Webコラム

日々の雑感 361:
YIDFF 山形国際ドキュメンタリー映画祭 2107(1)

2017年10月7日(土)

 2009年以来、通い続けている「山形国際ドキュメンタリー映画祭」(山形映画祭)も、今年は無理だろうと諦めていた。今月中旬まで日本に滞在する外国の客人の世話で動きが取れないと思っていたからだ。しかしなんとか3日間だけ空けることができた。この限られた日数の中で観れるだけ観てやろうと意気込んで今年も山形やってきた。

 山形映画祭は実に「懐が深い」。感動の余韻に浸り、観た直後はもう誰とも口をききたくないほどに心揺さぶられる映画に出会うかと思うと、「なぜこんな映画を選ぶのか!」と審査員を罵倒したくなる映画もプログラムのあちこちに巧妙に散りばめられている。
 初日の今日もそうだった。『私はあなたのニグロではない』(米国)、『また一年』(中国)、『人として暮らす』(韓国)そして『願いと揺らぎ』(日本)の4本の映画を観た。

『私はあなたのニグロではない』

 『私はあなたのニグロではない』は、アメリカ社会の根深い黒人差別の歴史と現状を、暗殺された3人の黒人活動家、メドガー・エヴァーズ、マルコムX、キング牧師の資料映像を駆使して、彼らと親交のあった著名な黒人作家ジェームス・ボールドウィンの過去のテレビ番組や講演での鋭い分析を元に描いた作品だ。全編に、過去の劇映画や社会的な事件の記録映像を散りばめながら、白人たちの深層心理に染みついた黒人差別意識を暴いてみせる。私はこの映画から「ドキュメンタリー映画には、それを表に出すか出さないかは別いして、作り手の視点、メッセージが明確でなければならない」という思いをいっそう強くした。つまり「これを伝えずにおくものか!」という作り手の強い思いである。

『私はあなたのニグロではない』公式サイト

『また一年』

 それと対照的な作品に見えたのが『また一年』だ。中国・武漢のある出稼ぎ労働者家庭の寝室、居間、ダイニングを兼ねた狭い一室にカメラを据え、3世代5人家族の日常生活を1年にわたって切り取った映画である。カメラの前で起こる家族の日常の一部を映し出した長回しの映像をほぼ編集することなく映し出す。私たちの日常がそうであるように、それは変哲もなく単調で退屈なシーンが延々と続く。「なぜこんな映像を見せられるのか」と私は途中から苛立ち始めた。そして1時間を過ぎた頃、脳卒中で半身不随になった義母が松葉づえをつきながら、身体を引きずるように移動する様子に、嫁が「何をのろのろしているのよ! ちゃんと背筋を伸ばしてシャキとしなさいよ!」と罵声を浴びせるシーンが映し出されたとき、私はその“残酷さ”に耐えられなくなり、会場を出てしまった。私はこの若い女性監督がこの映画で何を伝えたいのかわからず、その退屈さと残酷さに我慢できなくなったのだ。
 登場人物がほとんどカメラを意識していないように見え、家族の恥部もさらけ出し1年にわたって撮影させたのだから、この家族と監督、カメラマンとの深い信頼関係が構築されていたのだろう。しかし、上映後のQ&Aで、ジュー・ションゾー監督は、「この映画はまだその家族に見せていない」と告白し、その理由として「見せるなら、パソコンの小さな画面ではなく、映画館で大きな画面で見せたい。中国でまだその機会がないから」と語った。私は「えっ!」と思った。これほど、家族のプライベートな生活や会話、ときには家族の恥部をさらけ出した映画なら、まず家族に見せて了解を得るべきだろう。これは私の穿った邪推だが、映像を見た家族があまりに赤裸々な自分たちの姿に羞恥して公開を拒否することを恐れて、監督は家族に見せなかったのではないか。もし私があの嫁だったら、病身の義母を罵倒する自分の姿を映画として公になることを拒否するだろう。もし家族に公開を拒否されたら、1年間の撮影とその後の編集に費やした時間と労力、経費はすべて水の泡になってしまう。それを避けるために、まず公開してから、家族に見せよう──そういう思いがこの監督にはなかったろうか。
 撮影した相手、とりわけ信頼関係を築き撮らせてもらった取材対象に、出来上がった映像を見せるときの迷い、恐怖心は、ドキュメンタリー映画の作り手なら必ず経験するはずだ。その迷いや恐怖心にどう向き合い行動するか、もし上映を拒否されたとき、それにどう対処するかは、まさに作り手の映画を作る姿勢、人間性が問われる場面である。

 そのことを改めて考えさせられたのは、映画『願いと揺らぎ』の我妻和樹監督の発言だった。それは後に書くことにする。
 『また一年』のQ&Aの最後に、私はジュー・ションゾー監督に、「この映画で伝えたかったメッセージは何ですか?」と訊いた。すると監督はこう答えた。
 「私の映画にはメッセージはありません。私たちが1年間、あの部屋にいた経験を伝えたかったんです」と答えた。またパンフレットの「監督のことば」の中には「『また一年』制作に際して、私が考えていたのは、ありふれた出来事の集積が持つ力を吟味し、時の流れによっていかに何でもないことが美しく、また謎めいてくるかを明らかにしよう、ということである」と書いている。
 この映画はスイス「ヴィジョン・デュ・レール映画祭」で最優秀長編作品賞、モントリオール国際ドキュメンタリー映画祭で大賞を受賞している。世間の評価では「素晴らしい映画」なのだろう。でも、「ドキュメンタリー映画には『これを伝えずにおくものか!』という強い思いが不可欠だ」という「狭い、偏ったドキュメンタリー観」に凝り固まった私から見れば、「駄作」であり「半面教師」の映画である。

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