜ取材されなければならないのか」と嫌がるなか、「旧知の仲」でなんとか実現したインタビューだった。
今回、「招聘の広報のために、どうしても、あなたの現地での仕事を取材しなければならない」と説得し、アミラはやっと私の同行取材を許した。
61歳になるアミラが、精力的に現場で取材する様子の一部は、これまでのコラムで紹介したが、数回、現場に同行し彼女の取材現場を目の当りしてつくづく思ったのは、もっと早くアミラ・ハスの取材現場に立ち会っておくべきだったということである。
「ジャーナリストはなぜ、何を、どう伝えるのか」というジャーナリズムの基本を、私は彼女から今回改めて教えてもらった。60半ばにさしかった今からでは遅すぎるのかもしれないが、これからの自分のジャーナリストとしてのあり方を改めて見直すきっかけをアミラに与えてもらった気がする。そして正直、彼女を前にして、私は「“パレスチナ”を追い、伝えるジャーナリスト」と公言するのが恥ずかしくなった。
ではこれまで30年を超える私の“パレスチナ”との関わりは意味がなかったのかというと、そうは思わないし、思いたくない。組織ジャーナリズムの世界でジャーナリストとしての基本を学び訓練を受ける機会もなかった私は、“パレスチナ”の現場で、文字通り手探りで試行錯誤しながらジャーナリストとしての仕事を学んできた。そして、“抑圧”とは、“自由”とは、“人間の尊厳”とは、“個人”と“社会”との関係とは、そして“人の幸せ”とは、などジャーナリストとして、いや一人の人間として学ぶべきことを、私は“パレスチナ”の現場で学んできた。そういう意味で、“パレスチナ”は私にとって“人生の学校”だった。
でも、アミラ・ハスの「“パレスチナ”を追い、伝えるジャーナリスト」としての仕事には、私のこれまでの仕事は、逆立ちしたって彼女の足元にも及ばない。ならば、“パレスチナ”と30年以上関わってきた私の半生は何だったのか。その私の役割は何なのか──と自問せざるをえない。
そして今、頭に浮かぶ1つの答えは、「パレスチナと日本を結ぶ“橋渡し”」である。つまり「“パレスチナ”のもつ“普遍的なテーマ”を、日本の諸問題の中に見出し、それによって“パレスチナ”を日本に引き寄せていく」ような仕事、「日本側もそれによって、自らが抱える問題が決して『孤立した特殊な問題』ではなく、“パレスチナ”と同じように、国際的な問題と“普遍的なテーマ”であることを認識できる」ような仕事をすることである。長年、“パレスチナ”と関わった日本人のジャーナリストとしての私の役割は、そこにあるのではないかと思い至ったのである。
今回、アミラ・ハスの日本招聘で、私が最も重点を置いている「アミラの『オキナワ』取材」を、その実例にしたいと願っている。つまりアミラ・ハスという“パレスチナ”を知り尽くしたジャーナリストの目を通して、「オキナワ」の中に“パレスチナ”と共通する“普遍的なテーマ”を見出そうとする狙いである。それは“パレスチナ”と長年関わった日本人ジャーナリストの私が果たすべき、「パレスチナと日本を結ぶ“橋渡し”」としての役割でもあると考えている。
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